作品タイトル不明
第179話 アストリアに響く産声
磨き布を当てると、アストラルフレイムの刃に残っていた細かな灰が、銀の粉みたいに俺の指先へ移り、神殿の夜風が開いた窓から入り込んで、机の上の灯火を細く揺らした。
刃を寝かせる角度を変えるたび、天井の白い石柱と、壁に掛けた小さな外套と、床に置かれた木の剣が光の中でゆがみ、俺は息を落として、布を根元から切っ先へ滑らせた。
戦いの熱を吸い込んできた剣は、もう唸らず、俺の膝の上で重みだけを残し、磨いたところから青白い筋をひとつずつ返してきた。
刃の腹に、眠る前まで俺の腕にぶら下がっていたアインの小さな手の跡が重なった。
木の剣を引きずって部屋に入ってきた足音、何度もつまずきながら「パパ、もういっかい」と言った声、振り上げた木の剣が自分の頭に当たって、目を丸くした顔まで、灯火のゆらぎに混ざって刃の上を通り過ぎていく。
俺は布を握り直し、鍔の細い溝に残った黒ずみを親指で押し出しながら、いつかこの重さを支える腕が、今は俺の袖を掴んで眠る小さな腕なのだと、刃の冷たさで確かめた。
背後で衣擦れがして、振り向く前に、ミユウの羽が灯火を半分だけ隠した。
白い寝衣の裾が床を擦り、膨らんだ腹を片手で支えた彼女は、扉のそばで足を止め、俺の膝の上のアストラルフレイムを見下ろした。
窓から入った風が長い銀白の髪を肩へ流し、彼女は小さく息を吸ってから、俺の隣に腰を下ろし、布を持つ俺の手首に指を重ねた。
「あなた、まだ磨いていたのね」
「眠れなくてな。こいつを見てると、手を止められない」
刃に映ったミユウの瞳が、灯火の揺れで水面みたいに崩れた。彼女は俺の手首から指を離さず、鍔元の傷へ視線を落とし、そこに残った欠けを爪の先でなぞりかけて、途中で止めた。
「アインのため?」
「いつか、あいつが大きくなって、俺の背中じゃなく、自分の足で立つ日が来る。その時に、錆びた刃を見せたくない」
「まだ、木の剣を抱いて眠っているのに」
「知ってる。さっきまで俺の布団に潜り込んで、木の剣で俺の脇腹を突いてきた」
ミユウの唇が少し動き、笑いきれないまま、白い指が腹の上で丸くなった。
部屋の奥では、並べて敷いた小さな寝具の上で、アインとジュリアが同じ向きに丸まり、アインの木の剣が布団から半分だけはみ出していた。
ジュリアの手はアインの袖を握り、寝息の合間に小さな羽がふわりと持ち上がって、また落ちた。
「あなたが信じているのは、分かるの」
ミユウは言葉を切り、腹の前で指を絡めた。外から夜の鐘が低く響き、石の床がかすかに震え、灯火の芯が一度だけ赤く膨らんだ。
「でも、アインが剣を持つ姿を思うと、胸の奥がぎゅっとなる。あの子は、まだ転んだだけで、あなたの服を掴むのに」
「俺も同じだ。木の剣を振ってるだけで、手のひらに豆ができないか気になる」
「それなのに、あなたは磨くのね」
「磨くよ。怖いから、余計に」
布を刃に当てると、硬い金属が指の腹を押し返し、冷たさが爪の奥まで染みた。俺は刃先を灯火へ向け、細く残った曇りを見つけて、そこへ布を重ねた。
「俺が見せるのは、戦うための刃じゃない。守るために手入れを続ける背中だ。アインがいつか勇者になるなら、最初に覚えるのは斬り方じゃなくて、終わったあとに何を残すかだと思う」
ミユウは俺の横顔を見て、長い髪を耳の後ろへ流した。彼女の指が、俺の持つ布の端にそっと触れ、ためらったあと、小さく摘まんだ。
「わたしも、少しだけ」
「無理するな。体、重いだろ」
「あなたばかりに触らせたくないの。この剣は、あなたのものだけど、あなたが守ってきた時間も、アインがこれから見る背中も、わたしの中にもあるから」
