軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第151話 水晶は慢心を見逃さない

水晶の階段は、霧の中へ細く伸びていた。

足裏に触れる一段ごとに、氷を踏んだような冷たさが革靴の底から這い上がり、壁の内側を流れる淡い光が、俺の影を何度も折り曲げながら足元に貼りつける。

塔の外では風が鳴っているはずなのに、ここでは俺の息と、ミユウの羽がかすかに衣擦れする音と、アインとジュリアの小さな靴音だけが、透明な筒の中に閉じ込められていた。

「パパ、あそこ、ひかってる」

アインが俺の腰のあたりをつかみ、階段の先を指した。霧の切れ目に、柱とも根ともつかない水晶の束が立ち上がり、その奥で青白い文字が脈を打っている。

ジュリアはミユウのスカートを握ったまま、俺のほうへ顔を上げ、唇を小さく開いたきり声を落とした。

俺は二人の前に半歩出て、右手を剣の柄へ添えた。アストラルフレイムの鞘が腰で鳴り、その音だけで胸の奥に熱が差した。

ここまで来た。

何度も足を取られ、何度も幻に刃を向け、それでも俺は崩れなかった。

ルーンの迷宮も、恐れを映す壁も、俺たちの前で道を開けた。

俺はもう、召喚されたばかりの、剣の重さに膝を笑わせていた高校生じゃない。

守るものを背負い、島の試練を越え、白い羽を持つ彼女と、二人の子供の前に立っている。

胸の奥でそんな言葉が勝手に積み上がり、息を吸うたびに少しずつ肩を押し上げた。

「あなた」

ミユウの声が、霧に触れて細く揺れた。

俺は振り返らず、階段の先を見たまま頷いた。

「大丈夫だ。俺が前にいる」

言い終えた瞬間、壁の文字の光が一つだけ濁った。

青白かった線が、古い血のように暗く沈み、塔の内側を流れていた霧が、足首のあたりでぴたりと止まった。

アインの指が俺の服をつかむ力を強める。ジュリアの靴底が水晶をこすり、小さな音が跳ねて消えた。

俺は一歩、上へ足を置いた。

その段だけが、妙に軽かった。踏んだ感触が遅れて返ってくる。

足裏の下で、水晶の床に細い筋が走った。白い線は葉脈のように広がり、階段の縁から壁へ、壁から柱へ、柱から天井へ、息継ぎもなく這い上がる。

塔の奥で、低い音が鳴った。石臼が水の底で回るような、腹の内側を押される音だった。

「我が名はリオネル。貴様の思い上がり、全て、暴く。」

リオネル。それは塔自身の名前で、腹の奥底で消えない名のように刻まれた。

俺は足を戻そうとした。

戻せなかった。

踏み込んだ水晶が、靴底に吸いついていた。力を込めると、膝から腰へ嫌な震えが抜け、階段全体がきしんだ。

壁の文字が一斉に灯る。どれも同じ色ではない。青、白、銀、そして黒に近い紫。無数の線が俺の胸の前で重なり、剣の柄に添えた右手の影だけを濃く浮かび上がらせた。

「俺の……せいか」

言葉が喉にひっかかり、舌の上でざらついた。

塔は俺の刃を見ていたのではなかった。俺の足運びでも、腕の力でもない。

ここまで越えてきた数だけ、俺が胸の奥に隠していた熱を、ひとつずつ数えていた。

子供たちの前で格好をつけたい息遣い。ミユウに背中を預けられているという酔い。

