軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第77話 冬

【七年前・冬】

夜が更けていた。

セレストーム家の邸宅は静まり返り、ほとんどの部屋の灯りが消えていた。窓という窓から漏れる光はなく、月明かりだけが石畳の庭園を照らしている。冬の夜風が吹き抜け、木々の枝が不気味な音を立てていた。

明日の朝、エリーゼと子供たちは別邸へ発つ予定だった。ティモシー、レオン、エレン——三人はそれぞれの部屋で眠っている。荷造りの準備は既に終わり、馬車も手配されていた。だが、誰も理由を知らされていない。なぜ急に別邸へ行くのか。なぜ父は残るのか。不安が屋敷全体を覆っていた。

◆◇◆

オースティンは自分の部屋で槍の手入れをしていた。

北棟の自室。質素な部屋。机と椅子、ベッドだけの簡素な空間。蝋燭の炎が揺れ、影が壁に踊っている。

レオ・ルガールの刃を布で拭きながら、昨日酒場で出会った老人の言葉を思い出していた。あの白髪の老人。優しい笑顔の裏に、何か恐ろしいものを隠していた男。

『君の弟を、見捨てるなよ』

『封印された魔力は——いつか必ず目覚める』

あの言葉の意味が、まだ分からない。レオンの魔力は封印されたまま、もう一年以上が経っている。父は諦めたようだった。もう、レオンには期待していない。魔力のない子供として、家の片隅で生きていくしかないのだろうと。

オースティンは槍の刃を見つめた。月光を受けて、青白く光っている。この槍で、レオンを守れるだろうか。魔力が使えない弟を、この槍で——

◆◇◆

**コンコン。**

扉を叩く音がした。

乾いた、硬い音。まるで骨が木を叩くような、不吉な響きだった。

こんな夜更けに、誰が——

オースティンは槍を手に取り、扉に近づいた。足音を殺し、呼吸を整える。右手で槍を構え、左手で扉の取っ手に触れる。冷たい金属が、手のひらに張り付くように冷たかった。

心臓が激しく打っている。何か——何かがおかしい。この空気。この静けさ。まるで嵐の前のような、不吉な予感。

扉を開けた。

◆◇◆

その瞬間、目の前に白い影が立っていた。

月光を背に、人の形をした影。

あの老人だった。

白髪。深い皺。だが、その目は——酒場で見た優しい老人の目ではなかった。氷のように冷たく、底知れない闘志が宿っている。まるで狩人が獲物を見る目だった。

そして——老人の背後には、白い外套を纏った者たちが何人も立っていた。月光を受けて、その外套は幽霊のように輝いている。五人——いや、六人。全員が武器を持ち、静かにオースティンを見つめていた。

オースティンの背筋に、冷たいものが走った。

◆◇◆

「久しぶりだな、オースティン」

老人は穏やかに微笑んだ。だが、その目は——酒場で会った時とは全く違っていた。その瞳の奥に、何か恐ろしいものが渦巻いている。まるで深淵を覗き込むような、吸い込まれそうな感覚。

「あんた……どうやってここに……」

オースティンは槍を構えた。だが、手が微かに震えている。恐怖ではない。いや、恐怖もあった。だが、それ以上に——怒りだ。騙された。利用された。この老人は、最初から——

「君が教えてくれただろう? この屋敷の構造を」

老人は一歩、部屋に踏み込んだ。その動きは静かだった。音がしない。まるで影が動いているようだった。背後の白い外套の男たちも、無言のまま続く。

「感謝しているよ。おかげで、警備の目を掻い潜るのは簡単だった。北門の見張りが二人。東門が三人。だが、裏庭の古い井戸の脇には誰もいない——君が話してくれた通りだった」

