作品タイトル不明
第75話 レオ・ルガール
オースティンは静かに槍を抱えた。
最後の三突きが気に入らなかった。手首に巻いた布の下で鈍い棘が肌に食い込み、力が途中で散った。
レオ・ルガール——十五キログラムの戦槍。成人の騎士でも持て余す重量を、九歳の少年が毎日振るっている。六歳から三年。手の皮は何度も裂け、治り、裂け、硬くなった。それでもまだ、この槍の全てを引き出せていない。
時折、彼はこの槍をかつて使った者のことを考える。どんな腕をしていたのか。どれほどの力で、この重みを支配したのか。
息を整えていると——背筋に、針のような感覚が走った。
◆◇◆
オースティンの青い瞳が鋭くなり、視線が背後の樫の木立に向いた。
彼には野獣じみた直感があった。理屈ではない。空気の密度が変わったのだ。誰かが——見ている。
四指が槍身を滑り、レオ・ルガールが構えられた。体が張り詰めた弓になり、その弓に獰猛な矢が番えられる。
「……出てこい」
低い声だった。穂先が木立の一点を指す。
◆◇◆
返ってきたのは、笑い声だった。
それも——あくびを噛み殺したような、間の抜けた笑い声。
「ああ、見つかったか。もう少し見ていたかったんだがな」
木立の影から、人影が歩み出た。
◆◇◆
オースティンは構えを解かなかった。
現れたのは老人だった。背丈は二メートルを優に超え、長い白髪が背に流れている。だが纏っているのは高貴な装束ではなく、泥と草の汁で汚れた旅装だった。外套の裾はほつれ、革の長靴には幾つもの修繕の跡がある。
腰に酒袋をぶら下げ、背には銀の絹布で包まれた細長い荷物を背負っていた。二メートル半はある。
老人の傍らに、一頭の白い馬が佇んでいた。銀色の鬣を持ち、蒼い瞳でオースティンを見つめている。額にかすかな角の痕跡があった。幻獣だろう。だがその幻獣も、どこか気だるげに尾を振っている。主人に似たのかもしれない。
「セレストームの子か?」
老人は木の幹に寄りかかり、酒袋の栓を抜きながら尋ねた。
◆◇◆
「……何故、俺の家名を知っている」
「家名は知らん」
老人の蒼い瞳が、オースティンの手元に向いた。酒を一口含み、顎でレオ・ルガールを示す。
「その槍を知っている」
「……」
「レオ・ルガール。獅子の咆哮——いや、本当の銘は違うんだがな。まあいい」
オースティンの目が鋭くなった。この槍の名を知る者は、セレストーム家の人間以外にいないはずだ。
「何者だ」
「通りすがりの老人だよ」
老人は酒袋の栓を戻し、ゆっくりと木から背を離した。
「見せてくれないか。その槍」
「断る」
即答だった。
◆◇◆
老人は気分を害した様子もなく、少し首を傾げた。
「そうか」
穏やかな声だった。だがその蒼い瞳の奥に、一瞬——何かが光った。懐かしさとも、悲しみともつかないもの。
「なら、一つだけ聞いてもいいか」
「……」
「お前、さっきの突き。最後の三本。何が気に入らなかった?」
オースティンは答えなかった。だが心の中で、驚いていた。
見ていたのか。しかも——失敗だと見抜いている。
「力の入れ所が遅い。だろう?」
老人は何でもないことのように言った。
「お前の腕力なら、あの槍の重みは支えられる。だが支えることと、送り出すことは違う。力を爆発させる位置が、半拍遅れている」
オースティンの目が、わずかに見開かれた。
誰にも指摘されたことのない欠点だった。父にも。
◆◇◆
「……あんた、槍を使うのか」
「昔の話だ」
老人は背中の包みに手を伸ばしかけ——やめた。
「今日は見せん。酒が入ってる時に槍は振らん主義でな」
言いながら、さっきまた酒袋に口をつけている。オースティンは少し呆れた。
◆◇◆
「お前、師匠はいるのか」
「いない」
「誰に習った」
「父上に基礎だけ。あとは一人で」
「三年、一人で?」
「ああ」
老人はしばらく黙った。オースティンを見る目が変わっていた。品定めでも同情でもない。何か——確認するような目だった。
「それで、あそこまで振れるのか」
「あそこまで、の意味が分からない」
「褒めてるんだ。素直に受け取れ」
◆◇◆
オースティンは黙った。褒められることに慣れていなかった。どう反応していいか分からず、ただ槍を握る手に力を込めた。
老人はそれを見て、何も言わなかった。
◆◇◆
「明日の夜明け前、ここに来い」
唐突だった。
「……何だと?」
「槍を教えてやる」
オースティンは眉を寄せた。
「何故。俺に教える理由がない」
「理由か」
老人は空を見上げた。夕暮れの光が木立の隙間から差し込み、白髪を淡く染めている。
「——あの槍を、中途半端に振られるのが見ていられない。それだけだ」
槍に対する侮辱とも、オースティンに対する叱咤ともつかない言葉だった。だがその声には、嘘の響きがなかった。
◆◇◆
「あんたの名は」
「ヴァルター。それでいい」
老人は幻獣の傍に歩み寄り、銀の鬣を一撫でした。聖獣は主を迎えるように首を垂れたが、老人は跨らず、手綱を取って歩き始めた。
「乗らないのか」
「酒が入ってる時に馬には乗らん主義でな」
「さっきも似たようなことを言ってたな」
「主義が多い男なんだ」
◆◇◆
老人と聖獣の影が、木立の奥に消えていった。
夕暮れの光が薄れ、森は静寂に沈んでいく。
オースティンは一人、その場に残された。
レオ・ルガールを見下ろす。漆黒の穂先に、最後の陽光が烏金色の線を引いた。
あの老人は、この槍を知っていた。名前だけではない。もっと深い何かを。
槍を握る手に、力を込めた。
明日——行くかどうか、まだ決めていない。だが足は、きっとあの場所へ向かうだろう。
理由は分からない。ただ——あの老人の指摘が、正しかったからだ。
それだけで、十分だった。
【続く】