軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第102話 嵐の剣に、娘の名を刻め

夜の海は、俺の心そのものだった。

激しい波が船の 甲板(かんぱん) を 容赦(ようしゃ) なく叩きつけ、木の板は雨と海水に塗れて真っ黒に染まり、時折、 稲妻(いなづま) の光を鈍く反射して不気味に輝いていた。

帆は半ば引き裂かれ、風に引き裂かれるような 悲鳴(ひめい) を上げながらも、必死に船を前へ押し進めようと暴れ続けている。

水平線はどこにも見えない。ただ、墨を流したような暗黒が空と海を溶け合わせ、すべてを飲み込もうとしていた。

稲妻(いなずま) が白く裂けるように閃くたび、世界が一瞬だけ灼き尽くされ、闇がより深く牙を剥く。

雨は斜めに叩きつけ、冷たい塩の粒が肌を刺し、血の鉄臭さと混じり合って鼻腔を焼くように侵入してきた。

船体が軋む音は、まるで巨人の骨が折れるような重く湿った響きを立て続け、足の裏から全身に震えを伝えてくる。

風の 咆哮(ほうこう) 、波の怒号、木の 悲鳴(ひめい) ——五感すべてが嵐に支配され、俺の 鼓動(こどう) さえもその一部のように感じられた。

俺は船首近くの 甲板(かんぱん) に立ち尽くしていた。全身を濡らす雨が、頰を伝い、唇を冷たく濡らす。

今、俺の胸を支配しているのは、ただ一つの炎だった。娘を取り戻すという、燃え盛る 決意(けつい) 。

世界などどうでもいい。英雄になるつもりなど、最初からなかった。ただ、彼女だけは——ジュリアだけは、守りたかった。

右手をゆっくりと掲げる。掌に集中する魔力を感じながら、深く息を吸い込んだ。塩辛い空気が肺を満たす。

(十年振りだ……この剣の重さ)

アストラルフレイムが、俺の想いに呼応するように 召喚(しょうかん) された。

青白い炎が刃を包み、雨粒を蒸発させながら淡く輝く。柄を握る感触は、懐かしくも重く、指先に染み込む冷たい金属の感触が、十年前の記憶を呼び覚ます。

心の奥底で、ジュリアの笑顔が鮮やかに蘇った。

「パパ! 大好き!」

あの無邪気な声。あの小さな手が俺の指を握りしめた 温(ぬくも) り。あの一言が、俺の心に灯を灯し、一生守りたいと誓わせた。だが今、彼女はカイデンの手中にある。 海賊王(かいぞくおう) と恐れられる男の船に、囚われている。

対峙するカイデンは、船尾寄りの舵輪の傍らに 悠然(ゆうぜん) と構えていた。

長身で筋肉質の 体躯(たいく) は、雨に打たれても微動だにせず、西方の重厚な長剣を片手で軽々と構えている。

金色の髪が雨に濡れて額に張り付き、青い瞳は獣のような鋭い光を放っていた。三十五歳。海の男として生き、嵐の中でさえ笑みを浮かべる余裕を持つ、 海賊王(かいぞくおう) 。口元に浮かぶ 嘲(あざけ) るような笑みが、俺の怒りをさらに煽り立てる。

「ほう? やる気はあるようだな。だが、その程度で娘を取り戻すことは出来るかな?」

声は風にかき消されそうだったが、俺の耳にははっきりと届いた。嘲りと、どこか俺を試すような響きが混じっている。

俺はゆっくりとアストラルフレイムを構えた。刃が 稲妻(いなずま) に照らされ、青白い光を放つ。雨が 刀身(とうしん) を伝い落ち、滴る音さえも聞こえる気がした。

「黙れ。言葉は剣で語る。ジュリアを返せ」

距離は十間ほど。 甲板(かんぱん) は激しく傾き、波が舷側を越えて白い飛沫を上げ、足元を滑らせる。帆桁が軋み、緩んだロープが鞭のように空を切り、鋭い音を立てていた。

最初に動いたのは俺だった。

船が大きく左に傾いた瞬間、その揺れを加速力に変えた。足裏が濡れた 甲板(かんぱん) を強く蹴り、雨を裂いて突進する。

冷たい水しぶきが顔を叩き、視界を一瞬ぼやけさせる。剣を水平に 薙(な) ぎ 払(はら) う。

ジュリアの笑顔が脳裏に浮かび、剣に力がこもる。空気が裂ける感触、雨粒が蒸発する微かな熱。

カイデンは笑いながら後ろに跳んだ。長剣を片手で軽く受け流す。金属の 衝突(しょうとつ) 音が、嵐のすべてを一瞬だけ塗り替えた。火花が散り、雨粒が瞬時に蒸発して白い湯気を上げる。

(速い……だがまだ、遊びだ。ジュリアのためなら、どんな嵐も越える)