もう失わない、俺なら守れる、次も必ず越えられるという、言葉にしないまま積もった硬いもの。

アストラルフレイムの柄が、手の中で冷たくなった。

「パパ?」

ジュリアの声が、布の下から出した鈴みたいに震えた。

俺は歯を噛み、足を引き剥がした。水晶の表面が靴底に細くまとわりつき、糸のように伸びて、ぱきんと切れる。その音を合図にしたように、塔の内側が傾いた。

世界が横へ滑った。

「ミユウ、子供たちを!」

俺が叫ぶより早く、ミユウは動いていた。白い羽が大きく広がり、霧を裂いて、アインとジュリアの前に立つ。

水晶の天井から柱の欠片が落ちた。鋭く尖った透明な塊が、光を飲み込みながら回転し、ミユウの肩のすぐ横をかすめて砕ける。破片が空中で弾け、頬に細かい痛みが散った。

「アイン、ジュリア、こっち!」

ミユウの手が二人の背を押した。突き飛ばすというより、羽ごと包んで外へ逃がす動きだった。

アインの小さな体が俺の膝にぶつかり、ジュリアの手が俺の袖をかすめる。俺は二人を腕で受け止め、倒れ込みそうになる体を階段の壁へ押しつけた。

「ママ!」

アインが叫んだ。

俺は顔を上げた。

ミユウの足元の階段が、丸く抜けていた。

白い靴が宙を踏む。銀髪が霧の中で広がり、羽の先が光る水晶の粉を払った。

ミユウは片手を伸ばし、俺のほうを見た。目が合った。唇が動く。声は来ない。塔の腹の奥から噴き上がった轟きが、彼女の言葉を砕いて飲み込んだ。

俺はアインとジュリアを壁際へ押しやり、身を投げた。

指先がミユウの手首に届く。

届くはずだった。

間に落ちてきた水晶の梁が、階段を叩き割った。透明な板が俺の胸へ跳ね返り、息が詰まる。右肩から壁にぶつかり、視界に白い火花が散った。

アストラルフレイムの鞘が腰を強く打ち、金具が悲鳴を上げる。

「あなた!」

今度は聞こえた。

ミユウの声が、霧の底から俺を引いた。

俺は手を伸ばした。指先が冷たい霧を裂き、白い羽の一枚をかすめる。羽根が一本、俺の爪に触れて離れた。

ミユウの体は崩れた階段の下へ落ちず、斜めにせり出した水晶の棚へ叩きつけられた。

背中の羽が広がり、衝撃を散らそうとする。だが次の瞬間、上から落ちた柱が棚の端を潰し、砕けた水晶の雨が彼女の周囲を閉じ込めた。

「ミユウ!」

俺は立ち上がろうとして膝をついた。床が波打っていた。

水晶の塔なのに、足元が水面みたいに沈み、上がり、また沈む。壁の文字が俺の視界の端で乱れ、形を変えた。読めないはずの線が、意味だけを胸に押し込んでくる。

越えた者ではない。

背負った者でもない。

己を量れ。

耳の奥に、誰かの声ではない圧が刺さった。

「黙れ」

俺は歯の隙間から吐き、壁に爪を立てた。水晶の表面で爪が滑り、皮膚が裂ける。血が出た。赤が透明な壁に薄く伸びた瞬間、黒紫の光がその赤に集まった。塔が、俺の中身を覗き込むように明滅する。

俺はアストラルフレイムを抜いた。

刃が霧を焼き、赤い光が階段に反射した。熱はある。

握った掌の中で、剣はまだ俺に応えている。けれど、その光さえも塔の内側では小さく見えた。水晶の柱は空まで続き、霧の奥で天井は見えず、崩れ落ちる音だけが上から下へ何重にも重なって降ってくる。

