軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 二歳の知恵遅れ

実を言うと、レオン・セレストームが生まれた時、誰も彼を天才だなんて呼ばなかった。

それどころか、この子は最初から「おかしい」と思われていた。

石造りの天井。蝋燭の炎が揺れるたびに、粗い石目の上を影が這う。産婆たちが慌ただしく立ち回り、湯を運び、布を絞り、侯爵夫人の手を握って声を張り上げていた。

やがて――産声が、上がるはずだった。

セレストーム侯爵家の四男が、この世に生まれ落ちた。

泣かなかった。

産婆たちの手が止まった。

生まれたばかりの赤子が、じっと目を開けたまま、天井を見上げていた。泣き喚くでもなく、もがくでもなく、ただ黙って、蝋燭の光に照らされた世界を眺めている。

「……泣かないわ」

「息は?」

「してます……してますけど……」

産婆の一人が、おそるおそる赤子の顔を覗き込んだ。

目が合った。

黒い瞳が、まっすぐにこちらを見返していた。

後にこの産婆は、女中仲間にこう語っている。

「あの目はね――赤ん坊の目じゃなかったのよ。まるで老人が、何か珍妙なものでも見るような目だった」

誰も天才とは言わなかった。

ただ、不気味だと思った。

その不気味さは、消えなかった。

レオンは手のかからない赤子だった。泣くことは極めて稀で、決まった時間に眠り、決まった時間に目を覚ました。だが「賢い」と讃える声は上がらなかった。

なぜなら、彼は何も返さなかったからだ。

あやしても笑わない。名前を呼んでも反応しない。目の前で手を振っても、その黒い瞳はこちらを見ているのか、もっと遠い何かを見ているのか分からない。

まるで、この世界に興味がないように。

「あの子、ちゃんと聞こえてるのかしら?」

「聞こえてるそうよ。お医者様がそう仰ってたわ」

「じゃあ、なぜ何も反応しないの?」

「分からないわ。ただ……怖いのよ、あの目が」

女中たちはそう囁き合った。

母エレーゼだけが、レオンを抱きしめて語りかけ続けた。絵本を読み、歌を歌い、名前を何百回も呼んだ。

返事はなかった。

半年が過ぎた。一歳が過ぎた。

同じ年頃の子供たちが「パパ」「ママ」と口にし始める頃になっても、レオンの口からは一音節も出てこなかった。

医師を呼んだ。魔法使いを呼んだ。光明神殿の祝福も受けた。

身体には何の異常もなかった。

「言葉が遅いだけかもしれません」と医師たちは言った。

だが一歳半を過ぎても、何も変わらなかった。

やがて、館の空気が固まった。

「残念ね。唖でもないのに喋れないなんて」

「唖の方がまだマシよ。少なくとも感情はあるもの。あの子は石みたい」

「ティモシー様があんなに優秀なのに、弟はよりにもよって……」

女中たちは、レオンが分からないと思って、目の前でそんなことを言った。

彼は全部聞いていた。

そして、気にしていなかった。

少なくとも、表面上は。

――ここまでが、一ヶ月前の話だ。

夜が深い。

窓の外には満天の星が煌めいている。天の川が淡い光の帯となって、夜空を横切っていた。

こんな星空、前世で秋田の田舎にいた頃しか見たことがない。

俺の名前は……まあ、前世の名前なんてもうどうでもいい。

今は、レオン・アルドウィン・セレストーム。

セレストーム侯爵家の四男。

今年で、ちょうど二歳になった。

そう――俺は、転生者だ。

前の瞬間まで東京の橋の上でバイクに乗っていた。夜風が襟元に吹き込んで、川面が煌めいていた――

次の瞬間には、生まれたばかりの赤子になっていた。

目を開けると、薄暗い蝋燭の光、石造りの天井、そして中世風の服を着た女中たちの顔。

この現実を受け入れるまで、長い時間がかかった。

さらに長い時間を、あの夜に起きたことを消化するために費やした。

俺は……死んだのか?

あっちの親父と親母は……今頃どうしているんだろう?

病院のベッドで、もう魂の抜けた俺の身体を見守っているのか?

それとも、もう……

そこまで考えると、何も言いたくなくなった。

何を喋る? この連中に、俺が異世界から転生してきたって説明するのか? 秋田の田舎で育って、仙台の大学を出て、東京で五年働いていたサラリーマンだったって話すのか?

