軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第20話 逃げないと決めた日

魔王城最上階、黒水晶の玉座の間。

扉を押し開けた瞬間、凍てつく闇が俺の喉を抉った。

息を吸うたび肺が痛む。足元の鏡のような床に映る俺は、もう見慣れた高校生の姿じゃなかった。

制服は血と煤で黒ずみ、破れた袖口から覗く腕は細かく震え、汗で張り付いた前髪の下の目は――燃えていた。自分でも怖くなるほど、赤く、熱く、狂おしく。

隣に立つルゥは、ただ黙っていた。

大天使長の六枚の翼は、今まで見たどの瞬間よりも儚く震えていた。純白の羽が、まるで今にも散りそうな雪のように。

白銀の髪が微かに揺れ、長い睫毛の下で瞳が揺れている。900年分の憎しみと、900年分の後悔と、900年分の愛が、その瞳の中で渦を巻いていた。

「……ルゥ」

俺が小さく呼びかけると、彼は唇を噛みしめて首を振った。

「黙れ……救世主ごっこ野郎」

その声は、怒りよりもずっと深い。絶望に濡れ、涸れ、掠れていた。家族を惨殺され、幼なじみを奪われ、それでも剣を握り続けた男が、今、初めて折れそうだった。

俺は唇を噛んだ。血の味が広がる。

スローライフ。あの夢は、もう何度も胸の中で死んでいた。

異世界に来たその日から、俺はずっと願っていた。

魔王とか救世主とか、そんな馬鹿げた大役は全部他人に押し付けて、どこかの小さな村で畑を耕して、昼寝して、ミユウと一緒にくだらないことで笑って、夕陽を見ながら「今日も平和だったな」って呟いて眠る。それだけでよかった。

なのに。

なのに今、俺はここにいる。

戦闘力10の、ただの高校一年生が。

玉座の奥、黒い水晶の玉座にラスフェルが座っていた。

魔王子は優雅に脚を組み、膝の上に――俺の全てを乗せていた。

ミユウ。

小さな体は糸の切れた人形のようだった。いつも跳ねるように動いていたツインテールはだらりと垂れ、肩に力なく落ちている。

白いドレスは血でまだらに染まり、細い腕はだらりと揺れている。けれど、一番胸を抉ったのは――その瞳だった。

あの、うざ可愛くて、キラキラして、俺を「龍夜くん!」って呼び捨てにする時の、太陽みたいな光が、完全に消えていた。

代わりに、どす黒く濁った赤。焦点の合わない、虚ろな瞳。俺を見ても、何も映していない。

「……龍夜……くん……?」

掠れた、か細い声。

それでも、俺の名前を呼ぼうとした。

その一瞬で、心臓が握り潰されたみたいに痛んだ。息が止まる。視界が滲む。涙腺が勝手に決壊しそうになるのを、必死で堪えた。

ラスフェルが、甘く、楽しそうに笑う。

「やっと来たね、救世主様♪ 遅かったから、ミユウちゃん、すっごく寂しがっちゃってたよ? 」

細い指がミユウの小さな顎を掴み、無理やり俺の方へ顔を向けさせる。ミユウの唇が開き、涎が糸を引いて落ちた。

「ほら、見て? こんなに俺のこと待っててくれたんだよ? 」

「……やめろ」

俺の声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。

「ミユウに……触るな」

ラスフェルは目を細め、首を傾げた。

「 誘惑(テンプ) って、本当に簡単なんだ。心の隙間にそっと囁くだけ。『あの子はもういらない』『あの子は裏切った』『あの子は弱いから、捨てていい』ってね」

彼の指がミユウの耳元に触れる。

その瞬間、ミユウの体がびくんと跳ねた。

「うっ……あ……っ」

小さな悲鳴。

そして、涙が、ぽろぽろと頬を伝う。

「ごめん……ね……龍夜くん……ミユウ……もう……だめ……ミユウ、ラスフェル様の……ものだから……」

その言葉が、俺の中で何かを粉々に砕いた。

今まで必死で抑え込んでいた感情が、一気に溢れ出した。

悔しさ。怒り。恐怖。絶望。そして――何よりも、愛しさ。

ミユウが俺を呼んでくれた、あの最初の日から、俺はこの子を守りたかった。

うざいくらい元気で、俺の腕に絡みついてきて、「龍夜くん大好き!」って笑って、夜中に怖い夢見て泣きながら俺の胸に顔を埋めてくる、あのちっちゃくて、温かくて、壊れそうな女の子を。

俺は、ただの高校生だ。

剣も魔法もろくに使えない。ステータス画面を開けば、戦闘力10の数字がいつも嘲笑うように光ってる。

それでも。

それでも俺は――

胸の奥で、熱いものが爆発した。

涙が、頬を伝うのを止められなかった。

「ルゥ……」

俺は震える声で、しかし確かに、名前を呼んだ。

「……ああ」

ルゥの翼が、一気に広がった。

純白の六枚の翼から、光が奔流のように溢れ出す。

闇を焼き払うような、神聖で、痛いほどの光。黒水晶の玉座の間が、まるで朝焼けのように白く染まった。

その光が俺を包み込む。

身体が軽くなる。心臓の鼓動が、耳元で暴れるように響く。背中に、まるで新しい翼が生えたような――熱い、強い、何かが宿った。

俺は一歩、踏み出した。

戦闘力10の、ただの足取り。

なのに、床が震えた。空気が震えた。俺の心が、震えた。

「ラスフェル」

俺はまっすぐ魔王子を見据えた。

涙が止まらない。声が震える。でも、もう隠さない。

「その子から……手を離せ。今すぐだ」

ラスフェルがゆっくり立ち上がる。

ミユウの小さな体を、片手で抱きかかえたまま。

「断ったら? 」

嘲るような、甘い声。

俺は深く息を吸った。

胸の奥で、燃え上がるものが、言葉になる。

「なら……俺が、てめぇを殺す」

その瞬間、涙がぽろりと落ちた。

ルゥの光の刃が閃き、俺の身体を包む光が一気に膨張した。

ラスフェルが笑う。

「面白い。なら、遊んであげようか――救世主様」

黒い魔力が渦を巻き、玉座の間全体が闇に染まり始めた。

俺は拳を握りしめた。

指の関節が白くなるほど強く。

心の中で、叫ぶように呟く。

(ミユウ……待ってろ。絶対、連れ戻す。

どんなに弱くても、どんなに惨めでも、

俺はお前を――絶対に、取り戻すから)

そして――

俺は、涙を流したまま、戦闘力10の高校一年生のまま、魔王子に向かって走り出した。

黒と白が激突する瞬間、

ミユウの小さな、掠れた声が、確かに聞こえた。

「……龍夜……くん……」

その声が、俺の全てだった。