軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

37.朝飯前の神業

翌朝。

DBホテルのスイートルームに、小鳥のさえずりよりも元気な声が響いた。

キングサイズのベッドから起き上がったソフィアは、伸びを一つ。

最高級の羽毛布団とマットレスのおかげで、昨日の疲れは嘘のように消え去り、肌もツヤツヤと輝いている。

「おはようございます、ギルバートさん! とっても良い天気ですね」

大きすぎる窓からは、冬の晴天が広がっている。

それと同じくらい、澄んだ笑顔を、ソフィアはギルバートに向けた。

「……ああ。おはよう、ソフィ」

対照的に、ソファから身を起こしたギルバートの顔色は、土気色だった。

目の下にはくっきりと濃い隈ができている。

「ギルバートさん? なんだかお疲れのようですが……よく眠れましたか?」

「……ああ。ぐっすりとな。心配には及ばん」

愛しい女性の無防備な寝顔と、襲い来る欲望の怪物たちと一晩中戦い続けたとは、口が裂けても言えない。

だが、ソフィアのこの満開の笑顔を見られただけで、彼の疲労はあらかた浄化されていた。

「さあ、着替えて朝食に行こう。今日は後夜祭だ。腹ごしらえをしないとな」

「はいっ! 楽しみです!」

案内されたのは、ホテル最上階にあるレストラン『天空の庭』だった。

四方を、そして天井を特大特殊魔法窓ガラスで囲まれた、景観のいいレストランである。

朝日が差し込む広大なフロアには、目移りするほどの料理が並んでいる。

ソフィアは瞳を輝かせた。

目の前でシェフが切り分けるローストビーフ、焼きたてのパンの香り、宝石のようにカットされたフルーツ。

庶民のソフィアにとって、これは「食事」というより「イベント」だった。

「ん~っ。おいしいですっ」

山盛りにしたプレートを前に、ソフィアが至福の声を上げる。

そのリスのように頬張る姿を見ているだけで、ギルバートは胸がいっぱいだった。

「……あ」

二回目のおかわりを取りに行った時のことだ。

サラダバーの前で、一組の老夫婦が困った様子で立ち尽くしていた。

「お爺様、ドレッシングはどこかしら?」

「……わからん。種類の字が小さくて読めない」

とても上品な雰囲気の二人だが、周囲の客や店員は、なぜか彼らを気に留める様子がない。

まるで、そこには誰もいないかのように振る舞っている。

それは、彼らが纏っている高位の『認識阻害魔法』の効果だった。

周囲の認識を滑らせ、「ただの背景」として処理させる高度な隠密魔法。

ギルバートほどの使い手であっても、意識しなければ視界の端に追いやられてしまうレベルのものだ。

――だが、魔力ゼロにして、魔力絶縁体質のソフィアには、認識阻害の魔法が効かない。

「あの、ドレッシングならあちらですよ。お取りしましょうか?」

ソフィアは迷わず声をかけた。

老婦人が、驚いたように目を見開く。

「……! (あら? この子、術式が効いてない?)」

「え? あ、はい。和風とシーザー、どちらが良いですか?」

「あ、あらあら、ご親切に。ありがとうねぇ。じゃあ、シーザーをいただけるかしら」

ソフィアはにこやかにドレッシングをかけ、老夫婦に手渡した。

「ありがとうございます。貴方、良いお嬢さんねぇ」

「いえいえ! 困った時はお互い様ですから!」

ソフィアは笑顔で会釈し、席に戻ろうとした。

その時だ。

カチッ。カチッ。

老婦人が杖をついて歩くたびに、微かな異音が聞こえた。

普通の人間なら聞き逃すレベルの音。だが、職人の耳は誤魔化せない。

ソフィアは足を止めた。

(……今の音。杖の長さは合ってるけど、重心がズレてる)