高く跳躍し、叫ぶ。

「 星天剣(せいてんけん) !」

青白い炎が星の渦となって、カイデンの肩めがけて一直線に奔る。炎の熱が雨を焼き払い、周囲の空気を震わせる。

着地と同時に船が風に煽られ、足元がふらつく。俺は船の縁に手をかけ、冷たい木の感触を頼りに体制を整えた。指先が滑りそうになる。

だがカイデンは海で生きてきた男だ。船の揺れを読み、波の周期を味方にする術を身につけている。船が今度は右に大きく傾く。俺の体勢が一瞬崩れたその隙を、彼は見逃さなかった。

長剣を上段に構え、力任せに振り下ろす。刃が空気を裂く低く重い音が、雷鳴に重なる。

俺は咄嗟にアストラルフレイムを頭上に掲げて受け止めた。衝撃が両腕を痺れさせ、骨まで響く。膝がわずかに沈み、 甲板(かんぱん) の水溜まりが波紋を広げる。

(重い……この男の力は、ただの 蛮力(ばんりょく) ではない。海の怒りをそのまま剣に宿している。だが、ジュリアを思う気持ちが、俺を支える)

心に恐怖の影がよぎる。冷たい汗が背中を伝う。だがすぐにそれを振り払った。

(ジュリア……待っていろ。パパが必ず取り戻す。お前がいない世界など、俺には耐えられない)

心の中で何度も呟き、 反撃(はんげき) に転じる。アストラルフレイムを滑らせ、カイデンの剣を押し返すと同時に、身を低くして胴を狙う。雨が目に入り、視界が滲む。塩が唇を灼き、息が荒くなる。

カイデンは後ろに飛び、 帆柱(ほばしら) の陰に回り込む。膨らんだ帆布が一瞬、二人の間に壁を作る。

俺はそれを 斬(き) り 裂(さ) いた。布が二つに裂け、風が 咆哮(ほうこう) を上げて吹き荒れる。裂けた布の端が、雨に濡れて重く揺れる感触が、剣先から伝わってきた。

俺たちは再び正面から 激突(げきとつ) した。

剣と剣が絡み合い、押し合い、離れる。 甲板(かんぱん) の水溜まりを蹴り上げ、冷たい飛沫が二人の顔を濡らす。息が荒く、互いの吐息が混じり合う。雨が目に入り、塩が唇を刺す。汗と血の匂いが、鼻を突く。

俺の 心情(しんじょう) は、嵐そのものだった。

怒り。悲しみ。後悔。すべてが渦を巻き、刀先に集中する。

(ジュリアの小さな手、笑い声、寝顔……お前がすべてを奪った。あの 絶望(ぜつぼう) が、まだ胸に焼きついて離れない。必ず、取り戻す)

カイデンの心など、どうでもいい。だが奴の青い瞳を見るたび、胸の奥に棘が刺さるような痛みが走る。

ジュリアの 命運(めいうん) が、奴の手中にあるという事実が、耐え難い。

「なぜだ、お前は強い。娘のためなら、俺と組む道も——」

カイデンが叫びながら、 横薙(よこな) ぎに剣を振るう。風を切り裂く音が耳を劈く。

俺は跳んで避け、着地と同時に反転して斬り込む。

「ふざけるな! 必ずジュリアを取り戻す!」

剣がカイデンの左肩をかすめる。熱い血が噴き出し、雨に混じって赤い線を引く。血の匂いが一層強くなる。

カイデンは歯を食いしばり、痛みを無視して踏み込む。

長剣の切っ先が俺の 脇腹(わきばら) を浅く裂く。熱い痛みが走り、肉が裂ける感触が鮮明に伝わる。血が熱く流れ、柄を伝って指を滑らせる。

俺は呻きを飲み込み、刀を握り直した。ジュリアの顔が浮かび、痛みを忘れる。指先が震えるが、握力は増す。

船はますます荒れていた。波が十メートルを超える 高波(たかなみ) となり、船首を叩きつける。 甲板(かんぱん) が垂直に近い角度まで傾き、二人は滑り落ちそうになる。俺はロープを掴み、ざらざらした縄の感触を頼りに体勢を保った。カイデンは舵輪に背を預け、耐える。

稲妻(いなずま) が連続して落ち、 甲板(かんぱん) を真っ白に染める。光が網膜に焼きつき、残像が残る。

「ぐ……っ!」

瞬間、心臓が何者かに握りつぶされるような激痛が走った。

胸の奥が締め付けられ、息が詰まる。その場に膝をつく。冷たい 甲板(かんぱん) が膝を打つ感触。雨が背中を叩く。

「パパ?! 」

ジュリアの叫び声が、船室の方から聞こえた。小さく、震えた声。

(しまった! こんな時に!)