オースティンの顔から、血の気が引いた。

自分が話したのか。酒場で。何気ない会話の中で。屋敷のこと。警備のこと。家族のこと。全て——この老人に、情報を抜き取られていた。

◆◇◆

オースティンは槍を構え直した。全身に力を込める。筋肉が緊張し、心臓が激しく打っている。

「何が目的だ」

「単刀直入に聞こう」

老人の目が、鋭くなった。笑顔が消え、その顔に——冷酷な表情が浮かんだ。

「エリーゼ・アシュモアは、どこにいる?」

「……何?」

「セレリックの妻だ。アシュモア家の血を引く女。星象魔法の継承者。彼女は今、この屋敷にいるのか?」

星象魔法——オースティンはその言葉を聞いたことがあった。古代の魔法。星の力を操る、失われた術。アシュモア家に伝わる、秘密の力。

◆◇◆

オースティンは答えなかった。だが、その沈黙が——答えになっていた。顔が強張る。目が一瞬、無意識に本邸の方向を見てしまう。それだけで十分だった。

「答えないか。まあいい」

老人は背中の包みに手を伸ばした。雪白の絹が解け、中から一振りの槍が現れた。

その瞬間——月光が槍身を照らし、青白い光が放たれた。

まるで凍った星のように、槍が輝いていた。刃は透き通るような青。柄には古い文字が刻まれている。見たこともない文字。だが、その文字から——何か恐ろしい力が滲み出ているのが分かった。

「星霜の槍——氷華」

老人は静かに呟いた。

「君には期待していたんだがな。もう少し賢い子だと思っていた」

老人が動いた。

◆◇◆

その速さは——人間のものではなかった。

一瞬で、老人の姿が消えた。いや、消えたのではない。速すぎて見えないだけだ。

次の瞬間、老人はオースティンの背後にいた。

「遅い」

老人の声が、耳元で響いた。

オースティンは咄嗟に槍を横に振った。だが、空を切る。何も当たらない。老人の姿は、もうそこにはなかった。

「ここだ」

今度は右側から声がする。オースティンは槍を突き出した。だが、また空振り。

「いや、ここだよ」

左側。また外れる。

オースティンは歯を食いしばった。速い。速すぎる。あの老人、酒場で見せた動きとは全く違う。あの時は——手加減していたのか。いや、演技だったのか。

◆◇◆

「外で戦おう」

老人は窓の方を指差した。

「ここでは狭すぎる。君の槍も、私の槍も、満足に振るえない。それに——君の部屋が壊れるのは、可哀想だろう?」

オースティンは何も言わなかった。ただ、槍を構えたまま、窓に向かって跳んだ。ガラスが砕け散る。**ガシャン!** 冷たい夜風が顔を叩く。地面に着地し、すぐに構えを取る。

老人も、ゆっくりと窓から降りてきた。まるで羽毛のように、音もなく着地する。

白い外套の男たちも続く。一人、また一人。無言のまま、庭園を取り囲んでいく。

◆◇◆

**夜の庭園に、金属がぶつかり合う音が響いた。**

部屋の中では狭すぎる。オースティンは老人を庭園に誘い出した——いや、誘い出されたのか? どちらが主導権を握っているのか、もう分からなくなっていた。

月明かりの下、二つの影が激しく交錯する。

オースティンの赤い髪が、風に揺れる。炎のように。

老人の白髪が、月光に輝く。氷のように。

槍と槍がぶつかり合う。**ガキィン!** 金属の悲鳴が夜空に響き渡った。火花が散る。青白い光が、一瞬庭園を照らす。

◆◇◆

「いい突きだ」

老人は片手でオースティンの槍を受け止めながら、穏やかに言った。その声には、まるで授業をしているような、教師の響きがあった。

「教えた甲斐があった。前腕と槍身を一直線に。息を吐く瞬間に全ての力を送り出す。覚えているじゃないか」

「黙れ——!」

オースティンは怒りを込めて突きを放った。裏切られた怒り。騙された屈辱。母と弟を危険に晒してしまった自責。全ての感情を、この一撃に込める。

だが、老人はその全てを読んでいた。

当然だ。

教えたのは、老人自身なのだから。

オースティンの槍の軌道を、老人は完全に理解している。どこに突くか。どう動くか。全ての癖を、全ての習慣を、老人は知っていた。

◆◇◆

「だが——まだ足りない」

老人の槍が動いた。

信じられない速度で。

青白い光が、弧を描く。まるで流星のように、夜空を切り裂いた。

オースティンは咄嗟に身を翻したが——間に合わなかった。

槍の柄が、肩に叩き込まれた。

ゴッ——!

