軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

88.義母の杖

ソフィアがヨランダに連れられ、別室で泥汚れを落として着替えている間のこと。

静まり返った壮麗な応接室で、ギルバートは上座で優雅に紅茶を傾ける母、エスメラルダをきつく睨みつけていた。

「母上。俺が誰と結婚しても良いと、そう言ったではないですか。なぜ大事なフィーを試すような、悪意ある真似をしたのですか」

「なんですか。わたくしに逆らうのですか」

ギルバートの怒りが滲む問いかけに対し、エスメラルダはカップをソーサーに置き、冷ややかに扇子を開いた。

その一言で、応接室の空気が凍りつく。

歴戦の猛者たちを震え上がらせてきた女傑の威圧感が、物理的な重さを持って部屋中を満たしていった。

「この家の女主人はわたくしですわ。子供ごときが、口を挟まないでくださいまし」

「うっ」

帝国軍で破壊神と恐れられるギルバートでさえ、絶対的な母のオーラの前には逆らうことができない。

彼が悔しそうに顔を歪めたその時、応接室の扉が静かに開いた。

「お待たせいたしました」

ヨランダの用意した楚々とした白いワンピースに着替えたソフィアが、ふんわりと微笑みながら入ってくる。

ギルバートは慌てて立ち上がり、彼女を隣の席へとエスコートした。

「さて、ソフィアさん」

エスメラルダが、扇子でソフィアを指し示した。

女傑からの、新たな課題の提示である。

「貴女が優秀なのは分かりましたわ。では、わたくしに一つ、杖を売ってみなさい」

「杖を、ですか」

「ええ。費用はすべてヴォルグ家が持ちます。わたくしが満足するまで、何度でも作り直しなさい」

普通の職人であれば、歓喜して飛びつくような申し出だ。

高価な素材をふんだんに使い、何度も作り直して売りつけることで、莫大な利益を得ることができるのだから。

エスメラルダは、ソフィアの職人としての根気と、金銭に対する欲を試そうとしていた。

「承知いたしました」

ソフィアは迷うことなく頷いた。

そして、ふんわりと微笑んで提案する。

「杖を作るために、エスメラルダ様の手を拝見してもよろしいでしょうか。それから、普段お使いになられている私室も見せていただきたく存じます」

エスメラルダは一瞬だけ怪訝な顔をしたが、すぐに鷹揚に頷いて案内を命じた。

エスメラルダの私室へ向かうため、ソフィアはギルバートと共に長い廊下を歩いていた。

二人の間に、少しだけ重い沈黙が流れる。

「エスメラルダ様って、どのようなおかたなんですか?」

「……母上は、昔から恐ろしく厳しい人だった。俺が子供の頃、母上の誕生日に不格好な木彫りのプレゼントを作って渡した時もそうだ」

「プレゼント、ですか」

「そんな暇があるなら魔力制御の勉強をしろと、冷たく突き返された。俺は、ずっと母上が苦手なんだ」

ギルバートの横顔には、長年の悲哀が張り付いていた。

ソフィアは彼の言葉を静かに受け止め、こくりと頷く。

「ここが、母上の部屋だ」

案内された私室は、女傑の部屋らしく無駄なものがなく、美しく整頓されていた。

ソフィアは部屋に足を踏み入れるなり、職人としての鋭い感覚を働かせる。

そして、部屋の片隅にある、厳重に鍵のかけられた引き出しの奥へと視線を向けた。

微かに、しかし確かに、魔力の残滓が感じられる。

荒々しく不器用な魔力と、それを優しく包み込むような温かな魔力。

ソフィアはすべてを理解し、ふわりと微笑んだ。

「わかりました。ギルさんはもう、応接室でお待ちいただいて大丈夫です」

「えっ。手伝わなくていいのか」

「はいっ。あとは私ひとりでやりますから、お任せくださいね」

ソフィアに背中を押され、ギルバートは不思議そうな顔をしながら部屋を出ていった。

ひとり残されたソフィアは、その引き出しの前にしゃがみ込み、静かに作業を始める。

一時間後。

応接室に戻ってきたソフィアの手には、古びた木箱が握られていた。

「お待たせいたしました」

ソフィアは木箱をテーブルの上に置き、静かに蓋を開ける。

