軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第125話 ——約束——

坊市の通り。

レオンが大図書館の石段を降りた時、午後の鐘がちょうど鳴り終わったところだった。

鞄の中には、ミーラが用意してくれた旧帝国文献の写しが入っている。羊皮紙の束が十数枚、油紙に丁寧に包まれていた。千年の遺産に関する大図書館の調査記録、遺跡の地下構造の補足図、旧帝国の魔導工学に関する研究ノートの断片。

約束通りだった。精粋を内包した金属片のサンプルとの等価交換。

別れ際のミーラの顔を思い出した。

「欠片一つと言いましたけど、本当に一つしかくれないんですね……もう少し大きいのを——」

「等価交換だ」

「強盗です」

「二度目だぞ、その台詞」

ミーラは頬を膨らませたまま、大図書館の奥に消えていった。だが背中はどこか嬉しそうだった。

レオンは鞄を肩にかけ直し、広場に出た。

石畳に午後の陽光が差し込んでいた。行き交う学者風のローブ姿、商人の荷馬車、冒険者の一団。

次の目的地は錬金術師協会だった。遺跡から帰還して以来、後回しにしていた資格試験。星素の抽出にも、薬剤の調合にも、協会の設備と資格が必要になる。

レオンは広場を横切り、内環区へ向かう通りに足を踏み入れた。

その時——視界の端に、見覚えのある紋章が映った。

◆◇◆

広場の東側に、黒塗りの馬車が一台。

銀の縁取り。扉には盾の上に交差する二本の剣——ヴァルトシュタイン侯爵家の紋章。御者が御者台で背筋を伸ばし、馬車の脇に衛兵が二人。

馬車の扉が開いた。

最初に降りたのはカタリナだった。レオンは見覚えがあった。処方箋を巡って言い合った侍女。カタリナはレオンの姿を認め、一瞬だけ表情を動かし、すぐに脇に退いて車内に手を差し伸べた。

次に降りてきたのが——セレーネだった。

◆◇◆

レオンの足が止まった。

セレーネは自分の足で馬車から降りていた。

カタリナの手を取ってはいたが、体重を預けてはいなかった。足取りはまだ慎重で、ゆっくりとしていた。だが——立っていた。

金色の髪が午後の風に揺れた。外出用の薄い紺色のドレスに、銀の刺繍が施された短い外套。足元は柔らかい革の短靴で、歩きやすさを重視している。療養中の室内着ではなく、人前に出るための装い。

翡翠色の瞳が広場の光を受けて淡く輝いていた。

顔色が変わっていた。蒼白さは消え、頬にうっすらと血の色。唇は淡い桜色。目の下の隈が薄くなり、瞳に光があった。

(——処方箋が効いている)

レオンは内心で頷いた。ルナリア・ブルームとシルバーリーフの根。あの処方箋をセレーネ自身が試してくれたのだ。

『……表層のナイトエーテルは流れたようだな。だが深部のノードの固着は残っておるはずだ。根治には程遠い』

オグリの声が脳裏に響いた。

(分かっている。だが悪くない方向だ)

◆◇◆

セレーネの翡翠色の瞳が、レオンを捉えた。

一瞬、驚いたように目を見開いた。こんな場所で会うとは思っていなかったのだろう。だがすぐに表情を整え、レオンに向かって歩いてきた。

カタリナが後を追った。衛兵も動こうとしたが、セレーネが片手で制した。

五歩の距離で、立ち止まった。

「……奇遇ね」

「そうだな」

レオンはセレーネの全身をもう一度見た。

「立てるようになったか」

「あなたのおかげ、とは言わないわ」

「言わなくていい」

セレーネの唇の端が僅かに動いた。笑みとは呼べなかった。だが——前回の冷たさとは、何かが違っていた。

「処方箋を試した。カタリナは最後まで渋ったけれど——私が押し切った」

「効いたか」

「足の甲の痣が薄くなった。夜の冷えも減った。今朝から本来の量に切り替えた」

「体の反応は」

「問題ない。むしろ楽になった」

レオンは頷いた。

「骨のスープは」

セレーネは視線を逸らした。

「……飲んだわ」

その言い方に微かな照れがあった。侯爵家の令嬢が骨のスープを——それも「出来損ない」と呼ばれていた男の助言で飲んでいるという事実は、セレーネのプライドにとって複雑なものがあるのだろう。

