軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第150話 俺の影を超えて

俺と同じ足音が、崖の縁で止まった。

潮を含んだ風が白い外套の裾を打ち、剣の柄に置いた俺の指先から汗を奪っていく。

黒い岩肌の裂け目には青い光が細く走り、アルカヌム島の夜を切り刻むように古い紋様がまたたいていた。

その向こうで、俺と同じ黒髪、同じ肩幅、同じ白と金の衣装をまとった男が、わずかに首を傾けた。

俺の顔で、俺の声で、そいつは笑った。

「遅かったな、瀬野龍夜」

胸の奥を、冷たい刃先で撫でられたような感触が走った。

アストラルフレイムの鞘が腰で鳴る。俺が右足を半歩引くと、向こうも同じだけ岩を擦り、同じ角度で肩を沈めた。呼吸の間合いまで、鏡に映したみたいに重なる。

「お前は、いつも遅い」

そいつの唇が、俺より先に動いた。

「ミユウの前で剣を取った時も。アインが小さな手を伸ばした時も。ジュリアが声を飲み込んだ時も。お前は、必ず一瞬遅れる」

崖下で波が砕け、白い飛沫が闇の中に散った。

耳の奥に残ったのは、波音じゃない。五歳の小さな足が石床を駆ける音。寝起きの髪を跳ねさせたアインが、胸にぶつかってくる感触。ジュリアの指が、俺の袖をつまんだまま離れなくなる重さ。

そいつは剣を抜かなかった。

抜かないまま、俺の手首を見ていた。

「守ると言ったな」

俺の指が、柄に食い込む。

「何度言った。何度、その言葉で自分をごまかした。守る芯の強い父親。勇者。夫。そんな呼び名を重ねれば、空っぽの手が何か掴んだ気になれるのか?」

「黙れ」

声が喉に引っかかり、風に削られた。向こうの俺は目を細める。笑い方まで俺に似ていて、歯の奥がきしんだ。

「黙らせたいなら斬れよ。お前の剣で。お前が信じたアストラルフレイムで」

そいつの右手が、腰の剣に触れた。

俺より滑らかに、俺より迷いなく、銀の軌跡が夜を裂いた。

抜刀の音が遅れて耳に刺さる。俺も鞘を蹴るように剣を抜き、青白い火をまとった刃で斜め下から受けた。

金属が噛み合った瞬間、火花が頬を打ち、腕の骨に衝撃が沈む。相手の踏み込みは俺の癖そのものだった。左足で岩を噛み、右肩を低く沈め、力じゃなく体重ごと斬撃を押し込む。

俺がよく使う一手。

だから、次もわかる。

押し合った刃を外すふりをして、膝を狙う低い蹴り。俺は太腿を引き、岩を削りながら半身をずらした。

蹴りが外套をかすめ、布が裂ける。返す刃を横に振ると、そいつは俺と同じ手首の返しで受け、火花を散らして距離を詰めてきた。

近い。

呼気が顔にかかる距離で、同じ瞳が俺を覗いた。

「避け方まで、情けないほど同じだ」

刃の圧が増した。

「だからわかる。お前がどこで迷うかも、どこで足が止まるかも」

鍔迫り合いの中、そいつの膝が俺の腹に入った。

息が潰れ、足裏が浮く。背中から岩に叩きつけられ、肩甲骨に痛みが爆ぜた。剣だけは手放さない。転がる勢いを殺しきれないまま片膝をつき、顔を上げると、同じ白い外套が夜風にあおられていた。