意味がない。

俺はただ静かに過ごして、この世界がどういうものか見極めたかっただけだ。

だから、俺は喋らなかった。

そう思っていた――あの日まで。

一ヶ月前。

セレストーム家には、生まれた子を家族の墓所へ連れて行く慣習がある。先祖に新しい血を報告し、祝福を受ける儀式だ。本来なら生後間もなく行うものだが、レオンの場合は「あの子の状態では」と延期され続け、二歳を目前にしてようやく実施された。

母エレーゼが俺の手を引いて、屋敷の裏手にある墓所へ歩いていった。

石畳の小道を抜けると、鉄柵に囲まれた静かな庭が広がっていた。苔むした墓石が整然と並んでいる。セレストーム家の歴代当主、その妻たち、若くして戦場で散った者たち。

母上は一つ一つの墓石の前で立ち止まり、俺に語りかけた。

「これはお祖父様よ。とても勇敢な方だったの」

「こちらは大伯父様。エレンデール橋の戦いで功績を立てたのよ」

俺は黙って聞いていた。

やがて、墓所の端にたどり着いた。

小さな墓石が二つ。他の堂々とした石碑とは違い、こぢんまりとして、花が供えられていた。

母上の声が、少し震えた。

「……この子たちは、あなたのお姉様とお兄様よ」

俺は立ち止まった。

墓石には名前と、生まれた年と、死んだ年が刻まれていた。

どちらも、一歳に届いていなかった。

「最初の子は、冬の流行り病で。二番目の子は、生まれた時から身体が弱くて……」

母上は俺の手を握ったまま、静かに涙を流していた。

「だからね、レオン。あなたが生まれてきてくれただけで、母様は……」

その言葉が、胸に突き刺さった。

前世の記憶が、一気に噴き出した。

秋田の実家の夏を思い出した。台風が来ると、親父が俺を抱いて家の中に入れてくれた。親母がきりたんぽ鍋を作ってくれて、家族で囲んで食べた。外は風雨が荒れ狂っているのに、家の中は暖かかった。