「パパ、ママが……!」

アインが俺の背にしがみついた。小さな手が震え、爪が服に食い込む。

ジュリアは声を出さず、俺の左腕に両手でしがみついていた。目からこぼれた雫が頬を伝い、顎の先で止まり、水晶の光を拾って小さく光った。

俺は二人を見た。

小さな羽。細い腕。俺の服を離せない指。

この子たちを守るために、俺は前に立った。ミユウを守るために、剣を取った。なのに、俺はいつの間にか、守っている自分の形に酔っていた。

背中を見せればついてきてくれると思い、前に出れば道が開くと思い、剣を抜けば崩れたものも斬れると、どこかで決めつけていた。

ミユウは、俺の代わりに二人を押し出した。

俺が一番先に動くべき瞬間に。

喉の奥が焼けた。けれど、その熱を名前で呼ぶ暇はない。

「二人とも、俺の後ろから離れるな」

俺は膝を立て、アインの手を自分のベルトへ導いた。ジュリアの小さな指を、俺の服の裾に握らせる。

「パパ……ママ、たすけて」

ジュリアが、息の合間に絞り出した。

「ああ」

俺は答えた。

それ以外を言えば、足が鈍る。

塔がまた傾いた。今度は左へ。壁から水晶の棘が生え、階段の縁が連鎖して崩れる。

下は見えない。霧が濃く、落ちていく破片の音だけが遠ざかり、やがて聞こえなくなる。俺は剣を逆手に持ち替え、崩れた階段の切っ先へ駆けた。

「パパ!」

アインの声が背中を打つ。

俺は振り返らなかった。振り返れば、子供の顔を見て足が止まる。

崩れた先まで、幅は大人の身ひとつぶんほど。霧の向こうに、ミユウが倒れている水晶の棚が見えた。

彼女は片膝をつき、片手で砕けた柱を支えていた。白い羽の一部が、水晶の欠片に挟まっている。銀髪に透明な粉が絡み、頬の横を細い血が流れていた。

それでも、彼女は俺を見ていた。

「来ないで!」

ミユウの声が、崩落音の合間を裂いた。

俺の足が止まりかける。

「子供たちを連れて、上へ!」

上へ。

俺は一瞬、塔の先を見た。霧の奥で、まだ階段は続いている。試練の終わりがそこにあるのかもしれない。

ここでミユウを置いて進めば、塔は俺たちを通すのかもしれない。子供たちだけでも外へ出せる道が、上にあるのかもしれない。

だが、ミユウの羽は水晶に縫い止められ、足元の棚には亀裂が伸びている。次に塔が揺れれば、あの場所ごと落ちる。

俺は剣を握り直した。

「置いていけるわけないだろ」

「あなた!」

ミユウの声が鋭く跳ねた。怒鳴ったわけではない。けれど、その一音で、胸の奥に積もっていた硬いものが砕けた。

俺は守る側の顔をして、ミユウの言葉を聞いていなかった。

彼女が何を見ているか、何を支えているか、何を捨てて二人を押し出したか、全部を自分の背中で覆ったつもりになっていた。

塔が、それを嗅ぎつけた。

水晶の文字が、俺の足元で濁る。剣の光が、霧の中で揺れる。

俺は息を吐き、剣先を下げた。

「アイン、ジュリア」

二人の気配が背中で固まる。

「パパは、ママを助ける。二人は、ここで待つんじゃない。壁に手をつけて、俺が戻る道を作ってくれ」

「みち?」

アインが鼻をすすりながら聞いた。

「塔は、俺だけを見てる。だから、二人の手で、俺が帰る場所を教えてくれ」

言いながら、俺自身がその言葉に縋っていた。正しいかどうかはわからない。けれど、二人をただ震えさせておくより、指先に役目を渡したかった。アインは唇を噛み、壁へ手を押し当てた。ジュリアも小さな掌を水晶につける。二人の羽が、霧の中で小さく震えた。

壁の光が、ほんのわずかに白へ戻った。

俺は走った。

崩れた階段の縁を蹴り、水晶の梁へ飛び移る。靴底が滑り、膝が梁にぶつかる。痛みが骨まで響く。

左手で梁の縁をつかみ、右手のアストラルフレイムを突き立てた。刃が水晶を焼き、赤い火花が散る。熱で生まれた小さな溝に足をかけ、俺はミユウのいる棚へ体を押し上げた。

上から、また柱が落ちる。

「くそっ!」

俺は剣を横に払った。刃と水晶がぶつかり、腕が肩まで痺れる。柱は斜めに割れ、破片が頬を掠め、耳の横で砕けた。細かい欠片が首筋に入り、冷たく刺さる。俺は構わず前へ進んだ。

