軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第11話 落日の残照

婚約破棄の翌日。

屋敷の廊下は、いつにも増して居心地が悪かった。

「おい、聞いたか? セレストーム家の四男坊、婚約破棄されたんだってよ」

「しかもクラウゼンブルク公爵家のリーゼロッテ様にだろ? そりゃそうだよな、魔力値3の落ちこぼれじゃ……」

「鑑定でもFランクだったんだろ? 錬金系の。ははは、終わってるな」

すれ違う者たちの囁き声が、刃物のように耳に突き刺さる。

レオンは歯を食いしばり、足を止めなかった。

拳を強く握りしめる。爪が手のひらに食い込み、鈍い痛みが走る。

昨日、大広間で自ら婚約破棄の文書を叩きつけた。レオンがリーゼロッテを一方的に解放した——という形にはした。だが事情を知らない者たちには、そんなことは関係ない。

魔力値3の落ちこぼれが、カエルム・アルカナムの天才令嬢に捨てられた。

彼らの目には、それだけが映っている。

構うものか。

レオンは前だけを見て、自室へと向かった。

「よう。我が家の大天才様じゃないか」

角を曲がった先に、一つの影が立ちはだかっていた。

壁にもたれかかり、腕を組んだまま、にやりと笑っている。

エイドリアン。セレストーム家の次男。

「エイドリアン兄上」

レオンは立ち止まり、低い声で呼びかけた。

「何のご用ですか」

「別に。通りかかったら見えたもんでな」

エイドリアンは壁から背を離し、ゆっくりとレオンの方へ歩いてきた。

「昨日は大変だったな、レオン。リーゼロッテ様にあんな見事に振られちまって」

声は軽いが、その目は笑っていなかった。

「まあ、当然だよな。魔力値3の落ちこぼれと婚約なんて、向こうにしたら罰ゲームみたいなもんだ」

「……用がないなら、通してもらえますか」

「まあまあ、そう急ぐなよ」

エイドリアンがさらに一歩近づき、レオンの行く手を塞いだ。

「しかし笑えるよな。鑑定でFランク。婚約破棄。北の辺境に追放。これ以上の落ちぶれ方ってあるか?」

エイドリアンの声が廊下に響く。行き交う使用人たちが足を止め、遠巻きに様子を窺っている。だが誰も、間に入ろうとはしない。

セレストーム家の次男に逆らえる者など、この屋敷にはいない。

「あ、でもそうか。お前にはまだ『期待されないことの自由』ってやつがあるんだっけ?」

エイドリアンが嘲るように言った。

「前に使用人たちがそう噂してたぞ。四男坊は気楽でいいってな。期待されないから、失望もされない。素晴らしい人生じゃないか」

レオンの目が、微かに揺れた。

——刺さる。

自分が本心で思っていたことを、こうして嘲笑の道具にされると。

「もう十分でしょう」

レオンは静かに言った。

「通してください」

エイドリアンの横をすり抜けようとした。

だが——

ガシッ、と腕を掴まれた。

「おい、誰が行っていいと言った?」

エイドリアンの声から、遊びの色が消えた。

「お前のせいでな、レオン。昨日の婚約破棄の一件で、親父は屋敷中に箝口令を敷いた。だがもう外にも噂が広まってる。セレストーム家の恥さらしだって」

力が強まる。

「お前一人の問題じゃなくなってんだよ。家全体の名に泥を塗りやがって」

「離せ」

レオンは低い声で言った。

「聞こえなかったか? 離せと言った」

「はっ。偉そうに——」

エイドリアンの目が据わった。掴んでいた手を離し、代わりに拳を振り上げた。

「その減らず口を——」

レオンの目が鋭くなった。

殴られる、と分かっていた。体格差がありすぎる。魔力の差は言うまでもない。殴り返したところで、勝てるはずがない。

だが——

退く気はなかった。

前世、俺は妥協に妥協を重ね、忍耐に忍耐を重ねた。嫌な上司に頭を下げ、理不尽な残業に耐え、「仕方ない」と自分に言い聞かせ続けた。

あの頃の自分には、もう戻らない。

レオンは一歩も引かず、エイドリアンを真っ直ぐ見つめた。