卒業して東京に出た年のことも思い出した。親母が車を追いかけて走ってきた。手にはいぶりがっこの袋を掲げて、「道中で食べなさい」って叫んでいた。

深夜まで残業したアパートのこと、バイクの後ろに誰も乗せたことがないこと、居酒屋の生ビール、あの橋で最後に見た煌めく川面――

俺は「忙しいから、また今度」って言った。

親母は「そうね、仕事が大事よね、身体に気をつけてね」って言った。

それから……

それからはもう、ない。

鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなった。

転生してから初めて、涙が出た。

自分のためじゃない。

もう会えない人を思い出したから。

そして目の前のこの女性。見ず知らずなのに、二人の子供を失ってなお、この声の出ない子を抱きしめ続けてくれた女性のために。

母上が驚いて俺を見た。レオンが泣いている。二年間、笑いも泣きもしなかったレオンが。

「レオン? どうしたの?」

母上が膝をついて、俺の顔を覗き込んだ。

その顔を見た瞬間――

胸の奥で、何かが決壊した。

「かあ……さま……」

口を開いた。

声は嗄れて、不明瞭で、途切れ途切れだった。

でも確かに、一音節出た。

母上の身体が硬直した。

「今……何て……?」

「母様……」

今度は、少しはっきりした。

彼女の涙が一気に溢れ出て、俺を抱きしめて号泣した。

「喋った! レオンが喋ったわ!」

墓所の静寂が、母の泣き声で満たされた。

苔むした墓石たちが、黙ってそれを見守っていた。

あの日から、俺は黙るのをやめた。

もう、前世には戻れない。ならば、この世界で生きていくしかない。

前世の俺はもういないだろうが、この世界の母上は、俺が生きる価値のある人だ。

二人の子供を失い、三人目もまた失うかもしれないと怯え続けた母親。その母親が、俺の声を聞いて泣いた。

それだけで十分だった。

喋り始めた。学び始めた。この家のことを知り始めた。

もちろん、加減はした。

二歳の子供が急に賢くなりすぎたら、面倒なことになる。だから「ゆっくり」学んで、「不器用」に振る舞って、時々わざと間違えた。

それでも一ヶ月経つ頃には、俺の成長は驚異的だった。

館の空気がまた変わった。

「やっぱり、あの子はただ遅かっただけだったのね」

「これだけ喋れるなら、もう心配いりませんわ」

女中たちはそう言った。あの冷たい言葉を吐いたことなど、もう忘れたかのように。

俺は気にしなかった。

ある日の午後、俺は中庭で日向ぼっこをしていた。

女中ローシーが俺の隣に座って、絵本を読んでくれている。『勇者と竜の物語』――この世界の子供向けの定番らしい。

「――そして勇者様は、竜の弱点を見抜いて、見事に退治なさいましたとさ」

ローシーが本を閉じる。

「レオン様、どうでしたか?」

俺は少し考えてから、首を傾げた。

「ローシー」

「はい?」

「竜って、本当にいるの?」

「ええ、もちろんですわ。北の山脈には今でもいるそうですよ」

「そっか」

俺は空を見上げた。雲がゆっくりと流れていく。

「じゃあ……魔法も本当にあるんだよね」

「当然ですわ。レオン様だって、いずれ魔法を使えるようになりますわよ」

「いつ?」

「普通は七歳か八歳で魔力が目覚めますの。でもレオン様なら、きっと素晴らしい魔導師になれますわ」

俺は黙った。

魔法、か。

前世にはなかったものだ。

この世界には、俺の知らないことだらけだ。

「ねえ、ローシー」

「はい」

「この世界のこと、もっと教えて」

「え? 絵本じゃなくて?」

「うん」

俺は彼女を見上げた。

「この国のこと、魔法のこと、外の世界のこと……全部」

ローシーは困ったような顔をした。

「でも、レオン様にはまだ難しいかと……」

「試してみたい」

俺はそう言って、膝の上で両手を組んだ。

「分からなかったら、また聞くから」

ローシーはしばらく俺を見つめた後、優しく微笑んだ。

「……分かりましたわ。では、まずこの国――オルハイム王国のことからお話ししましょうか」

彼女が話し始めた。

王国の成り立ち、貴族の階級、魔法の種類、隣国との関係――

俺は一言も聞き逃さないように、じっと耳を傾けた。

時々質問をする。

「貴族って、何家族くらいいるの?」

「魔法使いは、どこで修行するの?」

「隣の国とは、仲がいいの?」

ローシーは最初は戸惑っていたが、やがて楽しそうに答えてくれた。

二歳の子供にしては、あまりにも的を射た質問ばかりだったからだろう。

やがて夕暮れが近づいた頃。

「レオン様」

「ん?」

「あの……本当に、全部理解できているんですか?」

ローシーが不思議そうに首を傾げた。

「うん。分かるよ」

「……」

彼女はしばらく俺を見つめた後、小さく呟いた。

「やっぱり……レオン様はすごいお方ですわ……」

それから数日後の朝。

館全体が慌ただしくなった。

「侯爵様がお戻りになる!」

「急いで準備を!」

「玄関を掃除して! 花を飾って!」

女中たちが走り回っている。

母上も普段着ではなく、華やかなドレスに着替えて、化粧を整えていた。

「父上が……帰ってくるの?」

俺がローシーに聞くと、彼女は嬉しそうに頷いた。

「はい! 侯爵様は三年間、北方の反乱鎮圧に出ておられましたの。やっと凱旋なさるんです!」

三年。

つまり、俺が生まれる前から出征していたのか。

父上は、まだ一度も俺を見たことがない。

そして俺も――

この世界の「父親」に、まだ会ったことがないんだ。

「レオン様も、きちんとした服に着替えましょうね」

ローシーが俺の手を引いて、部屋へ連れて行った。

小さな貴族服を着せられ、髪を整えられ、靴を履かされる。

鏡に映った自分は――

相変わらず、やせっぽちで、色白で、頼りなさそうだった。

「大丈夫ですわ、レオン様。侯爵様はきっとお喜びになりますわ」

ローシーは励ますように言ったが、その声には少し不安が混じっていた。

俺も分かっている。

セレストーム家は武勲貴族だ。

代々、屈強な体格と強大な魔力で戦場を駆けてきた一族。

そんな家に生まれた男子が――

こんな虚弱体質では。

玄関に向かう途中、廊下の鏡に映った自分をもう一度見た。

「……まあ、どうにかなるだろ」

俺は呟いた。

前世でも散々ダメ出しされてきたんだ。

今更、父親に失望されたところで――

驚きはしない。