軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

87.女主人エスメラルダ

車窓からの景色が、帝都の喧騒から静寂へと変わっていく。

やがて魔導車は、天を突くような黒鉄の門の前で静かに停止した。

門扉には黄金で縁取られた双頭の鷲の紋章が輝いており、それが開かれる重厚な音が腹の底にまで響く。

門を抜けた先に広がっていたのは、絵画から抜け出してきたような広大な庭園だった。

色とりどりの薔薇が咲き誇り、中央には白亜の噴水が涼やかな水音を立てている。

馬車道は真っ白な砂利が敷き詰められており、車輪が転がるたびに心地よい音を響かせていた。

やがて、まるでお城のような巨大な屋敷が姿を現す。

玄関前には、黒と白の完璧な制服に身を包んだ使用人たちが、ずらりと二列に並んで待機していた。

ソフィアたちが車から降りるのと同時に、彼らは一糸乱れぬ動きで深く頭を下げる。

「すごいっ」

ソフィアは思わず感嘆の声を漏らした。

田舎の村で育ち、帝都の路地裏で小さな店を営む彼女にとって、まるで別世界のおとぎ話に迷い込んだような光景である。

隣を歩くギルバートが、緊張で固まるソフィアの背中をそっと支えた。

「よく来てくれたな。さあ、中へ入ろう」

ギルバートの言葉に頷き、ソフィアは泥だらけになってしまった若草色のドレスの裾をきゅっと握りしめた。

せっかくヨランダにおめかししてもらったのに、油と泥でひどく汚れてしまっている。

このような姿で屋敷に入るのは、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「お待ちくださいませ」

不意に、後ろから静かな声がかけられた。

振り返ると、ヨランダが両手を前で上品に組み、深々と頭を下げていた。

いつもの毒舌でからかってくるメイドの姿はどこにもなく、完璧に猫をかぶった従順な使用人の顔をしている。

「ソフィア様は先ほどの魔導車の修理で、お召し物がひどく汚れてしまっております。このままではお風邪を召してしまうかもしれませんわ」

ヨランダは丸眼鏡の奥の目を伏せ、しずしずと言葉を紡ぐ。

「まずは、ソフィア様の泥汚れを落とすため、湯浴みをなさった方がよろしいかと存じます。お着替えの手配も私がいたしますので」

それは、泥だらけのソフィアを気遣うと同時に、この屋敷の女主人であるエスメラルダに対する最低限の礼儀を守るための提案だった。

このような泥だらけの姿で挨拶をするのは失礼にあたる。

ソフィアはヨランダの気配りに感謝し、こくりと頷いた。

エスメラルダは、扇子の奥で静かに目を細めた。

彼女の視線の先には、泥だらけのドレスを着た緋色の髪の少女と、それを心配そうに見守る愛する息子の姿がある。

ギルバートは、フォン・ヴォルグ家の末っ子だ。

幼い頃から強大すぎる魔力を持て余し、周囲から破壊神と恐れられてきた。

だが、母親であるエスメラルダにとっては、どれほど不器用で恐ろしげな顔をしていても、目に入れても痛くないほどに可愛い息子である。

そんな愛息子が、どこの馬の骨とも知れない平民の娘に夢中になっているという。

母親として、その相手がただの金目当ての輩ではないか、息子の地位や名誉を利用しようとする悪女ではないか、徹底的に見極めねばならなかった。

わざと魔導車を細工して立ち往生させ、彼女の素性を探るための芝居を打った。

結果として、少女は自分のドレスが汚れることも厭わず、見ず知らずの他人のために泥まみれになって魔導車を直してしまった。

そのお人好しすぎるほどの善良さには、エスメラルダも内心で舌を巻いた。

だが、善良なだけでは貴族の妻は務まらない。

裏の思惑が渦巻く社交界を生き抜くための、確かな知性と判断力が必要なのだ。

エスメラルダは、恭しく頭を下げるヨランダを冷ややかな目で観察した。

湯浴みを提案したのは、泥を落とすためだけではないだろう。

おそらく、風呂場で少女と二人きりになり、自分の正体を明かして対策を練るつもりなのだ。

あの方はエスメラルダ様です、こう振る舞うのですと、入れ知恵をする気に違いない。

そのような小細工を許すエスメラルダではない。

彼女はゆっくりと扇子を閉じ、優雅な笑みを浮かべた。

「良い提案ですわね。わたくしも道中の土埃で、少し汗をかいてしまいましたの」

エスメラルダの言葉に、ヨランダの肩がびくりと跳ねる。

「では、わたくしも一緒に湯浴みへ向かいましょう。可愛らしいお嬢さん、背中を流してさしあげますわ」

「えっ。よろしいのですか」

「ええ、もちろん。さあ、参りましょう」

エスメラルダは少女の手を引き、使用人たちに湯の準備を命じた。

後ろを振り返ると、ヨランダが絶望に満ちた顔で天を仰いでいる。

作戦会議の時間を完全に潰されたメイドの悲鳴が聞こえるようで、エスメラルダは内心で愉悦の笑みを深めた。

大理石の床が続く長い廊下を、案内されるままに歩いていく。

