作品タイトル不明
第2話 二歳の知恵遅れ
実を言うと、レオン・セレストームが生まれた時、誰も彼を天才だなんて呼ばなかった。
それどころか、この子は最初から「おかしい」と思われていた。
石造りの天井。蝋燭の炎が揺れるたびに、粗い石目の上を影が這う。産婆たちが慌ただしく立ち回り、湯を運び、布を絞り、侯爵夫人の手を握って声を張り上げていた。
やがて――産声が、上がるはずだった。
セレストーム侯爵家の四男が、この世に生まれ落ちた。
泣かなかった。
産婆たちの手が止まった。
生まれたばかりの赤子が、じっと目を開けたまま、天井を見上げていた。泣き喚くでもなく、もがくでもなく、ただ黙って、蝋燭の光に照らされた世界を眺めている。
「……泣かないわ」
「息は?」
「してます……してますけど……」
産婆の一人が、おそるおそる赤子の顔を覗き込んだ。
目が合った。
黒い瞳が、まっすぐにこちらを見返していた。
後にこの産婆は、女中仲間にこう語っている。
「あの目はね――赤ん坊の目じゃなかったのよ。まるで老人が、何か珍妙なものでも見るような目だった」
誰も天才とは言わなかった。
ただ、不気味だと思った。
◇
その不気味さは、消えなかった。
レオンは手のかからない赤子だった。泣くことは極めて稀で、決まった時間に眠り、決まった時間に目を覚ました。だが「賢い」と讃える声は上がらなかった。
なぜなら、彼は何も返さなかったからだ。
あやしても笑わない。名前を呼んでも反応しない。目の前で手を振っても、その黒い瞳はこちらを見ているのか、もっと遠い何かを見ているのか分からない。
まるで、この世界に興味がないように。
「あの子、ちゃんと聞こえてるのかしら?」
「聞こえてるそうよ。お医者様がそう仰ってたわ」
「じゃあ、なぜ何も反応しないの?」
「分からないわ。ただ……怖いのよ、あの目が」
女中たちはそう囁き合った。
母エレーゼだけが、レオンを抱きしめて語りかけ続けた。絵本を読み、歌を歌い、名前を何百回も呼んだ。
返事はなかった。
半年が過ぎた。一歳が過ぎた。
同じ年頃の子供たちが「パパ」「ママ」と口にし始める頃になっても、レオンの口からは一音節も出てこなかった。
医師を呼んだ。魔法使いを呼んだ。光明神殿の祝福も受けた。
身体には何の異常もなかった。
「言葉が遅いだけかもしれません」と医師たちは言った。
だが一歳半を過ぎても、何も変わらなかった。
やがて、館の空気が固まった。
「残念ね。唖でもないのに喋れないなんて」
「唖の方がまだマシよ。少なくとも感情はあるもの。あの子は石みたい」
「ティモシー様があんなに優秀なのに、弟はよりにもよって……」
女中たちは、レオンが分からないと思って、目の前でそんなことを言った。
彼は全部聞いていた。
そして、気にしていなかった。
少なくとも、表面上は。
◇
――ここまでが、一ヶ月前の話だ。
夜が深い。
窓の外には満天の星が煌めいている。天の川が淡い光の帯となって、夜空を横切っていた。
こんな星空、前世で秋田の田舎にいた頃しか見たことがない。
俺の名前は……まあ、前世の名前なんてもうどうでもいい。
今は、レオン・アルドウィン・セレストーム。
セレストーム侯爵家の四男。
今年で、ちょうど二歳になった。
そう――俺は、転生者だ。
前の瞬間まで東京の橋の上でバイクに乗っていた。夜風が襟元に吹き込んで、川面が煌めいていた――
次の瞬間には、生まれたばかりの赤子になっていた。
目を開けると、薄暗い蝋燭の光、石造りの天井、そして中世風の服を着た女中たちの顔。
この現実を受け入れるまで、長い時間がかかった。
さらに長い時間を、あの夜に起きたことを消化するために費やした。
俺は……死んだのか?
あっちの親父と親母は……今頃どうしているんだろう?
病院のベッドで、もう魂の抜けた俺の身体を見守っているのか?
それとも、もう……
そこまで考えると、何も言いたくなくなった。
何を喋る? この連中に、俺が異世界から転生してきたって説明するのか? 秋田の田舎で育って、仙台の大学を出て、東京で五年働いていたサラリーマンだったって話すのか?