鈍い音。骨が軋む。

「くっ——!」

オースティンは後退し、体勢を立て直す。肩が——動かない。感覚がない。いや、痺れている。痛みが遅れて襲ってくる。全身に電流が走ったような、鋭い痛み。

だが、構えを崩さなかった。歯を食いしばり、槍を握りしめる。右肩が使えない。なら、左手で——

◆◇◆

「なぜだ」

オースティンは震える声で言った。口の中に血の味がする。舌を噛んだのか。唇から血が滴っていた。

「なぜ、俺に槍を教えた。最初から、これが目的だったのか」

「そうだ」

老人は槍を肩に担いだ。その動作は優雅で、まるで舞を舞っているようだった。

「君のおかげで、この屋敷の構造がよく分かった。警備の配置も、逃げ道も、全て。君は本当に、素直な子だったよ。私が少し褒めれば、すぐに色々なことを話してくれた」

老人は微笑んだ。だが、その目は笑っていなかった。

「だが、本当に感謝しているのは別のことだ」

老人は槍を構え直した。

「君の槍術は、見る価値があった。才能がある。もう少し時間があれば、本当の強者になれただろう」

◆◇◆

二人は再び動いた。

槍と槍がぶつかり合う。

一合——オースティンの突きを、老人が軽く受け流す。

二合——老人の払いを、オースティンがかろうじて防ぐ。

三合——オースティンは全力で攻めた。老人に教わった通り、前腕と槍身を一直線にし、全ての力を一点に集中させた。

だが、差は歴然だった。

老人の槍は、まるで生き物のように動く。オースティンの攻撃は全て読まれ、反撃は全て防げない。

四合——オースティンの突きが空を切る。

五合——老人の反撃がオースティンの脇腹を掠める。

**六合——**槍が手から弾かれそうになる。オースティンは必死に握りしめる。

**七合——**

老人の槍の柄が、オースティンの腹部に叩き込まれた。

◆◇◆

ドスッ——!

「がはっ——!」

オースティンは吹き飛ばされ、地面に転がった。肺の中の空気が全て吐き出される。呼吸ができない。喉が焼けるように痛い。視界が歪む。星が見える——いや、これは本当の星なのか、それとも目がおかしくなったのか。

地面に倒れたまま、オースティンは咳き込んだ。血が口から零れる。内臓が——やられている。

(勝てない——)

(この人には、勝てない——)