壁には歴史を感じさせる絵画が飾られ、天井には豪奢なシャンデリアが輝いていた。

隣を歩く貴婦人は、相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。

ソフィアは彼女に引かれるまま数歩歩いたところで、すっと立ち止まった。

繋がれていた手をそっと離し、その場に深く頭を下げる。

「どうしましたの。お風呂はあちらですわよ」

不思議そうに振り返る貴婦人に対し、ソフィアは姿勢を正してはっきりと告げた。

「申し訳ありません。できませんわ」

「できません、とは」

貴婦人の声の温度が、わずかに下がった。

それでもソフィアは怯むことなく、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。

「このお屋敷の女主人たるあなた様と同じお風呂に、ましてや先に入るなど、平民の私には到底できません」

「女主人」

貴婦人は扇子で口元を隠し、目を丸くした。

「わたくしが、この屋敷の女主人だと。なぜそのように思うのかしら。わたくしはただ、道端で車が壊れて困っていた通りすがりの者ですのに」

彼女はとぼけるように首を傾げる。

ソフィアはゆっくりと息を吸い込み、先ほどから感じていた違和感を口にした。

「第一に、魔導車の中での会話ですわ。あなた様は私に対して、とてもたくさんの質問をなさいました」

車に同乗させてもらっている間、彼女はソフィアに様々なことを尋ねてきた。

魔法杖工房の経営状況、貴族という身分に対する考え方、そして帝国軍人であるギルバートとの関係について。

それは単なる世間話の域を超えており、ソフィアの価値観や考え方を深く探り、試すようなものばかりだった。

「第二に、状況の不自然さです。帝都の広大な街の中で、都合よく同じヴォルグ邸へと向かう魔導車が、私たちの馬車の通り道でエンストして待っている。そんな偶然は、滅多にあるものではありませんわ」

そもそも、あの魔導車の魔力回路の詰まり方は、自然に発生したものではなかった。

まるで誰かが意図的に魔力の流れを堰き止めたような、人為的な不具合の痕跡があったのだ。

「そして最後に、魔力です」

ソフィアは彼女の全身を包み込む、強大で洗練された魔力の流れを見つめた。

ギルバートのように荒々しい炎の魔力ではないが、静かで深く、底知れない圧力を持っている。

これほどまでの魔力を持つ人物が、ただの通りすがりの貴族であるはずがない。

「これらを総合して考えれば、あなた様がこの家を治めるエスメラルダ様であると考えるのが自然ですわ。違いますか」

ソフィアが推論を終えると、廊下に静寂が落ちた。

後ろで控えていたヨランダとギルバートが、息を呑む気配が伝わってくる。

貴婦人はしばらくの間、扇子で顔を隠したままピクリとも動かなかった。

「ふふっ。あははははっ」

やがて、彼女の口から堪えきれないような笑い声が漏れた。

扇子を下ろし、隠されていた素顔が露わになる。

そこにあったのは、先ほどまでの困り果てた貴婦人の顔ではない。

帝国社交界の女傑と呼ばれた、気高く恐ろしい捕食者の笑みだった。

「その通りですわ。わたくしは貴方を試しました。悪いとは思っていませんわ」

エスメラルダは、一切の悪びれる様子もなく堂々と言い放つ。

普通であれば、騙されていたことに怒るか、あるいは怯えて縮み上がってしまう場面だろう。

だが、ソフィアは怒りも恐怖も感じなかった。

むしろ、彼女の行動の裏にある深い愛情に触れ、心が温かくなるのを感じていた。

「無論でございます」

ソフィアは静かに微笑み、心からの理解を示す。

「どこの馬の骨とも知れぬ平民の女が、大切な末息子様に近づいてくれば、悪意を持っていると警戒されるのは必定かと存じます。母親として、彼を守るために私を試すのは、当然の権利であり愛情の証ですわ」

ギルバートは不器用で、言葉足らずなところがある。

だからこそ、母親であるエスメラルダが、彼に代わって相手の素性を見極めようとするのは、親としてとても自然で立派な行動だと思ったのだ。

ソフィアの言葉を聞き、エスメラルダはほんのわずかに目を見開いた。

驚きと、そして微かな戸惑いが入り交じったような表情。

しかし、それはすぐに隠され、彼女は再び気高い女傑の顔に戻る。

「ふん。その通りよ。わたくしはエスメラルダ・フォン・ヴォルグ。ギルバートの母ですわ」

エスメラルダが正式に名乗ったのを受け、ソフィアは一歩後ろに下がり、ドレスの裾を両手で軽く持ち上げた。

泥と油で汚れた若草色のドレス。

それでもソフィアは、背筋を伸ばし、右足を引いて静かに膝を折る。

「お初にお目にかかります、エスメラルダ様。魔法杖職人をしております、ソフィア・クラフトと申します」

ヨランダに教わったばかりの、貴族に対する完璧で美しいカーテシー。

どんなに服が汚れていようとも、心からの敬意と誠実さを込めて、ソフィアは深々と頭を下げた。

顔を上げると、エスメラルダがじっと見下ろしているのだった。