軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

12.心は痛まないわ

マリアーノ侯爵令息が学院に姿を見せなくなって、もう一週間。

ああ、教室とは、こんなにも空気が澄んでいたのね。窓から差し込む朝の光さえ柔らかく感じてしまうほど、快適。胸の奥がふっと軽くなる。

これが“平穏”。なんて幸せなことでしょう。

耳にした話では、侯爵令息の留学準備は着々と進んでいるそうで、早ければ来週には旅立つのだとか。

理由は公表していないらしいけれど──あれだけ大勢の前で見事に喧嘩を売ったのだもの。表立って言わないだけで、皆さまの心の中は同じ。

“勝負を挑んだ末に、令嬢に負けた”という噂は、学院の廊下という廊下を風より速く駆け抜けているのでしょうね。

そんなことを考えていると、教室の扉がそっと開き、ヴィクター様がこちらへ歩み寄ってくる。淡い光が髪に落ちて、その構図は、もはや絵画といっていい。

「聞いたかい、セレナ。マリアーノ侯爵令息が留学するって」

「ええ、そうですの。申し訳ございません……実は心配すると思って言っていなかったのですが……」

ほんの少し罪悪感を込めて言うと、ヴィクター様の眉がかすかに下がる。

私は、あの日──ヴィクター様が駆けつけてくる直前の一連のやり取りを、落ち着いた声で説明した。

「そんな……もしセレナが負けていたら……」

ヴィクター様の声音が震え、心配の色がその表情いっぱいにあふれる。けれど、すぐに我に返ったように慌てて手を振りはじめた。

「いや、信じていなかったとか、そういうことじゃなくて!」

くすり。

あら、可愛らしい。私はその慌てぶりに思わず微笑んでしまう。

「私、約束を違えていただいてもよろしいと伝えたのですが……そこは宰相様が……」

「セレナは悪くないよ。マリアーノ侯爵令息が……はっ!セレナ、これが『ざまぁ』だよ。人にやろうとした悪いことが自分に返ってくる!」

「まぁ、これが! じゃあ、仕方がないですわね」

私は肩をすくめ、無邪気に笑ってみせた。胸の奥には、ほんのり甘い勝利の香り。

「うん、仕方がない。そうだね、マリアーノ侯爵令息には、一から勉強することを通して、心を改めて帰って来てもらいたいね」

ヴィクター様は真剣な瞳で言葉を結んだ。その眼差しは、未来を見据える人のものだ。

「彼が留学している間に、私たちも成長し続けましょう。そして、彼が帰ってきたときには、私たちの成長に驚いてもらいましょう」

──決して埋まらない、圧倒的な成長の差に、ね。

心の中でそっと呟くと、ヴィクター様も満足げに頷いた。こうして私たちは、ひとつの騒動の幕引きとともに、新しい未来への決意を胸にするのだった。

*****

レティシアと向かい合い、香り高い紅茶をゆっくりと口に運びながら、私は先ほどの一連の出来事を語って聞かせていた。

午後の柔らかな陽光がサロンのテーブルクロスに模様を落とし、カップの縁がきらりと光る。どこかの席では他愛のない会話や笑い声が響いているのに、私たちの周囲だけは静謐な空気に包まれていた。

話し終えると、レティシアは紅茶をそっと置き、ため息まじりの声で言う。

「……ヴィクター様、なんて純粋な。セレナ、あなたよく心が痛まないわね」

「痛みませんわ。ヴィクター様に嘘などついていませんもの。」

レティシアは、まるで不思議なものを見るように眉を寄せる。

どうしてそんなに不満げなのかしら? 理解に苦しむわ。

「……まあ、それはいいわ」

レティシアは手を振って話を切ったあと、唇の端に意味深な笑みを浮かべた。

「それにしても、すべて順調に進んでいるようね。まるで外堀がどんどん埋まっていくように感じるわ。次は、いよいよ、あの子がターゲットになるのかしら?」

「あの子はまだ早いと思うわ。次は、あの子の妹じゃないかしら。最近また、ヴィクター様の周りをうろちょろしていますもの」

──私のヴィクター様に懸想している女。

その言葉は口には出さないけれど、胸の内でぴしゃりと線を引く。

ああ、ああいう子は本当に鬱陶しい。

「いたわね、そっくりなのが」

レティシアが楽しげに目を細め、口角を上品に持ち上げる。その余裕の笑みに、彼女の洞察と悪戯心が隠しきれず滲んでいた。

「今のヴィクター様とセレナの関係を知っても、彼女は近づいてくるかしら…いえ、きっと近づいてくるわね。セレナの逆鱗に触れることになるわ。ああ、大変」

わざとらしく肩をすくめるレティシア。けれど、その声色には明らかな愉悦が混じっている。

計略や陰謀を巡らせて自分の望む未来を掴もうとしている──そう吹聴されているミレーナの妹、オレリア。

しかし、そんなもの、あの子にはまだ十年早い。

「あの子がどんな手段を使ったとしても、私が勝者になるのは決まっておりますのに」

紅茶を一口飲み、静かに微笑む。