意味がない。
俺はただ静かに過ごして、この世界がどういうものか見極めたかっただけだ。
だから、俺は喋らなかった。
◇
そう思っていた――あの日まで。
一ヶ月前。
セレストーム家には、生まれた子を家族の墓所へ連れて行く慣習がある。先祖に新しい血を報告し、祝福を受ける儀式だ。本来なら生後間もなく行うものだが、レオンの場合は「あの子の状態では」と延期され続け、二歳を目前にしてようやく実施された。
母エレーゼが俺の手を引いて、屋敷の裏手にある墓所へ歩いていった。
石畳の小道を抜けると、鉄柵に囲まれた静かな庭が広がっていた。苔むした墓石が整然と並んでいる。セレストーム家の歴代当主、その妻たち、若くして戦場で散った者たち。
母上は一つ一つの墓石の前で立ち止まり、俺に語りかけた。
「これはお祖父様よ。とても勇敢な方だったの」
「こちらは大伯父様。エレンデール橋の戦いで功績を立てたのよ」
俺は黙って聞いていた。
やがて、墓所の端にたどり着いた。
小さな墓石が二つ。他の堂々とした石碑とは違い、こぢんまりとして、花が供えられていた。
母上の声が、少し震えた。
「……この子たちは、あなたのお姉様とお兄様よ」
俺は立ち止まった。
墓石には名前と、生まれた年と、死んだ年が刻まれていた。
どちらも、一歳に届いていなかった。
「最初の子は、冬の流行り病で。二番目の子は、生まれた時から身体が弱くて……」
母上は俺の手を握ったまま、静かに涙を流していた。
「だからね、レオン。あなたが生まれてきてくれただけで、母様は……」
その言葉が、胸に突き刺さった。
前世の記憶が、一気に噴き出した。
秋田の実家の夏を思い出した。台風が来ると、親父が俺を抱いて家の中に入れてくれた。親母がきりたんぽ鍋を作ってくれて、家族で囲んで食べた。外は風雨が荒れ狂っているのに、家の中は暖かかった。
卒業して東京に出た年のことも思い出した。親母が車を追いかけて走ってきた。手にはいぶりがっこの袋を掲げて、「道中で食べなさい」って叫んでいた。
深夜まで残業したアパートのこと、バイクの後ろに誰も乗せたことがないこと、居酒屋の生ビール、あの橋で最後に見た煌めく川面――
俺は「忙しいから、また今度」って言った。
親母は「そうね、仕事が大事よね、身体に気をつけてね」って言った。
それから……
それからはもう、ない。
鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなった。
転生してから初めて、涙が出た。
自分のためじゃない。
もう会えない人を思い出したから。
そして目の前のこの女性。見ず知らずなのに、二人の子供を失ってなお、この声の出ない子を抱きしめ続けてくれた女性のために。
母上が驚いて俺を見た。レオンが泣いている。二年間、笑いも泣きもしなかったレオンが。
「レオン? どうしたの?」
母上が膝をついて、俺の顔を覗き込んだ。
その顔を見た瞬間――
胸の奥で、何かが決壊した。
「かあ……さま……」
口を開いた。
声は嗄れて、不明瞭で、途切れ途切れだった。
でも確かに、一音節出た。
母上の身体が硬直した。
「今……何て……?」
「母様……」
今度は、少しはっきりした。
彼女の涙が一気に溢れ出て、俺を抱きしめて号泣した。
「喋った! レオンが喋ったわ!」
墓所の静寂が、母の泣き声で満たされた。
苔むした墓石たちが、黙ってそれを見守っていた。
◇
あの日から、俺は黙るのをやめた。
もう、前世には戻れない。ならば、この世界で生きていくしかない。
前世の俺はもういないだろうが、この世界の母上は、俺が生きる価値のある人だ。
二人の子供を失い、三人目もまた失うかもしれないと怯え続けた母親。その母親が、俺の声を聞いて泣いた。
それだけで十分だった。
喋り始めた。学び始めた。この家のことを知り始めた。
もちろん、加減はした。
二歳の子供が急に賢くなりすぎたら、面倒なことになる。だから「ゆっくり」学んで、「不器用」に振る舞って、時々わざと間違えた。
それでも一ヶ月経つ頃には、俺の成長は驚異的だった。