「パパ!」

小さな声が、背後から飛んだ。

振り返りかけた首を、俺は歯で止めた。見れば足が止まる。足が止まれば、刃が来る。

それでも視界の端に、白い羽の小さな揺れが映った。

アインが岩陰から身を乗り出し、ジュリアがその袖を両手で掴んでいる。ミユウの白い羽が二人を包むように広がり、彼女の腕が子供たちの前に差し出されていた。

「あなた」

ミユウの声が、風の隙間から届いた。

「その声を、あなたのものにしないで」

陰の俺が、ゆっくりとミユウへ顔を向けた。

「ミユウ」

俺と同じ声が、その名を呼んだ。

背筋に、冷たいものが走った。

「お前も、まだ信じているのか。この男を。自分の剣で自分すら斬れない男を。子供たちの前で膝をつく男を」

ミユウは答えなかった。白い羽の先が震え、月光を受けて薄く光る。アインの小さな靴が岩を踏み、ジュリアの指がミユウの衣にしがみつく。

「ママ……」

ジュリアの声が、かすかに揺れた。

陰の俺は、その声に口角を上げた。

「見ろ、龍夜。あの子は知っている。お前が倒れれば、自分たちの空が折れると」

俺は剣を杖のように岩へ立て、立ち上がった。膝が笑い、腹の奥で痛みが波打つ。向こうの俺は待っていた。俺が立つ角度も、剣を握り直す癖も、全部見透かすみたいに。

「お前は父親じゃない」

そいつが剣先を下げた。

「父親の形をした、恐れだ。ミユウを失うことを恐れ、アインの前で弱い背中を見せることを恐れ、ジュリアの目に映る自分が崩れることを恐れている。守りたいんじゃない。失った時に、自分が壊れるのが怖いだけだ」

言葉が、皮膚の下に入ってくる。

反射で否定しようとした唇が動かない。汗が顎を伝い、喉のあたりで冷える。

そいつの言葉は、刃より深く入り込む場所を知っていた。

俺が夜中に目を覚まし、隣の寝息を確かめたこと。小さな手が熱を持っていた日に、何度も額へ触れたこと。勇者服を脱いだ後も、剣を壁に掛けられずにいたこと。

全部、俺の中にある。

そいつは俺だから、知っている。

「どうした。斬れないか」

陰の俺が、剣を肩に担いだ。

「当然だ。お前が斬ろうとしているのは敵じゃない。お前自身だ。薄汚く、臆病で、何度も膝をついた本物のお前だ」

アストラルフレイムの炎が、刃の上で細く揺れた。青白い火が、風に押されてかすかに傾く。

俺は息を吸った。

潮の匂い。焼けた金属の匂い。血の味。

「パパ、まけないで!」

アインの声が、岩にぶつかって跳ね返った。

陰の俺が笑った。

「聞いたか。五歳の子供に背中を押されないと立てない勇者だ」

俺は顔を上げた。

「そうだな」

そいつの笑みが、ほんの少し止まった。

俺は剣先を下げたまま、一歩前へ出た。岩の欠片が足裏で砕ける。腹の痛みが遅れて広がり、握った柄が汗で滑りそうになる。

「俺は、何度も遅れた」

ミユウの羽が、風に揺れた。

「何度も迷った。何度も怖くなった。守るって言葉の重さで、膝が折れそうになった」

陰の俺の瞳が細くなる。

「今さら正直者の顔か」

「違う」

俺は刃を持ち上げた。

「それでも、俺は逃げなかった」

アストラルフレイムの炎が、柄から刃先へ走る。青白い光が岩肌の紋様を照らし、足元の影を短く切った。

「怖いまま、剣を取った。遅れた分だけ走った。膝をついた分だけ、立ち方を覚えた。ミユウがいた。アインがいた。ジュリアがいた。俺は空っぽの手で何か掴んだんじゃない」

俺は左手を胸元へ押し当てた。

鼓動が、手のひらを叩いていた。

「この手に触れてくれた人たちが、俺をここまで連れてきたんだ」

「きれいな言葉だな」

陰の俺が剣を構えた。俺と同じ、右肩を低く沈める構え。

「だが、剣筋は変わらない。お前の迷いも、癖も、折れる場所も、全部俺の中にある」

「なら、見てろ」

俺は剣を正眼に戻さなかった。

柄を少し下げ、左足を前に置く。いつもの半身じゃない。肩を逃がさず、踏み込みの幅も変える。胸の前をさらす構えに、陰の俺の眉がかすかに動いた。

そいつは俺の癖を知っている。

なら、癖の外へ出るしかない。

陰の俺が地面を蹴った。

速い。

白い外套が闇を裂き、剣が首筋へ伸びる。

俺は受けなかった。刃を下から合わせる代わりに、肩から体を入れ、相手の腕の内側へ潜った。金属が耳元をかすめ、髪が数本飛ぶ。相手の肘が胸に当たり、息が詰まる。それでも、左足を岩に食い込ませた。