ミユウとの距離は、あと数歩。

けれど、その数歩の間に、床が割れた。

亀裂が棚の中心を走り、ミユウの膝元で止まらず、彼女の羽を挟んだ水晶へ噛みついた。

白い羽が引かれ、ミユウの体がぐらつく。彼女は柱を支える手に力を込めた。細い指の関節が白く浮き、爪の先が水晶の粉に埋まる。

「ミユウ、手を伸ばせ!」

「だめ、ここを離したら、上の梁が落ちる!」

俺は上を見た。

確かに、彼女の支えている柱は、ただの瓦礫じゃなかった。

斜めに引っかかり、上から落ちかけている巨大な水晶の板を受け止めている。あれが落ちれば、俺の後ろの道も、アインとジュリアのいる階段もまとめて潰れる。

ミユウは、自分の羽を挟まれたまま、俺たちの頭上を支えていた。

俺は奥歯を噛んだ。

「あなた、子供たちを連れて」

「言うな」

「あなた」

「言うな!」

声が喉を削った。水晶の壁に跳ね返り、自分の声だけが荒く戻ってくる。

ミユウの瞳が揺れた。霧と水晶の光の中で、彼女の顔はいつもより白く見えた。

額に汗が滲み、こめかみを伝って顎へ落ちる。白い羽の付け根に、砕けた水晶が食い込んでいる。俺はそこから目を逸らさず、剣を構えた。

「支えてろ。俺が斬る」

「羽の近くよ」

「わかってる」

わかっていると言いながら、指が汗で滑った。ほんの少しでも角度を誤れば、羽を裂く。深く斬れば、ミユウの背まで届く。浅ければ水晶は割れず、次の揺れで彼女ごと落ちる。

塔の文字が、俺の横でまた明滅した。

刃を誇るな。

手を測れ。

俺は息を止めた。

アストラルフレイムの炎を強くすれば、水晶は砕ける。だが破片はミユウへ飛ぶ。力で押し切れば早い。

けれど、それはさっきまでの俺と同じだ。前へ出て、強く斬って、越えた気になる。塔はその瞬間を待っている。

俺は炎を絞った。

刃の赤が細くなる。揺らめいていた火が、一本の線に縮み、剣の縁だけを薄く染めた。

手首から余計な力を抜く。肩を下げる。ミユウの羽の動き、柱の重みで震える指、水晶の亀裂の向き、落ちてくる粉の流れ。見えるものだけを拾い、見えない勝利を捨てた。

「ミユウ、三つ数えたら、羽を引け」

「動かないわ」

「俺が緩める」

「あなたの手が」

「見るな」

ミユウの唇が閉じた。

俺は剣先を水晶と羽の隙間へ滑り込ませた。刃が触れる寸前、羽の細い毛が熱で揺れた。ミユウの肩がわずかに跳ねる。俺は顎を引き、息を吐いた。

「一」

塔が揺れる。

「二」

上の板が軋む。

「三」

俺は斬らず、剣を捻った。

刃で割るのではなく、亀裂を開く。水晶の噛み合わせをずらし、羽を挟んでいた透明な牙を、ほんの指一本ぶんだけ浮かせる。

ミユウが羽を引いた。白い羽が水晶の粉を撒き、俺の頬を撫でる。次の瞬間、支えを失った欠片が弾け、俺の左手の甲を裂いた。

血が飛ぶ。

痛みで視界が滲む。

それでも羽は抜けた。

「走れ!」

俺はミユウの腕をつかんだ。彼女の体が俺の胸にぶつかる。細い息が肩にかかり、羽が俺の腕を打つ。だが上の板はもう落ち始めていた。俺はミユウを抱え込むように引き、後ろへ跳んだ。

