作品タイトル不明
第22話 引き返せない道
魔王城の玉座の間は、現実感を奪うほどに歪んでいた。
黒水晶の柱が並ぶ広間は、どこか生き物の体内のようで、紫色の燐光が脈を打つたび、空間そのものが呼吸しているかのように錯覚する。
天井は高く、見上げれば闇に溶け込み、終わりが見えない。足元に敷かれた深紅の絨毯はやけに柔らかく、踏みしめるたびに意志を吸い取られていくようだった。
甘い。
鼻腔を満たす香りは、ただの匂いじゃない。思考を鈍らせ、判断を遅らせるために計算された“魔力の気配”だ。
――ここに長くいちゃいけない。
頭では分かっているのに、体が言うことをきかない。
俺――瀬野龍夜は、無意識のうちに玉座へと一歩、また一歩と近づいていた。
「ねえ、龍夜くん」
ラスフェルの声が、距離という概念を無視して届く。耳からじゃない。頭の奥、記憶と感情が絡み合う場所を、直接撫でてくる。
「もう十分でしょ? 戦って、選ばれて、期待されて。疲れたでしょう」
甘い声色。否定しがたい優しさ。
それは俺自身が、心のどこかで欲しがっていた言葉でもあった。
スローライフを夢見て転生したはずだった。
静かな場所で、無理せず、誰にも期待されず、ただ生きる――そんな未来。
なのに気づけば、救世主だの運命だの、背負わされるものばかり増えていく。
「ここにいれば、全部忘れられるよ」
ラスフェルの囁きに、視界が揺らぐ。
重たい責任も、失敗の記憶も、後悔も。
全部、溶けてなくなる気がした。
――まずい。
歯を食いしばった、その瞬間。
「龍夜くんっ!」
衝撃とともに、視界が一気に現実へ引き戻される。
小さな体が、胸にぶつかってきた。
勢いよく抱きつかれ、思わず体勢を立て直す。
「ミユウ……?」
ミユウだった。
細い腕で必死に俺にしがみつき、顔を押しつけてくる。震えが、はっきり伝わってきた。体温が近い。心臓の鼓動が、速い。
「だめ……そっち、行っちゃ……」
掠れた声。
その瞳は潤み、甘さよりも強い不安を湛えている。
――これは、誘惑じゃない。
胸に落ちたその確信は、妙なほどはっきりしていた。
これは、追い詰められた心が、最後の拠り所に縋っているだけだ。
それでも、危うさはある。
この温もりに身を委ねれば、楽になれる。
誰かに必要とされているという感覚が、心を満たしてくる。
――だからこそ、だめだ。
俺はそっと、ミユウの肩に手を置いた。
「ミユウ」
名前を呼ぶと、彼女の体がびくりと跳ねる。
「俺を見ろ」
強くはしない。ただ、逃げられないように。
ミユウは恐る恐る顔を上げ、俺を見る。
その瞳に映っていたのは、期待でも、甘い欲求でもなかった。
失うことへの恐怖。
それと、ひどく幼い諦め。
胸が、痛んだ。
「……こわいの……」
ミユウの声は、ほとんど消え入りそうだった。
「また……ひとりに、なるのが……」
その一言で、すべてが繋がった。
九百年前の記憶。
奪われた家族。
笑って誤魔化すことでしか、自分を保てなかった日々。
俺は、深く息を吸う。
「ミユウ」
もう一度、今度は静かに。
「お前が欲しいのは、ここじゃない」
ミユウの指が、俺の服をきゅっと掴む。
「……でも……」
「分かってる。忘れたくなるくらい、怖いんだよな」
言葉を選びながら、続ける。
「でも、こんな夢に逃げたって、怖さは消えない。むしろ、余計に一人になる」
ミユウの瞳から、涙が溢れた。
俺は、ゆっくりと彼女を抱き寄せる。
守るための距離で。逃げ道を塞がない、確かな抱擁。
「俺は、ここにいる」
耳元で、はっきりと言った。
「一緒に帰ろう。喧嘩して、笑って、くだらないことで悩んでさ。朝起きて、ちゃんとご飯食べて。そういう毎日を、取り戻そう」
ミユウの体から、少しずつ力が抜けていく。
「……ふつうの……毎日……」
「そうだ」
短く、肯定する。
背後で、ラスフェルの気配が歪んだ。
苛立ちの混じった舌打ちが、空気を震わせる。
「終わりだ、ラスフェル」
俺は振り返らずに言った。
「この子の居場所は、俺が守る」
腕の中で、ミユウが小さく頷く。
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、
それでも――ほんの少しだけ。
いつもの、うざ可愛い笑みを浮かべた。
「……龍夜くん……大好き……」
その一言が、胸の奥に静かに広がった。
どんな闇が来ようと。
どんな誘惑が待っていようと。
俺たちは、もう、逃げない。