陰の俺の腹へ、柄頭を叩き込む。

鈍い手応え。

そいつの体がわずかに折れた。俺はその隙に肘で押し返し、距離を作らず、さらに踏み込む。相手は俺なら外へ逃げると読んでいた。だから内側の圧に一瞬、刃が泳いだ。

アストラルフレイムを横に払う。

青白い火が、相手の胸の前を裂いた。

黒い影が散り、同じ衣装の布が焼ける。だが浅い。陰の俺は歯を見せて笑い、膝で俺の脇腹を突き上げた。

視界が白く跳ねる。崖際へ足が滑り、かかとが空を踏みかけた。下から波の冷気が上がってくる。

「ほらな」

陰の俺が、同じ声で囁いた。

「変えたつもりで、最後は同じ場所へ追い込まれる」

剣が振り下ろされる。

俺は崖の縁に左手をつき、体を低く落とした。刃が頭上を裂き、石が砕けて頬に当たる。肘を軸に体を回し、足払いを放つ。陰の俺は読んでいたように跳んだ。

その一拍。

俺は跳ね上がらず、岩肌へ掌を滑らせた。

古い紋様の溝に、指先が触れる。青い光が爪の間に入り込む。崖の石は潮で濡れ、冷たく、ざらついていた。

俺はそのまま、低い姿勢から剣を逆袈裟に振り抜いた。

陰の俺の着地より、ほんの少し早い。

刃が足首を狙う。そいつは舌打ちし、空中で体をひねった。避けきれず、白い靴の側面が裂け、黒い影が煙のように流れた。

「小細工を覚えたか」

「父親になってからな」

俺は息を吐き、立ち上がる。

「子供は真正面から来てくれない。寝ている腹に飛び乗るし、袖を引っ張るし、飯の皿をひっくり返すし、泣く時は理由を置いてくる」

アインが岩陰で息を詰めた気配がした。ジュリアの小さな声が、風に混じる。

「パパ……」

俺は振り返らない。

今は、背中で聞く。

「だから、俺も変わった」

陰の俺が低く笑った。

「変わった? お前が? 弱さに名前をつけただけだろう」

そいつが剣を両手で握る。俺と同じ構えから、わずかに刃を寝かせた。肩から胸へ斬り込む連撃。俺が剣術の稽古で何度も振った型。最初の一撃を受ければ、二撃目が手首を狙い、三撃目が足を止める。

知っている。

だから、俺は最初の一撃を受けない。

相手が踏み込んだ瞬間、俺は足元の砕けた石を蹴った。小さな破片が相手の目元へ飛ぶ。陰の俺が瞬きを殺した、その一瞬に横へ抜ける。剣が空を斬り、風圧が耳を叩く。

二撃目が来る前に、俺は相手の手首を狙った。

金属がぶつかる。火花が散る。手首の角度も力の逃がし方も、相手は俺と同じ。なら、力で押せば同じ場所に戻る。

俺は押さない。

刃を滑らせた。

アストラルフレイムの炎が、相手の剣身を舐めるように走り、鍔の近くへ絡みつく。陰の俺が腕を引く。

俺は引かせた。引く力に乗り、半歩前へ出て肩をぶつける。胸と胸がぶつかり、同じ鼓動の幻みたいな音が耳の奥で鳴った。

「お前は俺じゃない」

俺は低く言った。

陰の俺の瞳が、間近で揺れた。

「俺の声で、俺の傷をなぞっているだけだ」

「傷を隠すな」

そいつの額が俺の額へぶつかる。骨が鳴り、視界に火花が散った。

「俺はお前の底だ。お前が誰にも見せなかった顔だ。ミユウにも、アインにも、ジュリアにも見せられない、情けない本音だ」

「本音なら」

俺は歯を食いしばり、額を押し返した。

「俺の名前を借りずに言え」

刃を引いた。

陰の俺がすぐに追う。わかっていた。距離を取れば追う。俺ならそうする。だから、俺は後ろへ逃げるふりをして、右膝を落とした。相手の剣が肩を狙って伸びる。その軌道の下へ潜り、腰をひねる。