ミユウの指は力が入りすぎず、布を一度、刃の根元から半分まで滑らせた。刃に映った彼女の顔がゆっくり伸び、腹の影と重なり、俺の手の上で布が止まった。彼女の肩が小さく揺れ、息が喉の奥で引っかかる音がした。
「ミユウ?」
「……大丈夫」
言い終える前に、彼女の指が俺の袖を強く掴んだ。灯火の影が壁へ跳ね、アストラルフレイムの刃が膝の上でかすかに鳴った。ミユウは腹に手を当て、唇を結び、次の息を吸おうとして背を丸めた。
俺は剣を鞘へ戻し、机の上に置いた。金具が木を叩く音で、布団の上のアインがもぞもぞ動き、ジュリアの手が袖を握ったまま小さく跳ねた。
「あなた」
ミユウの声は細かった。けれど、俺の名を呼ぶ代わりに、その一言で俺の胸倉を掴んできた。俺は膝をつき、彼女の背に腕を回し、腰が床へ落ちないように支えた。羽の根元が熱を持ち、寝衣越しの体温が俺の腕に押しつけられた。
「始まったのか」
ミユウは返事をせず、俺の肩に額を預けた。息を吐くたび、指が俺の袖をきつく握り、爪が布に食い込む。窓の外で、雲の切れ間から星が覗き、神殿の柱に白い線を落とした。
「ミユウ、俺を見るんだ。息を合わせる」
「……あなた、手」
俺は彼女の手を取った。細い指が俺の手の甲を包み、次の波で骨ごと潰すみたいに握られた。
痛みが走った瞬間、俺の奥で戦場の音が消えた。魔王の咆哮も、剣の火花も、崩れる空も、全部遠くへ下がり、残ったのは彼女の息と、俺の手の中で震える指だけだった。
布団の方で、小さな声がした。
「パパ……?」
アインが上体を起こし、寝ぼけた目をこすりながら、木の剣を抱えたままこちらを見ていた。ジュリアも毛布から顔を出し、アインの袖を掴んだまま、唇を震わせた。
「ママ、いたい?」
ミユウが目を開き、汗で額に張りついた髪の隙間から、ふたりへ視線を向けた。
「大丈夫。そばにいて」
アインは木の剣を置き、裸足で床へ降りた。冷たい石に足の裏が触れたのか、肩をすくめながら、それでも俺の背中まで来て、服の裾を掴んだ。ジュリアは毛布を引きずり、途中で端を踏んで転びかけ、アインの背中にぶつかって止まった。
「パパ、こわいかお、やだ」
ジュリアの声が濡れて、俺は歯を食いしばっていた口をほどいた。ミユウの手はまだ俺の指を強く握り、次の波が来るたび、彼女の背中が弓みたいに反った。俺は片腕でミユウを支え、もう片方の手でアインとジュリアを近くへ引き寄せた。
「ここにいる。ママも、ここにいる」
「て、つなぐ」
アインが俺の服から手を離し、ミユウの寝衣の端をそっと摘まんだ。ジュリアはアインの後ろから手を伸ばし、ミユウの羽の先に触れ、すぐに引っ込めて、また触れた。
「ママ、がんばって」
ミユウは声を出さず、唇の端だけでふたりに応えた。汗がこめかみから首筋へ落ち、俺の腕に触れて熱い筋を残した。彼女の呼吸が乱れるたび、窓の外の星がにじみ、神殿の白い壁が遠くなったり近くなったりする。
俺は背中を支え直し、彼女の足元へ厚い布を引き寄せ、灯火を近づけた。
「あなた、離さないで」
「離さない」
「声を、聞かせて」
「ミユウ。俺はここだ。お前の手を握ってる。アインもジュリアも、すぐそこにいる」
「ママ、ここ」
「ママ、いたら、ふーってして」
ジュリアが自分の頬をふくらませ、息を吐いた。途中で咳き込み、アインが慌ててジュリアの肩を掴んだ。ミユウの喉からかすかな笑いが漏れ、その直後、痛みの波が彼女の体を奪い、笑いは途中で切れた。
俺の手の甲に、彼女の爪が食い込んだ。血がにじんだかどうかも分からないほど、熱が一点へ集まる。
アストラルフレイムは机の上で鞘に収まり、灯火を受けて、ただ鈍く光っていた。俺はそれを見て、すぐに視線を戻した。今、握るのは剣じゃない。守るのは刃の先じゃない。俺の掌にしがみつくこの指だ。
