作品タイトル不明
第78話 人質
【七年前・冬】
「何だと——!?」
セレリックの怒声が夜の屋敷に響き渡った。窓硝子が震え、燭台の炎が大きく揺らいだ。
「もう一度言ってみろ、オースティン!」
オースティンは父に抱き起こされながら、震える声で全てを話した。老人のこと。星淵の隼のこと。そして——イザベラとレオンが連れ去られたこと。
「エリーゼ様を……三日以内に……星霜の塔に連れてこいと……」
「星霜の塔……北の廃墟か……」
セレリックの顔が蒼白になった。怒りだけではない。恐怖と、何か深い後悔のような色が浮かんでいる。
「……なぜだ。なぜ、今になって……」
オースティンには、父が何を言っているのか分からなかった。
「母さんが——!?」
悲鳴のような声と共に、エイドリアンが裸足のまま駆けつけてきた。普段は落ち着いた兄が、顔面蒼白で弟の胸倉を掴む。
「説明しろ! 一体何があったんだ!」
「俺が……あの老人に屋敷のことを教えたんだ。街で優しくしてもらって、つい——」
「落ち着け、エイドリアン」セレリックが二人の間に入り、引き離した。その目は既に戦場の指揮官のそれに変わっていた。「今は責めている場合じゃない。馬を用意しろ! 精鋭を十二名! 騎士団にも連絡を入れろ!」
使用人たちが散っていく。松明が次々と灯り、馬の嘶きが響き始めた。
オースティンも同行しようとしたが、傷が深く、馬に跨った途端に崩れ落ちた。
「お前には、ここで屋敷を守る役目がある」セレリックは馬上から見下ろした。「……お前を責めるつもりはない。あの男に騙されたのは、お前だけじゃない。私も昔、同じ過ちを犯した」
その言葉の意味を問う間もなく、セレリックは馬首を巡らせた。
「俺も行く——!」とエイドリアンが叫んだが、「足手まといになるだけだ」と一言で切り捨てられた。
蹄の音が遠ざかる。残された兄弟は、ただその背中を見つめることしかできなかった。
◆◇◆
追跡隊は三日三晩走り続けたが、星淵の隼の足取りは霧のように消えていた。星霜の塔に辿り着いた時には、もぬけの殻だった。残っていたのは、まだ僅かに温かい焚き火の灰だけ。
セレリックは壁を殴りつけた。拳から血が滲む。
「イザベラ……!」
その声は、廃墟に虚しく響いて消えた。
◆◇◆
星霜の塔から遥か北東——人里から何日も離れた山の中腹に、打ち捨てられた修道院があった。
その地下室に、イザベラとレオンは監禁されていた。
冷たい石の床。低い天井。黴の匂い。厚い樫の扉には外から鍵がかけられ、小さな窓は人が通れる大きさではない。
レオンは壁に背をもたれ、膝を抱えていた。いくら前世の記憶があっても、今の自分は八歳の子供に過ぎない。体力も魔力もない。握りしめた拳は、ただ小さかった。
「怖いのは、当たり前よ」
イザベラが隣に座り、レオンの手を取った。彼女の手もまた冷たかったが、不思議とどこか温かい。
「怖くても、考え続けなきゃ。諦めなければ、必ず道は開ける」
「……俺には何もない。魔力もない、力もない——」
「あなたには頭がある。それは魔力よりも大切なものよ」
レオンは深呼吸した。前世の知識を必死にかき集める。扉の蝶番、壁の弱い部分、見張りの交代時間——八歳の子供にできることは限られている。だがゼロではない。
「あの老人は俺を人質にして、エリーゼ母上を呼び出そうとしている。なら母上が来るまで、俺たちを殺さないはずだ」
「……賢い子ね」イザベラは少し驚いたように言った。
「それに、あの老人は俺たちを縛りもしていない。傷つけたくない理由が、何かあるはずです」
「なら、私たちがやるべきことは?」
「時間を稼ぐこと。そして——逃げる機会を待つこと」
イザベラはレオンの頭を撫でた。「あなたは本当に賢い子ね。自分を『デキソコナイ』なんて、思わないで」
その言葉に、レオンの心臓が跳ねた。
◆◇◆
オースティンに言われた言葉が、まだ耳に残っている。
『このデキソコナイが——! とっとと消えろ!』
頭では分かっている。あれは自分を逃がすための言葉だ。でも——この八年間、何度も聞いてきた言葉でもあった。使用人の囁き。領民の視線。その度に、傷ついてきた。
「オースティンのこと、気にしているの?」
イザベラが静かに尋ねた。
「……少しだけ」
「あの子は嘘が下手なの。本当にあなたのことをそう思っていたら、あんな必死な顔で叫ばないわ」イザベラは苦笑した。「母親だからね。あの子たちがどんな時に嘘をつくか、全部知っているのよ」
「……イザベラ様は、なぜ俺を助けてくれたんですか。俺は、イザベラ様の子供じゃないのに」
「変なことを聞くのね」イザベラは微笑んだ。「あなたは、オースティンとエイドリアンの弟よ。それだけで十分な理由だわ」
「……」
「それに——あなたを一人にしておけなかった。お屋敷の中で、誰にも理解されず、ずっと一人で耐えてきたでしょう? 私は、そんなあなたのことを、ずっと見ていたわ。助けてあげられなくて、ごめんなさい」
レオンの目に涙が滲んだ。この世界に転生して八年。ずっと孤独だった。でも——見ていてくれた人がいた。
イザベラはレオンを抱きしめた。「泣いていいのよ。怖い時は怖いって言っていい。あなたはまだ子供なんだから」
レオンは声を殺して泣いた。前世の記憶があっても、今この瞬間、彼は確かに八歳の子供だった。
◆◇◆
どれくらい経っただろうか。レオンはイザベラの腕の中で少しだけ眠り、目が覚めた時、闇の色がほんの少し薄くなっていた。
「俺、絶対に諦めません。必ずここから逃げ出してみせます」
「頼もしいわね」
「俺は……デキソコナイなんかじゃない」
「ええ、知っているわ」イザベラはレオンの頬に手を当てた。「でも、無理はしないで。私たちは二人でここにいる。一人じゃないわ」
その時——地下室の扉が開いた。
老人が立っていた。朝の薄明かりを背にして、その姿は黒い影のように見える。
「水と食料を持ってきた」老人は木の盆を差し出した。パンと干し肉、水の入った瓶。穏やかな口調だが、目は笑っていなかった。
「エリーゼに使者を送った。三日以内に彼女がここに来なければ——」老人はレオンを見つめた。何の感情も浮かんでいない目。「お前の命はないと思え」
レオンは震えそうになる体を堪え、老人をまっすぐ見つめ返した。
「……分かりました」
老人の眉が僅かに動いた。「度胸のある子だな。お前の父親も、そういう男だった。どんな状況でも、決して目を逸らさなかった」
レオンの心臓が跳ねた。俺の父親を——知っているのか。
「俺の父親のことを、知っているんですか」
沈黙。老人の目に一瞬だけ、悲しみのような、怒りのような色が過ぎった。
「知りたければ、三日後に聞け。お前がまだ生きていればな」
扉が閉まった。外から鍵をかける音が響く。
イザベラがレオンの手を握った。「よく頑張ったわね」
「まだ、何も始まっていません。三日以内に、何とかしないと」
「一緒に考えましょう」
レオンは頷いた。一人じゃない。
【続く】