ソフィアの目は、杖の本質を見抜いていた。

見た目はただの木製の杖に見えるが、その内部には極めて精巧な魔導回路が組み込まれている。おそらくは、歩行を補助するための重力制御機能だ。

だが、その心臓部である魔石が、長年の衝撃で正規の 窪み(ソケット) から数ミリずれている。

人間で言うなら、「肩の関節が外れかかっている」状態だ。

動くたびに回路が軋み、歩行を助けるどころか、逆に手首や肩に不快な振動を与えている。

「あの、失礼ですが……最近、その杖使いにくくありませんか?」

ソフィアは呼び止めた。

老婦人が足を止める。

「ええ、そうなのよ。最近なんだか使いづらくてねぇ。歳かしら」

「いえ、杖の『魔石』が外れているだけです。……良ければ、少しお借りしても?」

「ええ、構わないけれど……」

老婦人から杖を受け取ると、ソフィアはテーブルにあった『銀のスプーン』を手に取った。

杖のシャフトを指でなぞり、魔力の結節点――ずれた魔石の真横を見定める。

狙いを定め、ソフィアは銀のスプーンを振り下ろした。

カォンッ。

澄んだ金属音が響いた。

叩いたのは、ただの一撃。

だが、それは計算され尽くした一撃だった。

外部からの衝撃波を内部に浸透させ、引っかかっていた魔石を一瞬だけ浮かせ、重力に従って「あるべき正しい窪み」にストンと落とし込む。

完全に内部構造を把握し、ミクロン単位の力加減でなければ、逆に杖を破壊してしまう荒療治。

それはまさに、熟練の医師が、外れた関節を本人に痛みを感じさせる暇もなく一瞬で戻すような神業だった。

「はい。これで『ハマり』ました」

ソフィアはにっこりと笑って杖を返した。

老婦人は半信半疑で杖を受け取り、床についた。

瞬間、目を見張る。

「……あら!」

スッ、と杖が吸い付くように安定したのだ。

先ほどまでの不快な振動は消え、杖が体の一部になったかのように馴染んでいる。

「まあ! 嘘のように軽い! 足が勝手に前へ出るようだわ!」

「……見事」

今まで無言だった隣の老紳士が、低く、重厚な声を漏らした。

彼は気づいたのだ。

分解もせず、外部からの衝撃だけで、内部の複雑な機構を完璧に修復したという事実に。

その一言には、王者の威厳と、職人への最大限の敬意が込められているようだった。

「すごいわねぇ。貴方、魔法使い?」

「いえ、ただの職人です。……良い杖ですね。持ち主様のことを一番に考えて作られています」

「ふふ、ありがとう。……貴方、お名前は?」

「ソフィアです。ソフィア・クラフトと言います」

老婦人は、その名前を聞いて、悪戯っぽく微笑んだ。

「ソフィアさんね。覚えたわ。……いつも、ありがとうね」

「はい?」

老婦人はソフィアに近づき、そっと耳打ちをした。

「メルティの言っていた通りね。……あの子と仲良くしてくれて、ありがとう」

「えっ?」

ソフィアが呆気にとられている間に、老夫婦はふわりと微笑み、人混みの中へと消えていった。

「ソフィ、知り合いだったのか?」

席に戻ったソフィアに、ギルバートが尋ねた。

彼は首を傾げている。

なぜだろう。あんなに目立つ老夫婦だったのに、顔を思い出せない。それどころか、ソフィアが話していなければ、そこに人がいたことすら認識できていなかった気がする。

「いえ、初めてお会いする方でした。でも……」

ソフィアはクロワッサンを齧りながら、不思議そうに首を傾げた。

「とっても優しそうなご婦人でしたよ。メルティ殿下のお知り合いみたいでした」

「メルティア殿下の……?」

その言葉を聞いた瞬間、ギルバートの脳内でバラバラだったピースが繋がった。

メルティア殿下を「メルティ」と呼ぶ人物。

高貴な立ち振る舞い。

帝国最強の魔導師である自分すら欺くほどの、高位の『認識阻害魔法』。

そして何より、あの杖から微かに感じ取れた、圧倒的な魔力と皇室の気配。

(……まさか)

ギルバートは息を呑んだ。

あれは、先代の皇帝陛下と、皇妃陛下だ。

お忍びで、この後夜祭を見に来られていたのだ。

(それを彼女は……ただの『お年寄り』として接し、あろうことか銀のスプーンで国宝級の杖を叩いて直したというのか……?)

相手が誰であろうと関係ない。

困っている人がいれば助け、壊れているものがあれば直す。

それが、ソフィア・クラフトという職人なのだ。

「……はは」

ギルバートの口から、乾いた笑いが漏れた。

敵わない。

この裏表のない純粋さと、圧倒的な技術の前では、権威や地位など何の意味も持たないのかもしれない。

「ギルバートさん? どうしたんですか?」

「いや……」

ギルバートは、コーヒーカップを置き、愛しい女性に穏やかな視線を向けた。

「君は、相変わらずだなと思って」

「はい?」

ソフィアはきょとんとして首を傾げた。

その瞳には、一点の曇りもない。

「なんでもない。さあ、食べよう。今日は長い一日になりそうだ」

「はいっ!」

窓の外には、突き抜けるような青空が広がっている。

二人の休日は、まだ始まったばかりだった。