ミユウの羽が大きく震え、床に散っていた小さな白い羽根が浮き上がった。窓の外で風が巻き、神殿の奥から鐘ではない低い響きが広がった。天井の高い場所に埋め込まれた石が淡く光り、壁の紋様が呼吸するみたいに明滅した。
「あなた……っ」
「息を吐け。俺に合わせろ」
「パパ、ママ、いたい?」
アインの指が俺の裾をまた掴んだ。俺は視線を下げず、ミユウの額の汗を袖で拭った。
「赤ちゃんが、出てこようとしてる。ママが、いま、迎えにいってる」
アインは口を開けたまま、俺とミユウの間を見た。難しい顔はしない。木の剣も持たない。ただ、床に膝をつき、ミユウの寝衣を両手で握った。
「ママ、まってる」
ジュリアも隣に座り込み、毛布を胸に抱えたまま、涙で光る目をこすった。
「赤ちゃん、こっち」
ミユウの肩が震え、俺の腕に全身の重さが預けられた。
俺は彼女の背中に回した手を強くし、耳元で息の数を数えた。ひとつ、ふたつ、声にすると彼女の息が追いついてくる。みっつ、そこで痛みが噛みつき、彼女の指が俺の手を握り潰す。よっつ、俺は自分の息を吐いて、彼女の額に額を寄せた。
「ミユウ、聞こえるか」
「……聞こえる」
「俺がいる。お前の声も、ちゃんと聞こえてる」
「あなた、赤ちゃん……」
「来る。もうすぐだ」
灯火が一気に伸び、窓から流れ込んだ星明かりと混ざって、部屋の床に白い輪を作った。
ミユウの羽がその輪の上で震え、アインとジュリアの小さな足が光の端に浮かび上がる。神殿の外から、遠くの羽音が幾重にも重なって聞こえた。誰かが来たのではない。
アストリアそのものが息を潜め、石も風も星も、この部屋の小さな音に耳を寄せているみたいだった。
ミユウが俺の手を引き寄せた。俺は彼女の体を支え、膝で床を押さえ、汗で滑る肩を抱いた。彼女の喉から短い声が漏れ、次の瞬間、部屋の空気が張り詰めた糸みたいに細くなった。
そして、産声が落ちた。
最初は、羽根が擦れるような細い音だった。けれど一息遅れて、その声は小さな体いっぱいに広がり、神殿の白い壁へ跳ね返り、俺の胸の骨を内側から叩いた。
ミユウの指から力が抜け、俺の手の上に落ちた。彼女は息を吐き、濡れたまつ毛を震わせながら、俺の腕の中で目を開けた。
小さな命が、布の中で動いた。まだ赤く、まだ頼りなく、指先は俺の親指の爪より小さかった。俺が触れる前に、その小さな手が空を探り、何も掴めないまま、震えて開いた。ミユウはその手を見て、唇を噛み、次の息で名前のない声をこぼした。
「……あなた」
「ああ」
俺はそれ以上、言葉を足せなかった。喉の奥が熱く、息を吸うだけで胸が痛んだ。
ミユウの腕に小さな体を寄せると、赤ん坊はまた声を上げ、白い布の中で足をばたつかせた。アインが目を丸くし、ジュリアは毛布を抱えたまま、そろそろと近づいた。
「ちいさい」
アインの声は息に混ざって消えそうだった。
「赤ちゃん、ないてる」
ジュリアが口をへの字に曲げ、赤ん坊の足が布の端から少しだけ出ると、慌てて毛布を差し出した。
「さむい、これ」
「ジュリアの毛布、貸してくれるのか」
ジュリアはこくんと頷き、すぐにアインの後ろへ隠れた。アインはその毛布の端を持ち、どうしていいか分からない顔で俺を見た。
俺は受け取り、ミユウの腕の中の小さな体へ重ねた。毛布は大きすぎて、赤ん坊の体を何度も包めそうだった。
「パパ、だっこ?」
「今はママが抱いてる。あとで、そっとな」
アインは唇を結び、両手を膝の上に置いた。けれど指がじっとしていられず、何度も開いて、閉じた。ジュリアはアインの袖を掴み、赤ん坊を覗き込んでは、すぐにミユウの顔へ視線を戻した。
