軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

36.計算外の宿泊

無事にクレープを食べ終えた二人だったが、そこには一つ、大きな問題が残されていた。

「うぅ……やっぱり、汚れてますね」

ソフィアが自分のドレスを見下ろして、悲しげに眉を寄せた。

先ほどの修復作業で、淡い水色のドレスは煤と油でドロドロだ。顔や腕についた汚れはハンカチで拭ったものの、この格好で帝都の大通りを歩くのは、さすがに憚られる。

「一度、お店に戻って着替えましょうか……」

「いや。それには及ばん」

ギルバートが、少し強張った表情で口を開いた。

「この近くに『DBホテル』がある。そこに部屋を取ってあるんだ」

「えっ?」

帝都に引っ越して日が浅いソフィアは、その『DBホテル』が、帝都で最も格式高く、宿泊費も破格の最高級ホテルだとは理解していなかった。

単に、ギルバートが休憩用のホテルを予約してくれていた、という程度の認識だ。

「着替えも、クリーニングも、ルームサービスですぐに手配できる。シャワーも浴びられるぞ」

「へ……部屋を、取ってあるんですか?」

ソフィアは目を丸くした。

「あ、誤解しないでくれ! やましい気持ちはない! ただ、祭りでの人混みに疲れた時の休憩場所として、念のために確保していただけで……!」

ギルバートが慌てて両手を振って弁明する。

その必死な様子に、ソフィアはぽんと手を打った。

「なるほど! こういうトラブルまで想定して、避難場所を確保していたんですね。すごいですギルバートさん! さすがは帝国軍の大佐、危機管理能力が違います!」

ソフィアは尊敬の眼差しで彼を見上げた。

「……あ、ああ。そうだ。備えあれば憂いなし、だ」

ギルバートは視線を逸らし、冷や汗を拭った。

本当は部下のクラウスに「いいですか、何が起きるか分かりませんからね?」と強引に予約させられただけなのだが。

結果として、その「 下心(クラウスの) 」が功を奏することになった。

DBホテルのスイートルーム。

その豪華さは、庶民であるソフィアの想像を絶していた。

ふかふかの絨毯、煌びやかなシャンデリア、そして窓の外に広がる帝都の夜景。

「す、すごいです……お城みたいです」

さすがのソフィアも、このホテルがとてつもなく高い(値段的にも、敷居的にも)場所だと気づいた。

だが、もうチェックインしてしまった後だ。今更「出て行く」とも言えなかった。

「くつろいでくれ。服はルームサービスに出しておいた。すぐに綺麗になって戻ってくるはずだ」

ソフィアは現在、ホテルが用意したフリーサイズの部屋着に袖を通している。これも驚くほど滑らかな生地だった。

「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて……シャワーをお借りしますね」

ソフィアは備え付けのバスローブを手に取り、バスルームへと消えていった。

やがて、シャーッという水音が聞こえてくる。

「…………」

リビングに残されたギルバートは、ソファの上で石像のように固まっていた。

(落ち着け。俺は軍人だ。数多の死線を潜り抜けてきた男だ。シャワーの音くらいで動揺してどうする)

必死に己を律するが、想像力という名の敵が容赦なく襲いかかってくる。

数十分後。

カチャリ、とドアが開き、湯気を纏ったソフィアが出てきた。

「ふぅ、さっぱりしましたっ」

濡れた緋色の髪をタオルで拭きながら、彼女が無邪気に笑う。

サイズが少し大きいバスローブ姿は、どこかあどけなく、それでいて強烈な色気を放っていた。

上気した頬。無防備な鎖骨。

「っ……!」

ギルバートは反射的に顔を背けた。

直視できない。刺激が強すぎる。

普段、職人として凛としている姿も、ドレスアップした姿も見てきた。どちらも美しかった。

だが、今の彼女は別格だ。

湯上がり特有の艶めかしさと、ふわりと漂う甘い石鹸の香り。濡れた髪から滴る水滴が、白磁の肌を伝って胸元へと消えていく様は、男の理性を根こそぎ奪い去るような破壊力を持っていた。

「あ、ベッドふかふかです!」

ソフィアは嬉しそうに、キングサイズのベッドに腰を下ろした。

ぽふん、と体が沈み込む。

「すごい弾力……これなら、すぐに眠れちゃいそう……」

そう呟いた直後、ソフィアの瞼がとろんと落ちてきた。

急激な睡魔が襲ってきたのだ。

無理もない。先ほどのキッチンカーでのコンロ修理で、彼女はかなりの気力と神経を消耗していたのだから。

「ふあ……なんだか、急に……」

「ソフィ?」

「すみません、ちょっとだけ……横に……」

コテッ。

ソフィアは糸が切れたように倒れ込み、そのまま寝息を立て始めた。

「……無防備すぎるだろう」

ギルバートは苦笑し、彼女に掛け布団をそっと掛けた。

その寝顔は、安心して遊び疲れた子供のようだった。

ドォォォォン……!