十年前、魔王が残していった 心臓病(しんぞうびょう) 。この十年、子供たちには見せないようにしてきたのに……今になって 発作(ほっさ) が。

「あなた!」

ミユウの叫びが響き、薬瓶が俺に向かって放り投げられる。ガラスが雨に濡れて光る。

カイデンは剣を回転させながら、力の渦を作り出し、面白そうに俺を見下ろしていた。

俺は必死で薬を飲み込んだ。苦い液体が喉を滑り落ち、胸の痛みが少しずつ和らぐ。息を整え、立ち上がる。

二つの刃が、船の中央で再び 激突(げきとつ) した。

衝撃波(しょうげきは) が雨を弾き飛ばし、 甲板(かんぱん) の板が一枚、跳ね上がる。木の破片が飛び、雨音に混じる。

刀身(とうしん) が互いに食い込み、火花が連続して散る。熱い火花が頰を掠める。

二人の顔が、 至近距離(しきんきょり) で向き合う。息が混じり合い、汗と雨と血が滴り落ちる。互いの瞳に、相手の 決意(けつい) が映る。

俺は胸を押さえながら、震える声で呟いた。

「…………お前を、倒す。ジュリアを返せ」

声は風にかき消されそうだったが、確かに届いた。

カイデンは笑った。だがその笑みは、どこか苦いものだった。

「来い。俺の命で、お前の 恨(うら) みを晴らせ」

船が最大の波に襲われた。船体がほぼ横倒しになり、二人の足が一瞬浮く。重力と波の力が体を引っ張る。

それでも剣は離れない。

俺は空中で体を捻り、アストラルフレイムを振り抜いた。炎が 軌跡(きせき) を描く。

カイデンの長剣が、それを受け止める。金属の 悲鳴(ひめい) 。

着地と同時に、二人は再び斬り結ぶ。 甲板(かんぱん) の端まで追い詰められ、カイデンの背が舷側にぶつかる。すぐ下で海が 咆哮(ほうこう) し、白い泡が飛び散る。塩の飛沫が顔にかかる。

俺は最後の力を振り絞った。

「これで……終わりだ!」

星天剣(せいてんけん) が、カイデンめがけて突っ込む。青白い炎が嵐の中で輝く。

カイデンは目を細め、長剣を全力で振り上げる。

二つの刃が、再び交差する。金属の 悲鳴(ひめい) が高く響き——

俺の刀が、カイデンの剣を弾き飛ばした。

長剣が弧を描いて海に落ちる音が、波音に溶けた。遠くで水しぶきが上がる。

カイデンは無防備に立ち尽くした。雨が金色の髪を洗い流す。

俺の刀先が、その 喉元(のどもと) に突きつけられる。雨が、二人の間に幕を引くように降り注ぐ。

俺の腕が、激しく震えていた。

(……殺せ。殺せばジュリアを取り戻せる)

だが、心の奥底が強く否定する。

純粋な娘に、人を殺す父親の姿を見せたくない。あの笑顔を、汚したくない。

カイデンはゆっくりと目を閉じた。雨粒が瞼を叩く。

「やれ。俺は海の男だ。海に還るのも悪くない。だが娘の 運命(うんめい) は、お前の手次第だ」

俺の指が、柄を強く握りしめる。血が滴り、柄をさらに滑らせる。心臓の痛みがまだ残る。

船はまだ揺れていた。嵐は収まる気配がない。波の音、風の叫び、雨の叩きつける音がすべてを包む。

俺は、ゆっくりと剣を下ろした。刃が雨に洗われ、青白い炎が弱まる。

「……お前を殺しはしない。まずはジュリアを返せ。それから、 決着(けっちゃく) をつける」

カイデンが目を開けた。 驚愕(きょうがく) の色が、青い瞳に浮かぶ。

俺は背を向け、よろよろと 甲板(かんぱん) を歩き始めた。足元が滑り、雨が視界を遮る。体中の傷が疼くが、歩みを止めない。

船室の扉を開ける。湿った木の匂いと、室内のわずかな 温(ぬくも) りが迎える。

「ジュリア……、大丈夫か?」

小さな体を、固く固く抱きしめる。彼女の髪から雨の匂い、わずかな甘い香りがする。震える肩、温かい体温。もう二度と、この手を離さないように。

「パパァ……。」

「怖かったな」

ジュリアの小さな声が、胸に染み入る。俺の目から、雨とは違うものが溢れそうになる。

カイデンは呆然と立ち尽くしたままだった。雨が彼の金色の髪を洗い流し、肩の傷から血が薄く流れ落ちる。

俺は船室の扉を閉め、姿を消した。

船は、嵐のただ中で、ただ一艘、波に揉まれ続けていた。

俺の剣は、奴の心に深い傷を刻み、しかし命までは奪わなかった。

世界を救うつもりなど、なかった。

でも、彼女だけは——この小さな命だけは、守り抜く。