「ママ、いたくない?」
ミユウは白い頬に汗を残したまま、ジュリアへ手を伸ばした。ジュリアは少し迷ってから、その指に自分の指先を乗せた。
「もう、大丈夫」
「ほんと?」
「ほんとよ」
ジュリアはまだ眉を下げたまま、ミユウの指をきゅっと握った。アインも近づき、ミユウの寝衣をそっと掴んだ。
「ママ、えらい」
五歳の口からこぼれたそれは、どんな祝福よりも小さくて、不格好で、胸の奥を乱暴に押した。ミユウの目から涙が一粒落ち、赤ん坊の包まれた毛布に吸い込まれた。
彼女はアインの頭に指を置き、髪を撫でようとして、力が足りず途中で止めた。俺がその手を支えると、彼女の指がアインの髪に触れた。
「アインも、ジュリアも、待っていてくれたのね」
「まってた」
「ママ、どこにもいかない?」
「いかないわ」
ジュリアはその言葉を聞いて、ミユウの腕に頬を寄せた。アインも反対側から寄り添い、赤ん坊を潰さないように体を固くした。
俺は三人とひとつの小さな命を腕の輪の中へ収め、床に片膝をついたまま、窓の外へ視線を向けた。
夜明け前のアストリアが、白みはじめていた。
神殿の外壁に沿って、淡い金の光が流れ、柱の上に止まっていた鳥たちが一斉に羽を広げた。遠くの広場から、小さな鐘の音がひとつ鳴り、続いてもうひとつ、またひとつと重なっていく。誰が告げたわけでもないのに、光は通路を走り、庭の花びらを震わせ、雲の縁に薄い色を灯した。
赤ん坊がまた声を上げた。今度は先ほどより短く、けれどはっきりとした声だった。
ミユウはその小さな額に唇を近づけ、俺は彼女の肩を支えたまま、息を吐いた。アストラルフレイムは机の上に置かれ、朝の光を刃ではなく鞘の金具で受けていた。
昨夜まで俺の手が磨いていたものは、光の中で眠るように横たわり、いま磨かれるべきものは、俺の腕の中に増えた重みの方だった。
「あなた」
ミユウが俺を見上げた。疲れ切った目の奥に、朝の光が細く入っていた。
「アインのことも、ジュリアのことも、この子のことも……あなたは、また背負おうとするのね」
「背負うんじゃない。一緒に歩く」
「あなたらしい言い方」
「転んだら、たぶんアインに笑われる」
「パパ、ころぶ?」
アインがすぐに顔を上げた。俺は肩をすくめた。
「転ぶかもしれない」
「いたい?」
「痛いな」
アインは少し考えてから、俺の膝に手を置いた。
「パパ、て、つなぐ」
ジュリアもミユウの腕から顔を離し、反対側の俺の袖を掴んだ。
「パパ、こっちも」
俺は片手をアインに、袖をジュリアに取られ、ミユウと赤ん坊を抱く腕を動かせなくなった。
身動きできないまま、笑う息だけが喉から漏れた。ミユウはそれを見て、赤ん坊を胸に抱き直し、疲れた頬をほんの少し緩めた。
外の鐘が増えていく。白い石畳の向こうで、羽音が朝の空を切り、神殿の庭の花が光を受けて開いた。
誰の声もまだ部屋までは届かないのに、アストリアの空気そのものがあたたかく膨らみ、窓から入り込んだ風が、赤ん坊の毛布の端をそっと持ち上げた。
俺は机の上のアストラルフレイムへ視線を向けた。刃は見えない。鞘に収まったまま、朝の光だけを受けている。
いつかアインがこの部屋で、あの剣を見上げる日が来る。木の剣を抱えて、膝にすり傷を作って、俺の服を掴んだまま、それでも「パパ、もういっかい」と言う日が続いていく。その先に何があっても、俺はこの刃を磨き続ける。渡す日のためじゃない。今日も明日も、守る手を汚したままにしないために。
ミユウの腕の中で、赤ん坊の小さな手が毛布から出た。指が開き、空を掴み損ね、俺の指先に触れた。湿った小さな熱が、爪の横に乗った。
俺は息を止めたまま、その指に少しだけ触れ返した。