作品タイトル不明
第133話 学院長の溜息
大会が終わって一週間が経った。
脇腹の傷はまだ塞がっていなかった。朝ベッドから起き上がる時に体を捻ると鋭い痛みが走る。ローシーが毎朝替えてくれる包帯はまだ赤く滲んでいた。
日々の暮らしは少しだけ変わっていた。「出来損ない」と囁く者はいなくなった。代わりに黙って道を開けるようになった。
オースティンが中庭に来た。大会の後、初めてだった。何も言わずに現れ素振りを始めた。レオンが剣の素振りをしていると自然と間合いが重なったが、傷のせいで三合と持たなかった。
去り際に振り返った。
「その傷、まだ痛むのか」
「もう大丈夫だ」
「嘘をつくな。三合目で顔が歪んでいた」
「……少しだけ」
「包帯は毎日替えろ」
それだけ言って消えた。
エイドリアンは変わらなかった。カッセルリックも変わらなかった。それでいい、とレオンは思った。
◇
辺境行きの準備は進んでいた。騎士団の辺境警備隊に志願し、受理された。出立まであと一月。荷造りを始めた矢先に、手紙が届いた。
学院長の印が押された封筒。中身は一行だけ。
「至急、学院に来なさい。——ハインリッヒ・ヴェルナー」
三通目だった。最初の二通は無視していた。三通目を無視する度胸は、さすがになかった。
◇
王都ヴァイスブルクの朝はセレストーム領とは空気が違った。石畳の大通りに馬車の轍が響き、通りを歩く人々の服は仕立てがよい。
王立ヴァイスブルク騎士学院。休学届を出してから二月ぶりだった。制服は着ていない。通りすがりの生徒たちが振り返った。あの大会の銀色の髪——
レオンは視線を無視して本館の階段を上った。
◇
学院長室の扉を叩いた。
「入りなさい」
扉を開けた瞬間、中から人が出てきた。すれ違った。
酒紅色の髪だった。
長い髪が腰まで流れている。肌が白い。だが顔の造りがこちらの人間と違った。切れ長の目。柔らかい唇の形。
東方人——?
この大陸で東方系の人間を見ることは滅多にない。まして学院長室から出てくるとなると。少女の目がレオンの銀髪を一瞬捉えたが、何も言わずに通り過ぎようとした。
「ああ、ちょうどいい。シェン、少し待ちなさい」
学院長の声が奥から響いた。少女の足が止まった。面倒くさそうな顔だったが、逆らう気はないようだった。
◇
学院長室は本棚で埋め尽くされていた。壁という壁に書物が詰まり、窓辺にも床にも積まれている。
ハインリッヒ・ヴェルナー。白い顎鬚と丸い眼鏡。二十年この学院を率いてきた男だった。
「セレストーム、こちらはシェン・リンファ。今年から学院に留学している。生徒会の副会長だ」
少女——シェン・リンファは軽く顎を引いた。目はレオンを品定めするように見ていたが、嫌味はなかった。
「大会の映像は見たわ。最後の一振り、悪くなかった」
「シェンは東方の名門武官の家の出でね」学院長が補足した。「彼女が『悪くない』と言うのはかなりの褒め言葉だと思いなさい」
リンファは肩をすくめた。
「もう行っていい。ありがとう」
リンファは一礼して出ていった。酒紅色の髪が扉の向こうに消えた。
◇
二人きりになった。
学院長は眼鏡を外し布で拭いた。ゆっくりと拭き終え、かけ直し、レオンを見た。
「やっと来たか。三通も出した」
「申し訳ありません」
「二通目で来るのが礼儀だろう。座りなさい」
レオンは座った。
◇
「本題に入る前に、一つ話しておく。君は学院の潜力値評定を覚えているか」
「……入学時に受けたものですか」
「そうだ。この学院では生徒の潜在能力を六段階で評定している。F級が基礎段階、入学の最低基準。E級が一つ星から二つ星初期、学院の平均はこのあたりだ。D級が二つ星中期から後期、優秀と呼べる水準。C級が三つ星、年に数人しか出ない。B級が四つ星、十年に一人出るかどうか」
学院長は指を折り、最後の一本を立てた。
「A級——五つ星以上。建学以来、片手で数えるほどしかいない」
「入学時の俺はF級でした」
「そうだ。魔力なし、剣術のみ。評定としては最低だった。セレストーム侯爵家の名がなければ門前払いだった」