足場がない。

さっきまで梁があった場所が、霧の中へ消えていた。俺の足は空を踏み、体が下へ引かれる。

ミユウの手が俺の服をつかむ。俺は剣を伸ばし、崩れ残った階段の縁へ突き立てた。刃が水晶に食い込み、腕が引きちぎられるほど伸びる。

衝撃で肩が外れそうになった。

「ぐっ……!」

ミユウを片腕で抱え、剣一本でぶら下がる。下から冷たい霧が吹き上がり、靴の先を飲む。

水晶の粉が降り、髪や睫毛に積もる。上ではアインとジュリアが、壁に手をつけたままこちらを見ていた。

「パパ!」

「ママ!」

二人の声が重なる。

俺は歯を食いしばり、剣をさらに深く押し込んだ。

アストラルフレイムの刃が水晶の中で赤く光り、ひびが縁へ伸びる。まずい。力を入れすぎれば、支えている場所ごと割れる。

ミユウが俺の腕の中で身を捩った。

「あなた、私を」

「離すな」

「でも」

「離すな!」

指が滑る。血で柄が濡れている。右肩から背中へ熱い筋が走り、肘のあたりで感覚が薄くなる。

ミユウの羽が風を受け、俺たちの体を少しだけ持ち上げようとした。だが傷ついた羽は大きく開ききらず、羽ばたくたびに白い羽根が抜け、霧の底へ落ちていく。

俺は上を見た。

アインが壁に押し当てた手を離し、こちらへ駆け出そうとしていた。

ジュリアがその服をつかんで止める。小さな二人の後ろで、水晶の壁の光が、細く白い線を描いた。さっき二人が触れていた場所から、階段の縁へ向かって、光が道のように伸びている。

「アイン!」

俺は叫んだ。

アインの足が止まる。

「壁に手を戻せ! ジュリアと一緒に!」

アインは唇を震わせたまま、壁へ手を叩きつけるように戻した。ジュリアも隣に並び、両手を押し当てる。

二人の小さな掌の下で、白い光が強くなった。水晶の壁が内側から鳴り、俺の剣が刺さっている縁の周囲だけ、黒紫の濁りが薄くなる。

塔が二人を見ている。

いや、二人の手の温度を拒めずにいる。

俺は膝を曲げ、壁を蹴った。ぶら下がった体を振り、ミユウを先に階段の縁へ押し上げる。彼女の指が縁にかかる。

だが傷ついた羽が引っかかり、体が戻りかけた。

俺は左手でミユウの腰を押した。

「上がれ!」

ミユウが息を呑み、縁へ体を乗せる。アインが這うように近づき、ミユウの袖を引いた。ジュリアも両手でミユウの腕をつかむ。

小さな力が重なり、ミユウの体が階段の上へ引き上げられた。

俺の腕から、重みが消えた。

その瞬間、剣の刺さった水晶が割れた。

体が落ちる。

右手だけが、砕けた縁を探した。指先が水晶の角を掴む。皮膚が裂け、爪の奥に冷たさが刺さる。アストラルフレイムは俺の手から離れ、少し下の梁に突き刺さって止まった。赤い光が霧の中で揺れている。