◆◇◆

「終わりだ」

老人はゆっくりと近づいてきた。その足音が、地面に響く。一歩、また一歩。まるで死神が近づいてくるような、恐ろしい音。

「大人しくしていれば、殺しはしない。君は目的ではないからな」

オースティンは地面に手をついて立ち上がろうとした。だが、腹部の痛みで体が言うことを聞かない。手足に力が入らない。視界が歪み、地面が揺れているように見える。

**(くそ……動け……動けよ……!)**

立たなければ。

戦わなければ。

この老人たちを——止めなければ——

◆◇◆

その時——

「何の音だ——!」

声がした。屋敷の方から。

子供の声。

その声を聞いた瞬間、オースティンの心臓が止まりそうになった。

オースティンは目を見開いた。

**レオンだった。**

八歳の少年が、寝巻き姿のまま庭園に飛び出してきた。銀色の髪が月光に輝いている。その漆黒の瞳には、恐怖と——それでも逃げない決意が宿っていた。

その小さな体が、夜風に震えている。薄い寝巻きだけで、冬の夜の外に——

手に、小さな木の剣を握っている。訓練用の、ただの玩具。魔力も込められていない、ただの木の棒。

「兄上! 大丈夫か!」

レオンの声は震えていた。だが、足は前に進んでいた。恐怖で体が震えているのに——それでも、兄に駆け寄ろうとしていた。

◆◇◆

「来るな——!」

オースティンは叫んだ。地面に倒れたまま、血を吐きながら、弟に向かって叫んだ。その声は、かすれていた。だが、必死だった。

「レオン、逃げろ!」

「でも——兄上が——」

「聞こえなかったのか!」

オースティンは歯を食いしばった。腹部が痛む。だが、それ以上に——恐怖が込み上げてきた。

レオンがここにいたら、危険だ。

この老人は、エリーゼを狙っている。

レオンはエリーゼの息子だ。

もし老人がそれに気づいたら——

◆◇◆

「お前なんかがいても邪魔なんだよ! 分かるだろ!」

オースティンは叫んだ。その言葉は、心にもないことだった。だが、言わなければならなかった。レオンを、ここから遠ざけなければ。

「この落ちこぼれが——! とっとと消えろ!」

「……」

レオンは、固まった。

その小さな体が、ピクリと震えた。

銀色の髪が、月光の中で揺れている。

顔から、血の気が引いていく。

唇が震え、目に涙が浮かんでいる。

◆◇◆

**落ちこぼれ。**

その言葉を、オースティンから聞いたのは——初めてだった。

他の者からは、何度も言われてきた。

エイドリアンから。「お前は欠陥品だ」と。

使用人たちから。「魔力のない坊っちゃん」と。

時には、父からも。「失敗作だ」と。

だが、オースティンだけは——一度も、その言葉を使わなかった。

あの日、庭園で鍛錬した時も。

魔力を失って落ち込んでいた時も。

誰もが自分を見捨てた時も。

オースティンは決して、レオンをそう呼ばなかった。

それなのに、今——

オースティンの口から、その言葉が——

◆◇◆

レオンの握っていた木の剣が、地面に落ちた。

**カラン——**

乾いた音が、静かな庭園に響いた。

涙が、頬を伝っていた。八歳の少年の、小さな顔を。

「……ごめん、なさい……」

レオンは呟いた。その声は、か細かった。まるで消えてしまいそうな、儚い声。

「ごめんなさい……俺、邪魔、だから……」

レオンは後ずさりした。一歩、また一歩。その足は、フラフラと不安定だった。

◆◇◆

「ほう」

老人が、興味深そうに二人を見ていた。その目が、レオンに向けられる。

老人は一歩、レオンに近づいた。その目が、まるで商品を値踏みするように、レオンの全身を見回す。

「銀の髪……」

老人の目が、鋭くなった。

「お前、エリーゼの息子か?」

レオンは後退した。老人の目が、獲物を見つけた狩人のように光っている。恐怖で体が震える。足が動かない。逃げたいのに、体が言うことを聞かない。

「なるほど。これは面白い」

老人は微笑んだ。その笑みは、ぞっとするほど冷たかった。まるで氷の彫刻のような、感情のない笑顔。

「エリーゼ本人を探す必要はなかったわけだ。この子を連れて行けば、エリーゼは自分から出てくる。母親というのは、そういうものだからな」

◆◇◆

「させるか——!」

オースティンは渾身の力を振り絞り、立ち上がった。槍を拾い、老人に向かって突進する。足がふらつく。視界が歪む。だが、構わない。

「レオンに触れるな——!」

だが、体が言うことを聞かない。さっきの一撃で、内臓がやられている。足がふらつき、突きに力が入らない。槍の先が、大きく揺れている。

老人は軽く身をかわし、オースティンの背中を蹴った。

ドスッ——

「がっ——!」

オースティンは再び地面に叩きつけられた。顔が地面に激突する。鼻から血が流れる。口の中が、血の味でいっぱいになる。

◆◇◆

「兄上!」

レオンが駆け寄ろうとした。その小さな足が、オースティンに向かって走り出す。

だが——

白い外套の男たちが、レオンを取り囲んでいた。

いつの間にか、レオンの周りに五人の男たちが立っている。まるで壁のように、逃げ道を塞いでいる。

「離せ——! 離せよ——!」

レオンは暴れたが、八歳の子供の力では、大人たちに敵わなかった。両腕を掴まれ、身動きが取れなくなる。小さな体が、男たちの腕の中で必死にもがいている。

「兄上——! 兄上——!」

レオンの声が、夜空に響く。泣き叫ぶ声。助けを求める声。

◆◇◆

「レオン——!」

オースティンは地面を這いながら、弟に手を伸ばした。血まみれの手が、空を掴む。

だが、届かない。

遠い。あまりにも遠い。

**(くそ——! くそ——!)**

(俺のせいだ——)

(俺があいつに屋敷のことを教えたから——)

(俺が弱かったから——)

◆◇◆

**その時——**

**冷たい風が、庭園を吹き抜けた。**

いや、風ではない。

**魔力だ。**

氷の魔力が、庭園を包み込んでいく。

空気が凍る。地面に霜が降りる。木々の葉が、瞬く間に氷に覆われていく。

温度が急激に下がる。吐く息が白くなる。オースティンの体が震え始める。寒い。冬の夜だというのに、さらに寒くなった。まるで氷原の真ん中にいるような、骨まで凍りつくような寒さ。