中に入っていたものを見て、ギルバートは絶句した。

「なっ」

そこに入っていたのは、どう見ても失敗作のボロボロの杖だった。

子供が小刀で適当に削ったような歪な形で、あちこちに継ぎ接ぎの跡がある。

いくらなんでも、あのような酷いガラクタを大貴族の女主人の前に出すなど、正気の沙汰ではない。

ギルバートが慌てて止めに入ろうとしたが、エスメラルダの様子がおかしいことに気がついた。

「これ、は」

エスメラルダは扇子を取り落とし、目を見開いてワナワナと震えている。

その瞳から、女傑の威厳が完全に消え去っていた。

ギルバートは、その歪な木彫りの杖をまじまじと見つめる。

「俺が、あげたプレゼント」

そして、雷に打たれたように思い出した。

それは間違いなく、幼い頃のギルバートが母のために懸命に削った木彫りの杖だった。

強大すぎる魔力が無意識に流れ込んでしまい、渡した瞬間にひび割れてバラバラに砕け散ってしまった失敗作である。

あの時、母は厳しい言葉を投げかけ、破片をすべて取り上げてしまった。

ずっと、ただ捨てられたのだとばかり思っていた。

「おかしいと思っていたのです」

ソフィアが、澄んだ声で静かに語り始めた。

「これほどの魔力を持つ大貴族の女主人様が、ご自身の杖を持っていないはずがないと。持っているのに、使えない事情があるのだと思いました」

ソフィアは先ほどエスメラルダの私室に案内された際、厳重に鍵のかけられた引き出しの奥に、粉々になった木片が入った箱を見つけていたのだ。

それが大切なものであると、彼女の目には一瞬で分かった。

「だから、拾い集めて直したのです」

ソフィアは、バラバラになっていた木片を、自身の神域の技術で寸分の狂いもなく接合した。

ギルバートの荒々しい魔力の残滓と、それを何年も優しく包み込んでいたエスメラルダの魔力。

二つの魔力が反発しないよう、特殊な樹液を用いて完璧な魔力回路を構築し直したのである。

「なぜ」

エスメラルダが、震える声で尋ねた。

「なぜ、綺麗な杖を新しく用意しなかったのです。費用はいくらでも請求できたはず。普通はそうするでしょう」

やろうと思えば、適当な理由をつけて無駄な杖を何本も売りつけ、大金を得ることができたはずだ。

だが、ソフィアは真っ直ぐにエスメラルダを見つめ返した。

「意味がないからです。杖職人は、使い手にぴったりな一本を用意するのが仕事です」

ソフィアの瞳に、職人としての確かな矜持が光る。

「ただ杖を作って売りつけるのは商人です。私は職人であって、商人ではございません」

エスメラルダにとっての最高の一本は、高価な宝石で飾られた新しい杖ではない。

不器用な息子が自分のために作ってくれた、この愛情の詰まった杖ただ一つなのだ。

だからこそソフィアは、これ以外の選択肢を持たなかったのである。

「一つ、聞かせてちょうだい」

エスメラルダは両手で顔を覆い、声を震わせた。

「どうして、そこまで真剣に取り組んだのですか」

権力に媚びへつらうわけでもなく、金儲けのためでもない。

ただ相手に喜んでもらいたいという、純粋すぎる献身。

ソフィアは花が咲くように柔らかく微笑み、何のてらいもなく答えた。

「未来のお義母様に、よろこんでもらいたかったので」

ぽろりと、エスメラルダの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。

女傑の仮面が完全に崩れ去り、彼女は子供のようにボロボロと泣き崩れる。

「ええっ。は、母上、どうしたんですかっ」

ギルバートが慌てて立ち上がり、オロオロと手を彷徨わせた。

彼の記憶にある限り、母が他人の前で涙を見せたことなど一度もない。

「ううっ、だって」

エスメラルダはハンカチで目元を強く押さえながら、しゃくりあげた。

「かわいいかわいいギルぼうに、やっと、こんなに素敵なお嫁さんができたから、うれしくてっ」

威厳も何もない、ただの母親としての純粋な喜び。

ギルバートは目を見開き、そして深く、安堵の息を吐き出した。

帝国の女傑が、一人の杖職人の前で完全に陥落した瞬間だった。