腹に響くような重低音で、ソフィアは目を覚ました。

「ん……?」

体を起こすと、部屋の中が七色に照らし出されていた。

窓の外。夜空いっぱいに、巨大な光の花が咲き乱れている。

「わぁ……!」

「起きたか」

窓辺に立っていたギルバートが振り返る。

「綺麗……花火ですか?」

「ああ。あれはラインハルト殿下が、神杖『リスタルテ』を使って打ち上げている魔法花火だ。……これを見せたかったんだ」

ソフィアはベッドから降り、窓に駆け寄った。

視界を埋め尽くす光の粒。

それは今まで見たどの花火よりも美しく、幻想的だった。

自分がメンテナンスした杖が、こうして多くの人々を笑顔にしている。その事実に、胸が熱くなる。

「すごい……本当に、綺麗です」

「ああ。……綺麗だ」

ギルバートは花火ではなく、横顔を照らされるソフィアを見て呟いた。

しばらくして、最後の特大花火が消え、静寂が戻る。

「……あ」

ソフィアは壁掛け時計を見て、青ざめた。

時刻はすでに深夜を回っている。

「ど、どうしよう……こんな時間!」

「そうだな。祭りの帰りで、どの辻馬車も魔導車も満員だろうな」

「どうやって帰ろう……」

途方に暮れるソフィアに、ギルバートが少し躊躇いながら声をかけた。

「……その、もしよかったらだが」

「はい?」

「泊まっていくか? 部屋は朝まで取ってある」

ソフィアは目をぱちくりとさせた。

「あ、いや、ほんとに他意はないのだ。事実として部屋を朝まで取っているというだけなのであってな……」

「えっ、いいんですか? こんな良いお部屋に?」

「あ、ああ。君さえ良ければだが」

「ありがとうございます! 助かります……って、あ」

ソフィアは部屋を見回した。

広いスイートルームだが、寝室はここ一つ。ベッドはキングサイズが一つだけ。

「……同じ、部屋……」

その事実に気づいた瞬間、二人の間に気まずい沈黙が流れた。

カアァァッ、とソフィアの顔が赤くなる。

「もちろん、俺はソファで寝る! やましい気持ちはないから! そこは安心してくれ!」

ギルバートが慌てて言い訳をする。

ソフィアは、首まで赤くしながらも、こくりと頷いた。

「は、はい。分かってます。……ギルバートさんは、紳士ですから」

「うっ……」

「私、信じてますから」

その純粋な信頼の言葉が、ギルバートの胸に鋭く突き刺さった。

(……信頼が、重い……ッ!)

ギルバートは頭を抱えた。

本来の計画では、こうではなかった。

夜景の見えるレストランで食事をし、良い雰囲気になったところで告白をする。

そして晴れて恋人同士になり、花火を見て、この部屋に誘うはずだったのだ。

だが現実はどうだ。

トラブル対応で汚れ、疲れ果てて寝落ちし、告白のタイミングを完全に逃したまま、お泊まりイベントが発生してしまった。

(順序が……! 一番大事な『告白』のターンが抜けている……)

付き合ってもいないのに、手を出すわけにはいかない。

騎士としての誇りと、男としての本能が、激しく火花を散らす。

……帝都随一の魔法の使い手、犯罪者からは『破壊神』と恐れられるギルバート・フォン・ヴォルグ。

そんな彼が……まさかここまで動揺するとは、帝都の誰も思っていないだろう。

「……じゃあ、お言葉に甘えて。おやすみなさい、ギルバートさん」

ソフィアは安心しきった様子でベッドに潜り込み、すぐにスヤスヤと寝息を立て始めた。

彼女にとってギルバートは「絶対的に信頼できるパートナー」であり、警戒心など欠片もないのだ。

「…………」

残されたギルバートは、ソファの上で天井を仰いだ。

隣のベッドからは、愛しい女性の無防備な寝息が聞こえてくる。

「……眠れるわけ、ないだろう」

英雄ギルバートにとって、過去最大級に長く、過酷な夜が始まった。