拳が降りてくる——

「エイドリアン」

凛とした声が、廊下に響いた。

静かだが、芯のある声。

エイドリアンの拳が、空中で止まった。

廊下の奥から、一つの影が歩いてきた。紫色のドレスを纏った華奢な少女。エヴィル・セレストーム。

周囲の使用人たちが、自然と道を開ける。

「何をしているの」

エヴィルの声は淡々としていた。だが、その紫色の瞳には有無を言わさぬ光が宿っている。

「エヴィル……」

エイドリアンの表情が変わった。振り上げた拳をゆっくりと下ろし、わずかに後ずさる。

無理もない。

昨日の鑑定で、エヴィルは星相系SSSランク、魔力値測定不能という結果を叩き出した。家族の中で最も将来を嘱望される存在。長老たちですら一目置いている。

「別に、何でもない。レオンとちょっと話をしていただけだ」

エイドリアンは取り繕うように笑った。

エヴィルは彼を一瞥しただけで、それ以上は何も言わなかった。視線をレオンに移す。

「大丈夫?」

「ああ。大丈夫だ」

レオンは頷いた。

エヴィルの姿を見て、胸の奥に複雑な感情が渦巻く。また彼女に助けられた。幼い頃から、いつもそうだった。

だが——もう、いつまでも従妹に庇われているわけにはいかない。

「行きましょう」

エヴィルはそう言うと、振り返ってレオンの前を歩き始めた。

「ふん……」

背後で、エイドリアンの低い声が聞こえた。

「いつまでもエヴィル様に守ってもらえると思うなよ」

レオンはその言葉に足を止めず、ただ小さく呟いた。

「分かっている」

それは、エイドリアンに向けた言葉ではなかった。

自分自身に、言い聞かせた言葉だった。

エヴィルと別れた後、レオンは自室には戻らなかった。

裏庭に向かった。

誰もいない芝生の上に座り込み、広がる夜空を見上げる。

満天の星が、静かに瞬いている。前世の秋田で見た星空に、少しだけ似ていた。

レオンは目を閉じ、瞑想の姿勢を取った。

魔力鍛錬の基本。呼吸を整え、精神を集中させ、空気中の魔力素を感じ取ろうとする。

だが——

何も感じない。

七年間、毎晩繰り返してきた。

一度も、成功したことがない。

「……やはり、駄目か」

ゆっくりと目を開け、ため息をついた。

胸元の吊り飾りに手を伸ばす。母がくれた、家に代々伝わる古めかしい吊り飾り。

無意識に強く握りしめていた。手のひらの傷口が開き、血が滲んで吊り飾りの表面を濡らす。

「俺は……本当にこのまま終わるのか」

声に出すつもりはなかった。だが、言葉が勝手にこぼれ落ちた。

七年前、俺はまだ家の誇りだった。「百年に一度の天才」。父は夕食時に俺の頭を撫でながら言った。

——レオン、お前はセレストーム家の誇りだ。

あの頃の父の声を、今でも覚えている。

それが今では——

鑑定Fランク。婚約破棄。北の辺境への追放。

使用人たちの憐れみの目。兄たちの嘲笑。父の深い失望。

そして今日、エイドリアンに殴られそうになって、従妹に助けてもらった。

……情けない。

目の奥が熱くなる。

前世を思い出す。

秋田の実家を出て、東京で五年間働いた。満員電車に揺られ、深夜まで残業し、安アパートに帰って眠るだけの日々。

それでも生きていた。

それでも——投げ出さなかった。

なら、今だって。

レオンは涙を拭った。

袖で乱暴に顔を擦り、夜空を睨みつける。

「泣くのは、これで最後だ」

静かだが、揺るぎない声だった。

立ち上がる。膝についた芝を払い、拳を握りしめる。

エイドリアンの嘲笑が脳裏をよぎる。周囲の哀れみの視線が蘇る。そして——自分を庇うエヴィルの、あの小さな背中。

「もう誰かに守られるだけの自分じゃ、いたくない」

歯を食いしばる。

「見てろ。全員——俺は、ここから這い上がる」

ちょうどその時——

手の中の吊り飾りが、突然微かな光を放った。

幽玄な青い光。

夜空の下で、異様に目立つ。

レオンは呆然とした。

これは……

【第十一話 完】