作品タイトル不明
第11話 落日の残照
婚約破棄の翌日。
屋敷の廊下は、いつにも増して居心地が悪かった。
「おい、聞いたか? セレストーム家の四男坊、婚約破棄されたんだってよ」
「しかもクラウゼンブルク公爵家のリーゼロッテ様にだろ? そりゃそうだよな、魔力値3の落ちこぼれじゃ……」
「鑑定でもFランクだったんだろ? 錬金系の。ははは、終わってるな」
すれ違う者たちの囁き声が、刃物のように耳に突き刺さる。
レオンは歯を食いしばり、足を止めなかった。
拳を強く握りしめる。爪が手のひらに食い込み、鈍い痛みが走る。
昨日、大広間で自ら婚約破棄の文書を叩きつけた。レオンがリーゼロッテを一方的に解放した——という形にはした。だが事情を知らない者たちには、そんなことは関係ない。
魔力値3の落ちこぼれが、カエルム・アルカナムの天才令嬢に捨てられた。
彼らの目には、それだけが映っている。
構うものか。
レオンは前だけを見て、自室へと向かった。
◇
「よう。我が家の大天才様じゃないか」
角を曲がった先に、一つの影が立ちはだかっていた。
壁にもたれかかり、腕を組んだまま、にやりと笑っている。
エイドリアン。セレストーム家の次男。
「エイドリアン兄上」
レオンは立ち止まり、低い声で呼びかけた。
「何のご用ですか」
「別に。通りかかったら見えたもんでな」
エイドリアンは壁から背を離し、ゆっくりとレオンの方へ歩いてきた。
「昨日は大変だったな、レオン。リーゼロッテ様にあんな見事に振られちまって」
声は軽いが、その目は笑っていなかった。
「まあ、当然だよな。魔力値3の落ちこぼれと婚約なんて、向こうにしたら罰ゲームみたいなもんだ」
「……用がないなら、通してもらえますか」
「まあまあ、そう急ぐなよ」
エイドリアンがさらに一歩近づき、レオンの行く手を塞いだ。
「しかし笑えるよな。鑑定でFランク。婚約破棄。北の辺境に追放。これ以上の落ちぶれ方ってあるか?」
エイドリアンの声が廊下に響く。行き交う使用人たちが足を止め、遠巻きに様子を窺っている。だが誰も、間に入ろうとはしない。
セレストーム家の次男に逆らえる者など、この屋敷にはいない。
「あ、でもそうか。お前にはまだ『期待されないことの自由』ってやつがあるんだっけ?」
エイドリアンが嘲るように言った。
「前に使用人たちがそう噂してたぞ。四男坊は気楽でいいってな。期待されないから、失望もされない。素晴らしい人生じゃないか」
レオンの目が、微かに揺れた。
——刺さる。
自分が本心で思っていたことを、こうして嘲笑の道具にされると。
「もう十分でしょう」
レオンは静かに言った。
「通してください」
エイドリアンの横をすり抜けようとした。
だが——
ガシッ、と腕を掴まれた。
「おい、誰が行っていいと言った?」
エイドリアンの声から、遊びの色が消えた。
「お前のせいでな、レオン。昨日の婚約破棄の一件で、親父は屋敷中に箝口令を敷いた。だがもう外にも噂が広まってる。セレストーム家の恥さらしだって」
力が強まる。
「お前一人の問題じゃなくなってんだよ。家全体の名に泥を塗りやがって」
「離せ」
レオンは低い声で言った。
「聞こえなかったか? 離せと言った」
「はっ。偉そうに——」
エイドリアンの目が据わった。掴んでいた手を離し、代わりに拳を振り上げた。
「その減らず口を——」
レオンの目が鋭くなった。
殴られる、と分かっていた。体格差がありすぎる。魔力の差は言うまでもない。殴り返したところで、勝てるはずがない。
だが——
退く気はなかった。
前世、俺は妥協に妥協を重ね、忍耐に忍耐を重ねた。嫌な上司に頭を下げ、理不尽な残業に耐え、「仕方ない」と自分に言い聞かせ続けた。
あの頃の自分には、もう戻らない。
レオンは一歩も引かず、エイドリアンを真っ直ぐ見つめた。
拳が降りてくる——