館の空気がまた変わった。
「やっぱり、あの子はただ遅かっただけだったのね」
「これだけ喋れるなら、もう心配いりませんわ」
女中たちはそう言った。あの冷たい言葉を吐いたことなど、もう忘れたかのように。
俺は気にしなかった。
◇
ある日の午後、俺は中庭で日向ぼっこをしていた。
女中ローシーが俺の隣に座って、絵本を読んでくれている。『勇者と竜の物語』――この世界の子供向けの定番らしい。
「――そして勇者様は、竜の弱点を見抜いて、見事に退治なさいましたとさ」
ローシーが本を閉じる。
「レオン様、どうでしたか?」
俺は少し考えてから、首を傾げた。
「ローシー」
「はい?」
「竜って、本当にいるの?」
「ええ、もちろんですわ。北の山脈には今でもいるそうですよ」
「そっか」
俺は空を見上げた。雲がゆっくりと流れていく。
「じゃあ……魔法も本当にあるんだよね」
「当然ですわ。レオン様だって、いずれ魔法を使えるようになりますわよ」
「いつ?」
「普通は七歳か八歳で魔力が目覚めますの。でもレオン様なら、きっと素晴らしい魔導師になれますわ」
俺は黙った。
魔法、か。
前世にはなかったものだ。
この世界には、俺の知らないことだらけだ。
「ねえ、ローシー」
「はい」
「この世界のこと、もっと教えて」
「え? 絵本じゃなくて?」
「うん」
俺は彼女を見上げた。
「この国のこと、魔法のこと、外の世界のこと……全部」
ローシーは困ったような顔をした。
「でも、レオン様にはまだ難しいかと……」
「試してみたい」
俺はそう言って、膝の上で両手を組んだ。
「分からなかったら、また聞くから」
ローシーはしばらく俺を見つめた後、優しく微笑んだ。
「……分かりましたわ。では、まずこの国――オルハイム王国のことからお話ししましょうか」
彼女が話し始めた。
王国の成り立ち、貴族の階級、魔法の種類、隣国との関係――
俺は一言も聞き逃さないように、じっと耳を傾けた。
時々質問をする。
「貴族って、何家族くらいいるの?」
「魔法使いは、どこで修行するの?」
「隣の国とは、仲がいいの?」
ローシーは最初は戸惑っていたが、やがて楽しそうに答えてくれた。
二歳の子供にしては、あまりにも的を射た質問ばかりだったからだろう。
やがて夕暮れが近づいた頃。
「レオン様」
「ん?」
「あの……本当に、全部理解できているんですか?」
ローシーが不思議そうに首を傾げた。
「うん。分かるよ」
「……」
彼女はしばらく俺を見つめた後、小さく呟いた。
「やっぱり……レオン様はすごいお方ですわ……」
◇
それから数日後の朝。
館全体が慌ただしくなった。
「侯爵様がお戻りになる!」
「急いで準備を!」
「玄関を掃除して! 花を飾って!」
女中たちが走り回っている。
母上も普段着ではなく、華やかなドレスに着替えて、化粧を整えていた。
「父上が……帰ってくるの?」
俺がローシーに聞くと、彼女は嬉しそうに頷いた。
「はい! 侯爵様は三年間、北方の反乱鎮圧に出ておられましたの。やっと凱旋なさるんです!」
三年。
つまり、俺が生まれる前から出征していたのか。
父上は、まだ一度も俺を見たことがない。
そして俺も――
この世界の「父親」に、まだ会ったことがないんだ。
「レオン様も、きちんとした服に着替えましょうね」
ローシーが俺の手を引いて、部屋へ連れて行った。
小さな貴族服を着せられ、髪を整えられ、靴を履かされる。
鏡に映った自分は――
相変わらず、やせっぽちで、色白で、頼りなさそうだった。
「大丈夫ですわ、レオン様。侯爵様はきっとお喜びになりますわ」
ローシーは励ますように言ったが、その声には少し不安が混じっていた。
俺も分かっている。
セレストーム家は武勲貴族だ。
代々、屈強な体格と強大な魔力で戦場を駆けてきた一族。
そんな家に生まれた男子が――
こんな虚弱体質では。
玄関に向かう途中、廊下の鏡に映った自分をもう一度見た。
「……まあ、どうにかなるだろ」
俺は呟いた。
前世でも散々ダメ出しされてきたんだ。
今更、父親に失望されたところで――
驚きはしない。