アストラルフレイムを、下から突き上げた。

青白い炎が相手の脇をえぐる。黒い霧が裂け、夜風に散った。

陰の俺が初めて、俺と違う声を漏らした。低く、ひび割れた音。人の喉から出たというより、岩の隙間を風が抜けたみたいな音だった。

その音に、背後の子供たちが息をのむ。

俺は踏みとどまる。ここで追いすぎれば、返しを食らう。そいつは俺の形をした罠だ。勝ちを急げば、俺の癖が刃になる。

「あなた!」

ミユウの声が飛んだ。

俺の左側。

見なくてもわかった。陰の俺の影が、裂けた脇から地面へ落ち、細い蛇みたいに岩の上を走っていた。

俺の足首に絡みつく直前、ミユウの白い羽が風を切る音がした。銀白の光が足元を払う。影が焼け、黒い煙が弾けた。

「前を見て」

ミユウの声は、短かった。

俺はうなずきもしなかった。

ただ、剣を握り直す。

陰の俺は脇を押さえ、口元を歪めていた。布の裂け目の奥には肉も血もない。黒い空洞の中で、青い光の粒がゆっくり渦巻いている。

「 最高天使(イリゼ) に助けられて、父親の顔か」

そいつが唾を吐くように言った。

「妻の羽の影に隠れ、子供の声を盾にして、それでも自分で立っているつもりか」

俺は答えず、間合いを詰めた。

そいつが剣を振る。右からの袈裟。俺は刃を受け、火花の中で半歩前に出る。左からの返し。肩で風を受け、柄で受け流す。突き。剣身を滑らせ、胸の前を通す。皮膚の上に熱い線が走り、白い衣装が裂ける。

浅い。

痛みはある。

進める。

俺は一撃ごとに、足を前へ出した。受けるたびに下がる俺を、そいつは知っている。だから、下がらない。火花が頬を焼き、袖が裂け、肘に衝撃がたまっていく。息が荒くなる。喉の奥に血の味が広がる。

それでも前へ。

陰の俺の足が、初めて後ろへ滑った。

その瞬間、目が変わった。

俺の目じゃない。

深い井戸の底から覗くような、濁った黒。

「来るな」

そいつが低く言った。

俺は止まらない。

「お前が近づけば、全部壊れる」

そいつの剣が乱れた。俺の型から外れた。荒い。重い。だが、速い。刃が肩をかすめ、血が服の内側へ流れ込む。もう一撃が脇腹を狙う。俺は剣で受けきれず、肘で押し込んだ。骨に響く痛みが走る。

「お前が守ろうとするほど、ミユウは傷つく。お前が父親の顔をするほど、アインは無理に笑う。ジュリアはお前の背中ばかり見て、手を伸ばすことを覚えてしまう」

俺の足が、ほんの少し止まりかけた。

その隙に、陰の俺の刃が胸元へ伸びる。

「パパ!」

アインとジュリアの声が重なった。

俺は左手で刃を掴んだ。

掌に焼ける痛みが走る。血が鉄に乗り、指の間を伝う。刃は止まった。陰の俺の目が見開かれる。俺はその剣を握り込んだまま、一歩前へ出た。

「アインは、笑う」

血が手首へ落ちる。

「無理にじゃない。転んでも、土を払ってまた走る。俺より先に前を見る」

陰の俺が剣を引こうとする。俺は離さない。

「ジュリアは、手を伸ばす。怖いからじゃない。ちゃんと届くって、知っているからだ」

ミユウの息が、背後で揺れた。

「ミユウは、傷つくだけの人じゃない。俺が折れそうな時、何度も立たせてくれた。俺を陰に隠す羽じゃない。俺の隣で風を受ける羽だ」

俺は血のついた手で、相手の剣を横へ押しのけた。

「勝手に、俺の家族を弱くするな」

陰の俺の顔が歪んだ。

俺の声で、俺じゃない叫びが夜に裂ける。

そいつは剣を手放し、拳を振ってきた。頬に入る。歯が鳴り、視界が横に飛ぶ。俺も拳を返した。顎に当たる。黒い霧が散る。相手の膝が腹へ入る。俺の肘が肩へ落ちる。剣術でも型でもない。息を奪い合う距離で、同じ顔が崩れていく。