レオンは黙った。知っていたことだった。
「だが——先日の大会の後、評定を見直した」
学院長は引き出しから書類を一枚取り出した。レオンの名前の横に赤い文字が記されている。
「ゴールデン・フォーム。光系の原初魔法。失われたはずの古流武術。さらに騎士団秘伝の剣術の片鱗。二つ星中期の魔力で四つ星初期の生徒を正面から破った実績。教官会議で再評定した」
書類をレオンの前に置いた。
「B級。異論は出なかった」
レオンは自分の名前を見た。入学時の「F」の上に赤い線が引かれ、「B」と書き直されていた。
「F級からB級まで一年で駆け上がった生徒は、建学以来一人もいない。君が初めてだ」
学院長の声に力がこもった。
「であれば——復学しなさい」
◇
レオンは黙った。
「休学届を出した時は事情があったのだろう。だが状況は変わった。実力は証明された。戻ってくれば学院として全面的に支援する。奨学金も出す。この学院は大陸中の財閥から金が集まる。経費は使い切れないほどある。B級の生徒一人養うくらい痛くも痒くもない」
「ありがたい話ですが——辺境に行きます」
学院長は溜息をついた。一度目の溜息だった。
「まだそんなことを言っているのか。B級の潜力値を持つ十四歳の子供が辺境で何をする」
「ここにいても学べないことがあります。俺が必要としているものは教室の中にはない」
「ならば教室の外で教えよう。特別訓練の枠を設ける。教官も選ばせる。先程のシェンのような外部からの優秀な生徒もいる。切磋琢磨の環境としてこれ以上の場所はない」
「申し訳ありません。もう決めました」
学院長は二度目の溜息をついた。
◇
長い間レオンを見つめた。
「……十四歳の子供に言われると返す言葉がなくなるな」
窓の外を見た。中庭の噴水が秋の光の中で虹を作っている。
「分かった。無理には引き留めん。だが休学届はそのまま残しておく。退学にはしない」
「学院長——」
「辺境で何かあった時——本当にどうしようもなくなった時はここに戻ってきなさい。門は閉めない。いつでも受け入れる。B級の席は空けておく」
「そこまでしていただく理由が——」
「理由か」
学院長は椅子の背にもたれた。目が遠くなった。
「あの最後の一振り。あれほどのものを見たのは生涯で二度目だ。一度目は四十年前、ある騎士が演武場で見せた一振りだった。その男は後に帝国の英雄と呼ばれた。名前はバートンといった」
レオンの体が微かに強張った。学院長は気づいたが追及しなかった。
三度目の溜息をついた。今度のは怒りではなかった。
「それが理由だ。あれだけのものを持った人間を荒野で死なせたくない。——約束しろ。死ぬなよ」
「……約束します」
「よろしい。行きなさい」
◇
学院長室を出ると、回廊にエヴィルが立っていた。
壁にもたれ腕を組み、銀色の髪が秋風に揺れている。紫の瞳がレオンを見た。
「終わった?」
「なぜここにいる」
「学院長に呼ばれたのがレオン兄さんだって聞いたの。待ってた」
「……待たなくてよかった」
「待ちたかったの」
並んで回廊を歩き始めた。秋の光が石柱の間から差し込み、二人の影が長く伸びていた。
「復学しないんでしょう」
「ああ」
「知ってた」
◇
エヴィルは少し黙った。それから何でもないことのように言った。
「明日、大図書館の秘蔵閣が開くの」
「秘蔵閣?」
「年に一度だけ開放される地下の書庫よ。歴代の騎士団長や宮廷魔法師が収集した古文書が保管されている。光系の原典もあるらしいわ」
光系。母エレーゼ・アシュモアの血統。レオン自身の魔法の根源。吊墜が微かに脈打った。中にいるオーグリが反応している。
「行かない?」
「行かない、じゃなくて行けないだろう。俺は休学中だぞ」
「休学中でも直近の大会成績上位者には閲覧資格があるの」
「……なぜ知っている」
「調べたの」
「いつ」
「レオン兄さんが学院長に呼ばれたって聞いた時」
レオンはエヴィルを見た。紫の瞳が猫のように細まっていた。最初から全部読んでいたような顔だった。
「お前、俺が断れないの分かっていて言っているだろう」
「さあ。どうかしら」
【続く】