これは——

霜華の術。

母の、魔法。

◆◇◆

「その子たちから、離れなさい」

凛とした声が、夜空に響いた。

その声は、静かだった。だが、力強かった。まるで氷の刃のように、鋭く、冷たく、そして——美しかった。

老人が振り返る。オースティンも、レオンも、その方向を見た。白い外套の男たちも、一斉にその方向を向く。

屋敷の入り口に——淡い水色の髪の女性が立っていた。

月光を受けて、その髪は銀色に輝いている。まるで凍った滝のように、長い髪が風に舞っていた。

**イザベラ。**

**オースティンとエイドリアンの母。**

◆◇◆

「母上——」

オースティンは呟いた。その声は、かすれていた。血が口から零れる。

イザベラは静かに庭園に歩み出た。その足取りは、優雅だった。まるで氷の上を滑るように、音もなく、滑らかに。

その周囲に、氷の結晶が舞い始めている。

青白い光を放つ、小さな結晶。まるで蛍のように、彼女の周りを舞っている。それは美しく——そして、恐ろしかった。

霜華の術——彼女の一族に伝わる魔法。北方の氷原に住む、霜華の民の秘術。

淡い水色の髪が風に舞い、同じ色の瞳が月光に輝いている。その姿は、まるで氷の女王のようだった。

イザベラは簡素な灰色のドレスを着ていた。宝石も、装飾も何もない。だが、今この瞬間——彼女は、誰よりも気高く、誰よりも美しく見えた。

◆◇◆

「あなたが星淵の隼ね」

イザベラは老人を見据えた。その目には、恐れはなかった。ただ、静かな決意だけがあった。

水色の瞳が、月光の中で輝いている。その目は、氷のように冷たく——そして、どこか悲しげだった。

「私の息子と、この子に、何の用?」

「私の息子と、この子」——イザベラはレオンを、「この子」と呼んだ。自分の息子ではない。だが、守るべき子。

◆◇◆

「これは驚いた」

老人は興味深そうにイザベラを見た。その目に、初めて——驚きの色が浮かんだ。

「霜華の民か。珍しいな、こんなところで会えるとは。北方の氷原を離れた霜華の民など、百年ぶりだろう」

老人は槍を構え直した。その動作に、初めて——緊張が混じった。

「質問に答えなさい」

イザベラの声は、静かだった。だが、その中には——拒絶できない力があった。

「エリーゼ・アシュモアを探している」

老人は真っ直ぐにイザベラを見つめた。

「だが、今はその必要がなくなった」

老人はレオンを指差した。レオンは男たちに囲まれ、両腕を掴まれたまま、恐怖で震えている。

「その子を連れて行けば、エリーゼは自分から出てくる。母親というのは、子供のためなら何でもするものだからな」

◆◇◆

イザベラは一瞬、オースティンとレオンを見た。

オースティンは地面に倒れ、血まみれで、起き上がれない。

レオンは男たちに取り囲まれ、両腕を掴まれ、身動きが取れない。

その目には、涙が浮かんでいる。

イザベラの目が、一瞬揺らいだ。だが、すぐに——決意の色に変わった。

「……そう」

イザベラは静かに言った。その声は、穏やかだった。だが、その中には——揺るぎない決意があった。

「なら、私も一緒に連れて行きなさい」

◆◇◆

「母上!?」

オースティンは叫んだ。その声は、かすれていた。だが、驚きと恐怖で震えていた。

「何を言っている——」

「この子を一人にはさせない」

イザベラはレオンを見つめた。その目には、揺るぎない決意があった。優しさと——母の強さがあった。

「私が一緒にいれば、この子を守れる。少なくとも、あなたたちが乱暴なことをしないように、見張ることはできる」

老人は微笑んだ。その笑顔は、まるで何かを面白がっているようだった。

「面白い女だ。自分も人質になると? 子供を守るために?」

「ええ」

イザベラは頷いた。その動作は、優雅だった。まるで女王が宣言するように。

◆◇◆

「母上、駄目だ——!」

オースティンは地面に手をついて立ち上がろうとした。だが、体が言うことを聞かない。腹部が痛む。視界が歪む。血が口から零れる。

「オースティン」

イザベラはオースティンを見た。その水色の目が、月光の中で輝いている。

「お父様に伝えて。私とレオンは、この人たちと一緒に行くと。エリーゼ様を連れて、助けに来てと」