「悪くなかったです」

「悪くなかった、か」

「……美味しかった、とは言っていないわ」

レオンは口元を僅かに緩めた。

◆◇◆

セレーネの表情が変わった。翡翠色の瞳から、社交の鎧が一枚、静かに外れた。

「聞きたいことがある。——祖父のこと」

レオンは黙った。

セレーネの目には、覚悟があった。エルベルトの正式報告で、グスタフの死は伝わっているはずだった。だがそれはエルベルトの口を通した報告だ。セレーネが知りたいのは——最後の場にいた人間の言葉だった。

「場所を変えよう」

レオンは広場を見回した。人通りがある。ヴァルトシュタインの紋章がついた馬車の前で、侯爵家の令嬢とセレストーム家の四男坊が話し込んでいる。それだけで噂の種になる。

セレーネは頷いた。

「馬車の中で。——構わないかしら」

カタリナの顔が強張った。だがセレーネが一瞥すると、口を閉じた。

◆◇◆

馬車の中は、外の喧騒が嘘のように静かだった。

向かい合って座った。セレーネは窓際、レオンは反対側。馬車は動かない。御者には「しばらく待て」と指示が出ていた。カタリナは外で待機している。

窓から差し込む午後の光が、セレーネの金色の髪を柔らかく照らしていた。

沈黙が落ちた。セレーネは膝の上で手を組んでいた。白い指がきつく握られていた。

「……聞く覚悟はできている。正直に話して」

レオンは頷いた。

「中枢区域に、旧帝国が千年前に封じた存在があった」

セレーネは黙って聞いていた。

「防衛機構の中枢——楔の聖女と呼ばれるものだ。千年前に人身御供として封じられた魂が、遺跡の動力源として使われていた。グスタフ卿とマルグリット殿は、その存在と対峙した」

「……楔の聖女」

「二人は禁器を全て使い切った。だが通じなかった。楔の聖女の力は、禁器の想定を遥かに超えていた」

レオンは一呼吸置いた。

「グスタフ卿は——最後まで退かなかった」

セレーネの指が白くなるほど握りしめられた。

「マルグリット殿が先に倒れた。灰になるまで、数秒だった。グスタフ卿はそれを見て——なお前に出た。自分の命を盾にして、俺に退路を作ろうとした」

「……祖父が」

「ああ。最後の瞬間、グスタフ卿は叫んだ。——俺に向かって、走れと」

セレーネの翡翠色の瞳が揺れた。

「勇敢な最期だった。鉄腕の老侯爵という名に恥じない」

嘘だった。

グスタフは走れとは叫ばなかった。レオンに退路を作ろうとしたわけでもなかった。あの場にいた全員が、なす術もなく灰になっただけだ。

だが——遺された者にその真実を告げる意味があるだろうか。

祖父は最後まで戦い、後輩に退路を作って散った。その物語の方が——遺された者にとっては、遥かに生きやすい。

レオンは自分の嘘を恥じなかった。

◆◇◆

馬車の中に沈黙が満ちた。

セレーネは俯いていた。金色の髪が頬にかかり、表情が見えなかった。膝の上の手が震えていた。

長い沈黙の後、セレーネが顔を上げた。翡翠色の瞳が濡れていた。涙は流れていなかったが、ぎりぎりのところで堪えているのが分かった。

「……ありがとう。話してくれて」

「礼はいい」

「いいえ」セレーネは首を横に振った。「あなたは嘘をついている。祖父が格好よく死んだという嘘を。——でも、その嘘は優しい嘘だわ」

レオンは目を細めた。見抜かれていた。

「……鋭いな」

「祖父のことは誰よりも知っている。あの人は自分の命を他人のために使うような人ではなかった。冷徹で、計算高くて、最後の一手まで自分の利益を考える人だった」

セレーネの声が僅かに震えた。

「……でも、そういう祖父を、私は愛していた」

「本当のことを——聞かせて」

◆◇◆

レオンは静かに話した。

楔の聖女の力が全員の想定を遥かに超えていたこと。マルグリットが先に灰になり、グスタフも数秒後に同じ運命を辿ったこと。二人とも——抵抗する暇すらなかったこと。レオンが生き延びたのは、手元にあった道具の偶然が重なっただけであること。