俺はアストラルフレイムを握り直した。

血で柄が滑る。布を巻き込むように指を締める。

陰の俺は、手放した剣を拾う代わりに、俺と同じアストラルフレイムを黒い霧から作り出した。刃の形は同じ。けれど炎は青白くない。煤けた黒の縁だけが熱を持ち、空気を歪めている。

「なら、証明しろ」

そいつがかすれた声で言った。

「その手で俺を斬って、お前は違うと言ってみろ」

俺は息を整えた。

崖の上の風が、裂けた服の内側へ入ってくる。掌の傷が脈を打つ。肩は重い。腹の痛みは消えない。足元の岩は血と潮で滑る。

背中には、ミユウと子供たちの気配がある。

俺は一人で立っている。

一人だけで立っているわけじゃない。

「行くぞ」

俺が言うと、陰の俺も同時に踏み込んだ。

刃と刃がぶつかる。

一撃目、真正面。

衝撃が腕を駆け上がり、肩の奥で弾ける。俺は押されず、右足を岩にねじ込む。

二撃目、相手が下から切り上げる。俺は半身をずらし、刃の腹で受け流す。三撃目、首を狙う横薙ぎ。俺はしゃがまず、剣を立てて受け、火花の中へ体を入れた。

近い。

相手の息が荒い。

俺の息も荒い。

陰の俺が笑う。

「同じだ」

「違う」

俺は左手を柄に添えた。

アストラルフレイムの炎が強くなる。青白い光が、掌の血を照らし、刃の上で脈を打った。

俺の中にある恐れが消えたわけじゃない。手の震えも止まらない。ミユウを失いたくない。アインとジュリアの前で倒れたくない。何度だって遅れたくない。

それでも、刃は前を向く。

恐れがあるから、手を伸ばす。

失いたくないから、踏み込む。

俺は相手の剣を弾き上げた。黒い刃が夜へ跳ねる。陰の俺の胸が空く。その瞬間、そいつの顔が俺の顔に戻った。挑発の笑みも、黒い濁りも薄れ、ただ疲れたような俺がそこにいた。

「斬れば、消えると思うのか」

そいつが囁いた。

「俺はまた出てくる。夜に。迷いに。大事なものが増えるたびに」

「出てこい」

俺は剣を振りかぶる。

「そのたびに、俺が前に出る」

陰の俺の唇が動いた。

音は、波に消えた。

アストラルフレイムを振り下ろした。

刃が胸を裂いた瞬間、青白い炎が黒い霧の奥へ走った。夜が一度、息を止めたみたいに暗くなる。

次の瞬間、黒い影が内側から砕けた。俺の顔をした輪郭が崩れ、肩がほどけ、白い外套が灰のように散る。そいつは消えながら、俺の胸元を見ていた。

「守れよ」

俺と同じ声が、ひび割れて落ちた。

俺は剣を下ろさなかった。

「守る」

霧が俺の頬をかすめる。冷たく、細い指みたいだった。

「でも、俺だけで抱え込まない」

最後の影が、風にほどけた。

崖の上に、波音が戻ってくる。青い紋様の光が弱まり、砕けた岩の隙間でかすかにまたたく。俺の肩から力が抜け、膝が沈みかけた。剣を地面に突き、どうにか踏みとどまる。

「あなた!」

ミユウが駆けてくる足音がした。白い羽が視界の端に広がり、次の瞬間、彼女の手が俺の腕を支えた。細い指なのに、逃げ道を塞ぐみたいに強い。俺は息を吐き、剣から手を離さないまま彼女の顔を見た。

月光を受けた銀の髪が、頬に貼りついている。

俺の血を見て、ミユウの唇がわずかに開いた。

「あなた、手が」

「動く」

そう言った瞬間、掌の痛みが遅れて跳ねた。情けない声が出そうになり、歯で噛み殺す。ミユウは眉を寄せ、俺の手をそっと包んだ。温かい光が傷口へにじむ。痛みの角が、少しだけ丸くなる。