「そんな——」

「お願い」

イザベラは微笑んだ。いつもの、優しい笑顔だった。

だが、その目には——涙が浮かんでいた。透明な涙。だが、その涙は——凍っていた。頬を伝う前に、氷の粒になって、キラキラと光りながら地面に落ちていく。

「あなたは、私の太陽よ。だから——必ず、助けに来て」

◆◇◆

「面白い女だ」

老人は笑った。その笑い声が、夜空に響く。

「いいだろう。一緒に来るがいい。人質が二人になれば、エリーゼもより早く出てくるだろう」

老人は部下たちに目配せした。白い外套の男たちが、一斉に動く。

「この二人を連れて行け。丁重にな。傷つけるなよ。人質に傷があっては、価値が下がる」

「はっ」

男たちが応える。その声は、低く、冷たかった。

◆◇◆

イザベラはレオンの隣に歩み寄り、その手を握った。

「大丈夫よ、レオン。怖くない」

イザベラの手は、冷たかった。氷のように冷たい。だが——どこか、温かかった。

「イザベラ様……」

レオンの目に、涙が溢れていた。八歳の少年が、必死に涙を堪えようとしていた。

「ごめんなさい……俺が出てこなければ……俺が魔力を持っていれば……」

「謝らないで」

イザベラはレオンの頭を撫でた。その手は優しく、まるで本当の母親のように。

「あなたは何も悪くない。誰も悪くない。ただ——運が悪かっただけ」

イザベラは微笑んだ。

「さあ、行きましょう」

◆◇◆

オースティンは地面に這いつくばったまま、手を伸ばした。血まみれの手が、空を掴む。

「母上——! レオン——!」

だが、届かない。

遠い。あまりにも遠い。

白い外套の男たちが、イザベラとレオンを連れて行く。イザベラはレオンの手を握ったまま、静かに歩いている。レオンは何度も振り返り、オースティンを見ていた。その目には、涙が光っていた。

二人の姿が、夜の闇に消えていく。

「待て——! 待ってくれ——!」

オースティンは叫んだ。だが、体が動かない。立ち上がれない。這うことしかできない。

「母上——!」

◆◇◆

老人は去り際に、オースティンを見下ろした。その目は、冷たかった。だが——どこか、同情のようなものが混じっていた。

「君の父親に伝えろ」

老人の声が、静かに響く。

「エリーゼ・アシュモアを、三日以内に『星霜の塔』に連れてこい。さもなければ——」

老人は微笑んだ。その笑顔は、氷のように冷たかった。

「人質の命は保証しない」

そう言い残し、老人も夜の闇に消えていった。白い外套が、月光の中で揺れる。そして——消える。

◆◇◆

庭園には、オースティンだけが残された。

月明かりの下、倒れたまま、動けない。

血まみれの顔。折れそうな体。震える手。

「母上……レオン……」

涙が、頬を伝っていた。血と涙が混じって、地面に落ちる。

「くそ……くそ……くそ……!」

オースティンは地面を殴った。何度も、何度も。

**ドン! ドン! ドン!**

「俺のせいだ……俺があいつに屋敷のことを教えたから……俺が弱かったから……」

拳から血が滲む。皮膚が裂ける。骨が軋む。だが、痛みなど感じなかった。

心の痛みに比べれば、こんなものは何でもなかった。

◆◇◆

やがて、屋敷から人が駆けつけてきた。

足音が響く。複数の人間が、こちらに走ってくる音。

父のセレリック。兄のエイドリアン。使用人たち。

松明の光が、庭園を照らす。

「オースティン! 何があった!」

セレリックがオースティンを抱き起こした。その声は、震えていた。恐怖と——怒りが混じっていた。

オースティンは震える声で答えた。血が口から零れる。

「母上が……レオンが……連れて行かれた……」

「何だと——!?」

セレリックの顔が、蒼白になった。その目が、信じられないという色になる。

「星淵の隼……エリーゼ様を……三日以内に……星霜の塔に……」

オースティンの意識が、薄れていった。

視界が暗くなる。音が遠くなる。体の感覚が消えていく。

最後に見たのは——エイドリアンの、蒼白な顔だった。

その顔には、恐怖と——何か、複雑な感情が浮かんでいた。

そして——

暗闇。

◆◇◆

【続く】