セレーネは一言も口を挟まず、最後まで聞いた。

聞き終えた後——セレーネは窓の外に目を向けた。午後の陽光が横顔を照らしていた。涙が一筋、頬を伝った。

「……抵抗する暇もなかった、か」

「ああ」

「祖父は——怖かったかしら」

「分からない。だが一瞬だった。苦しむ時間はなかったはずだ」

セレーネは涙を拭わないまま、レオンに向き直った。

「ありがとう。今度は、本当のことを話してくれて」

レオンは黙って頷いた。

◆◇◆

馬車の空気が——少しだけ変わった。

重かった沈黙が、静かな沈黙に変わっていた。悲しみは消えていなかったが、その悲しみに形がついた。セレーネの中で、祖父の死が言葉になった。それだけで、何かが違った。

セレーネは目元を軽く押さえ、呼吸を整えた。

「……もう一つ。私の体のこと」

レオンは姿勢を正した。

「ポーションと処方箋は効いている。末端のナイトエーテルが流れ始めた証拠だ。だが深部のノードの固着は残っている」

「導引術が必要。以前にも聞いたわ」

セレーネの翡翠色の瞳が真っ直ぐにレオンを見た。

「あの時、カタリナが拒否した件。——私からカタリナに話す。導引術の必要性を、私の口から説明する」

「時間はかかるかもしれないが——」

「構わない。ただし、条件がある」

「聞こう」

「カタリナを排除するような方法は使わないで。あの人は私のために働いている。裏切るようなことはしたくない」

「分かった。それなら待つ」

セレーネの唇に——かすかな笑みが浮かんだ。唇の端がほんの僅かに持ち上がっただけ。だがレオンがセレーネと関わり始めてから、彼女が笑みに近い表情を見せたのは、これが初めてだった。

「あなた、変な人ね」

「よく言われる」

「怒らないの?」

「事実だからな」

セレーネは目を逸らした。窓の外の光が翡翠色の瞳を透かして輝いた。

「……錬金術師なのに、医師のようなことをする。処方箋を書いて、食事の指導をして、ポーションを渡して——全部、無償で」

「無償ではない。いずれ請求する」

「何を?」

「まだ決めていない。だが——いつか必ず請求する。覚えておけ」

セレーネはレオンを見た。翡翠色の瞳の奥に何かが揺れた。警戒ではなかった。もっと柔らかいものだった。

「……覚えておくわ」

◆◇◆

レオンは馬車を降りた。

午後の光が眩しかった。広場には変わらず人が行き交い、大図書館の石壁が陽光を受けて白く輝いている。

馬車の窓からセレーネの声がした。

「レオン」

振り返った。

窓枠に片手をかけたセレーネがこちらを見ていた。金色の髪が風に揺れている。翡翠色の瞳は——もう冷たくはなかった。

「……次に会う時は、もう少し長く歩けるようになっているわ」

「楽しみにしている」

馬車が動き出した。ヴァルトシュタインの紋章が、午後の光の中を遠ざかっていく。

レオンはしばらくその場に立っていた。

『……あの娘。なかなかの器だな。嘘を見抜き、なおかつ本当のことを求めた。侯爵家の直系にふさわしい胆力だ』

(ああ)

『お前の嘘も悪くなかったが——あの手の女には通じんな。身内のことになると勘が鋭い。覚えておけ』

レオンは鼻で笑い、広場を横切り始めた。

錬金術師協会が待っている。