「無理をしないで」

「無理はした」

ミユウが目を上げる。

俺は苦く息を漏らした。

「でも、戻ってきた」

小さな足音が二つ、岩を叩いた。

「パパ!」

アインが俺の腰に飛びついた。衝撃で腹の痛みが跳ね、思わず息が詰まる。ジュリアは少し遅れて走ってきて、俺の反対側の袖を両手で掴んだ。小さな指が、血のついていない場所を選ぶみたいに布を握る。

「パパ、いたい?」

ジュリアが俺を見上げる。目元に月光がにじんでいた。

俺は膝をつき、二人と高さを合わせた。岩が膝に食い込み、体のあちこちが文句を言う。それでも、アインの頭に手を置き、ジュリアの指に触れた。

「少しな」

「すこしじゃない!」

アインが唇を尖らせる。

「パパ、すごくいたそう!」

「じゃあ、かなり」

「パパ!」

アインの声が跳ね、ジュリアが袖をさらに強く握った。ミユウが横で息を漏らす。笑ったのか、呆れたのか、声にはしなかった。ただ、俺の肩に触れた手の力が少しだけ抜けた。

俺は二人を抱き寄せた。

アインの髪に潮の匂いがついている。ジュリアの小さな羽が俺の腕に当たり、柔らかい羽先が傷のない場所をくすぐった。抱きしめる力を強めすぎないようにしても、二人は自分から胸に寄ってくる。

「パパ、かった?」

アインが胸元から顔を上げる。

俺は少し考えてから、首を横に振った。

「まだだ」

アインの目が丸くなる。

ジュリアの指が止まった。

「倒した。でも、終わったわけじゃない」

俺は崖の向こうを見た。黒い霧が消えた先、アルカヌム島の奥へ続く石の道が月光に浮かんでいる。古い柱が折れ、青い光が地面の裂け目から細く漏れていた。その先に、また別の試練がある。島全体が、息を潜めて俺たちを待っているみたいだった。

ミユウが俺の隣に立つ。

「あなた」

彼女の声が、近くで落ちる。

「今度は、一人で受け止めないで」

俺は血の滲む掌を見た。ミユウの光で塞がりかけている傷の上に、まだ熱が残っている。陰の俺の言葉も、完全には消えていない。胸の奥に刺さったまま、呼吸のたびに存在を知らせてくる。

俺は、その痛みを押し込めなかった。

ただ、指を開いた。

「わかった」

ミユウの瞳が、俺を見ていた。

「怖くなったら、言う」

アインが俺の服を引っ張る。

「パパ、こわかったの?」

俺はアインを見る。五歳の目はまっすぐで、ごまかす隙間がない。ジュリアも隣で俺を見上げている。大人しくて、小さな声を胸にしまいがちな子が、今日は逃げずに待っている。

俺は短く息を吸った。

「怖かった」

アインが口を結ぶ。

ジュリアの指が、俺の袖を撫でた。

「でも、パパ、きた」

ジュリアが小さく言った。

その一言が、胸の奥の硬い場所に触れた。俺は剣を握っていない方の手で、ジュリアの髪を撫でた。乱れた髪が指に絡み、すぐにほどける。

「ああ」

喉の奥が熱い。

「戻ってきた」

アインが勢いよくうなずき、俺の胸に額を押しつけた。

ジュリアも、少し遅れて同じように寄りかかる。ミユウの羽が、俺たちの背中側で風を受ける。覆い隠すためじゃない。次の風を、一緒に受けるために。

俺は立ち上がった。

膝が重い。掌は熱い。肩の傷が服に張りつき、動くたびに皮膚を引く。アストラルフレイムを鞘へ戻すと、青白い光が一度だけ脈打ち、静かに収まった。

崖の先で、古い石門がゆっくりと口を開けていた。

門の内側から、さっき消えたはずの黒い霧が一筋だけ流れ出す。風に散らず、地面の上を這うように、俺の足元へ近づいてくる。ミユウが子供たちを後ろへ下げ、俺は半歩前へ出た。

霧の中で、俺の声ではない声が笑った。

アストラルフレイムの柄に、血の乾ききらない指をかける。

冷たい石の床から、足裏へ震えが上がってきた。