「エイドリアン」
凛とした声が、廊下に響いた。
静かだが、芯のある声。
エイドリアンの拳が、空中で止まった。
廊下の奥から、一つの影が歩いてきた。紫色のドレスを纏った華奢な少女。エヴィル・セレストーム。
周囲の使用人たちが、自然と道を開ける。
「何をしているの」
エヴィルの声は淡々としていた。だが、その紫色の瞳には有無を言わさぬ光が宿っている。
「エヴィル……」
エイドリアンの表情が変わった。振り上げた拳をゆっくりと下ろし、わずかに後ずさる。
無理もない。
昨日の鑑定で、エヴィルは星相系SSSランク、魔力値測定不能という結果を叩き出した。家族の中で最も将来を嘱望される存在。長老たちですら一目置いている。
「別に、何でもない。レオンとちょっと話をしていただけだ」
エイドリアンは取り繕うように笑った。
エヴィルは彼を一瞥しただけで、それ以上は何も言わなかった。視線をレオンに移す。
「大丈夫?」
「ああ。大丈夫だ」
レオンは頷いた。
エヴィルの姿を見て、胸の奥に複雑な感情が渦巻く。また彼女に助けられた。幼い頃から、いつもそうだった。
だが——もう、いつまでも従妹に庇われているわけにはいかない。
「行きましょう」
エヴィルはそう言うと、振り返ってレオンの前を歩き始めた。
「ふん……」
背後で、エイドリアンの低い声が聞こえた。
「いつまでもエヴィル様に守ってもらえると思うなよ」
レオンはその言葉に足を止めず、ただ小さく呟いた。
「分かっている」
それは、エイドリアンに向けた言葉ではなかった。
自分自身に、言い聞かせた言葉だった。
◇
エヴィルと別れた後、レオンは自室には戻らなかった。
裏庭に向かった。
誰もいない芝生の上に座り込み、広がる夜空を見上げる。
満天の星が、静かに瞬いている。前世の秋田で見た星空に、少しだけ似ていた。
レオンは目を閉じ、瞑想の姿勢を取った。
魔力鍛錬の基本。呼吸を整え、精神を集中させ、空気中の魔力素を感じ取ろうとする。
だが——
何も感じない。
七年間、毎晩繰り返してきた。
一度も、成功したことがない。
「……やはり、駄目か」
ゆっくりと目を開け、ため息をついた。
胸元の吊り飾りに手を伸ばす。母がくれた、家に代々伝わる古めかしい吊り飾り。
無意識に強く握りしめていた。手のひらの傷口が開き、血が滲んで吊り飾りの表面を濡らす。
「俺は……本当にこのまま終わるのか」
声に出すつもりはなかった。だが、言葉が勝手にこぼれ落ちた。
七年前、俺はまだ家の誇りだった。「百年に一度の天才」。父は夕食時に俺の頭を撫でながら言った。
——レオン、お前はセレストーム家の誇りだ。
あの頃の父の声を、今でも覚えている。
それが今では——
鑑定Fランク。婚約破棄。北の辺境への追放。
使用人たちの憐れみの目。兄たちの嘲笑。父の深い失望。
そして今日、エイドリアンに殴られそうになって、従妹に助けてもらった。
……情けない。
目の奥が熱くなる。
前世を思い出す。
秋田の実家を出て、東京で五年間働いた。満員電車に揺られ、深夜まで残業し、安アパートに帰って眠るだけの日々。
それでも生きていた。
それでも——投げ出さなかった。
なら、今だって。
レオンは涙を拭った。
袖で乱暴に顔を擦り、夜空を睨みつける。
「泣くのは、これで最後だ」
静かだが、揺るぎない声だった。
立ち上がる。膝についた芝を払い、拳を握りしめる。
エイドリアンの嘲笑が脳裏をよぎる。周囲の哀れみの視線が蘇る。そして——自分を庇うエヴィルの、あの小さな背中。
「もう誰かに守られるだけの自分じゃ、いたくない」
歯を食いしばる。
「見てろ。全員——俺は、ここから這い上がる」
ちょうどその時——
手の中の吊り飾りが、突然微かな光を放った。
幽玄な青い光。
夜空の下で、異様に目立つ。
レオンは呆然とした。
これは……
【第十一話 完】