「パパ!」

ジュリアが叫んだ。

俺は片手で縁にぶら下がり、足を振った。

届く足場はない。下から霧が吹き上がり、体を壁から引き剥がそうとする。水晶の角は鋭く、掌の肉に食い込む。血が手首へ流れ、袖の内側へ入った。

ミユウが身を乗り出した。

「あなた、手を!」

「来るな!」

俺は反射で叫んだ。

ミユウの体が止まる。彼女の羽は傷つき、肩で荒く上下している。

アインとジュリアが泣きそうな顔でしがみついている。ここでミユウが無理に身を乗り出せば、三人とも崩れた縁へ引きずられる。

俺は自分の手を見た。

血で滑る指。割れていく水晶。下で光る剣。ここで剣を諦めれば、身軽になるかもしれない。

けれど、アストラルフレイムは俺の手から離れた場所で、まだ赤い光を返している。守るための刃を誇りに変えた俺を、置いていくのかと問いかけるように。

俺は息を吸った。

冷たい霧が肺を刺す。

「アイン、ジュリア」

二人の泣き声が止まる。

「ママを押さえてろ。絶対に離すな」

「パパは?」

アインの声が割れた。

「戻る」

その一言を、俺は水晶の角に噛ませるように吐いた。

塔がまた鳴る。上から、残っていた水晶の板がずれた。

ミユウたちの頭上ではない。俺の真上。透明な影が大きく膨らみ、霧の中で輪郭を失いながら落ちてくる。

時間が縮む。

俺は片手を離した。

体が落ちるより早く、腰をひねり、足を下の梁へ向けた。靴底が梁にかかる。

滑る。膝をぶつける。右手を伸ばし、アストラルフレイムの柄を掴んだ。熱が掌の傷に食い込み、視界の端が白く弾ける。

「おおおッ!」

俺は剣を引き抜き、落ちてくる板へ向かって振った。

斬るためではない。

軌道をずらすために、刃の腹を当てる。水晶の板が剣に触れ、凄まじい重さが腕を潰した。足場の梁が沈み、ひびが走る。

俺は体ごと横へ押した。板はわずかに傾き、俺の肩をかすめ、階段の外側へ落ちていく。空気が引き裂かれ、霧が渦を巻いた。

梁が折れた。

俺は剣を抱えたまま、残った足場へ飛び移った。

着地した瞬間、足首に鋭い痛みが走り、膝が崩れる。手をついた水晶の表面に血が広がった。喉の奥で息が跳ね、声にならない音が漏れた。

それでも、上は見えた。

ミユウがこちらへ手を伸ばしている。アインとジュリアが、その腰にしがみついている。

三人の後ろで、壁に残った白い光が、細い階段の形を作り始めていた。崩れたはずの水晶片が、ひとつ、またひとつ、空中で止まり、霧の中に仮の足場を組んでいく。

塔はまだ壊れている。

けれど、すべてを拒んではいない。

俺は剣を杖のように突き、立ち上がった。足首がきしむ。右肩が上がらない。左手は血で濡れている。息をするたび、胸の内側に水晶の粉を吸い込んだようなざらつきが残る。

「あなた!」

ミユウの声が落ちてくる。

俺は顔を上げた。

「今、行く」

一歩目で、足場が沈んだ。

二歩目で、霧が膝まで絡んだ。

三歩目で、壁の文字が俺の横に浮かび上がった。黒紫の線ではない。白い線が、割れた水晶の内側から滲むように現れていた。形は読めない。けれど、その光は俺の胸を押さえつけず、ただ足元を照らした。

俺は剣を握り直し、息を短く吐いた。

慢心は消えない。思い上がりも、剣を捨てたふりをしたところで、どこかに残る。

守りたいという願いの裏側に、守れる自分でいたいという欲が絡みつく。塔はそれを剥がし、刃の前へ置いた。

俺は、それごと持っていくしかなかった。

隠せば、また崩れる。

踏みしめて、進むしかない。

仮の足場が、俺の重さで鳴る。ミユウが身を乗り出しかけ、アインとジュリアが必死に止める。

俺は首を横に振った。あと少し。あと三歩。水晶の光が足元を繋ぎ、霧の向こうで三人の輪郭が少しずつ近づく。

最後の一歩を踏み出した瞬間、背後で塔の芯が折れる音がした。

空気が抜けた。

足場が全部、同時に沈む。

俺は剣を階段の縁へ投げるように突き刺し、柄を握ったまま体を前へ投げた。ミユウの手が俺の手首を掴む。

アインが俺の袖にしがみつく。ジュリアの小さな手が、血で濡れた俺の指に触れる。

「パパ、て、いたい」

ジュリアの声が、すぐ近くでほどけた。

俺は返事をしようとした。

その前に、足元の水晶が砕け、俺たちの下から白い光が噴き上がった。

ミユウの羽が俺の顔を覆う。

アインの指が服に食い込む。

ジュリアの掌が、俺の血でぬれた