作品タイトル不明
107.母襲来
魔法学園の体育祭が盛況のうちに幕を閉じた。
茜色に染まった空の下で、ソフィアは大きく両腕を伸ばして深呼吸をした。
乾いた砂埃の匂いと、祭りの終わりの少し寂しげな空気が胸いっぱいに吸い込まれていく。
特別に設けられた救護テントで、彼女はひたすらに学生たちの壊れた杖を直し続けていた。
指先には微かに機械油の匂いが残り、額には心地よい疲労を伴う汗が浮かんでいる。
しかし、ソフィアの顔は満面の笑みで輝き、背中では幻の尻尾が嬉しそうにパタパタと揺れ動いていた。
「いい汗をかきましたー」
「それは良かったな。学生たちも、泣いて喜んでいたぞ」
隣を歩くギルバートが、愛おしそうにソフィアの緋色の髪を撫でた。
彼の温かい手のひらの感触に、ソフィアは目を細めてすり寄る。
その瞬間、彼女の頭に雷が落ちたような衝撃が走った。
杖の修理に夢中になるあまり、今日ここへ来た本来の目的を完全に忘却していたのだ。
(はっ。仲直りのデートだったのに)
ヨランダから授かった、なんやかんやして関係を修復するという重大なミッション。
一日中工具を握りしめていたせいで、甘い雰囲気など欠片も残っていない。
ソフィアは顔を青ざめさせ、慌ててギルバートの顔を見上げた。
その背後から、規則正しい滑らかな機械の足音が聞こえてくる。
美しい魔導人形であるヴィルヘルミナが、寸分の狂いもない距離を保ってピタリと追従してきているのだ。
「あの、その」
「なんでしょうか、マスター」
ソフィアが恐る恐る振り返ると、ヴィルヘルミナは翠緑の瞳を瞬かせて首を傾げた。
「少しだけ、二人きりになりたくて」
「だめです」
即座に、そして無慈悲に拒絶の言葉が返ってきた。
「な、なんでですか」
「そこの邪な男と、マスターを二人きりになどしておけません。ワタシのセンサーが、この男から危険な獣の匂いを検知しております」
「うう。ギルさんは、そんな人じゃないのに」
ソフィアが涙目で訴えるが、ヴィルヘルミナは冷たい視線でギルバートを睨みつけたまま動かない。
ギルバートは深くため息をつき、頭を掻きむしって天を仰いだ。
このままでは、ただの職人の仕事見学で休日が終わってしまう。
ソフィアは水色のワンピースの裾をきゅっと握りしめ、意を決して顔を上げた。
「あまり言いたくありませんけれど。ヴィルヘルミナ、命令です」
その言葉に、ヴィルヘルミナの肩がびくっと震えた。
ソフィアは前世の負い目から、誰かに命令を下すのが極端に苦手である。
しかし、今だけはどうしても引き下がるわけにはいかなかった。
「先に銀のフクロウ邸に戻り、ヨランダさんに、私は今日は帰らないとお伝えなさい」
「……承知いたしました。ご武運を、マスター」
ヴィルヘルミナは不満げに目を伏せたものの、絶対の主の命令には逆らえない。
優雅なカーテシーを残し、彼女は音もなく夕闇の向こうへと姿を消していった。
「帰らないって、フィー。お前」
二人きりになった静寂の中で、ギルバートが驚いたような低い声を漏らす。
その声の響きに、ソフィアは自分が口走った言葉の重大さにようやく気がついた。
(はっ)
顔から火が出るほどの熱が集まり、ソフィアは両手で顔を覆った。
今日は帰らないなどと、大人の関係を強烈に匂わせるような台詞を、真昼間の学園で堂々と宣言してしまったのだ。
(なんとはしたないことを言ってしまったのでしょうか)
ソフィアが羞恥で膝から崩れ落ちそうになっていると、ギルバートがぽんと彼女の肩に手を置いた。
「とりあえず落ち着け。まずは、その汗を流そう」
「そ、そう、ですね……」
ソフィアは真っ赤な顔のまま、コクコクと壊れた機械のように頷いた。
大人の余裕を見せるギルバートにリードされ、なんとか呼吸を整えようと試みる。
「あー、その、なんだ。実はDBホテルの宿泊券をもらっていてな。そこに泊まるのはどうだ」
ギルバートが視線を泳がせながら、少し照れくさそうに提案した。
帝都でも最高級の格式を誇り、恋人たちが甘い夜を過ごすことで有名なあのホテルである。
彼なりに、このデートの締めくくりをしっかりと考えてくれていたのだ。
(助け舟ですわっ)
「は、はいっ。もちろんですっ」
ソフィアが目を輝かせ、嬉しさのあまり幻の犬耳をピンと立てて返事をした。
その瞬間である。
どこからともなく、むせ返るような高級な薔薇の香水の匂いが漂ってきた。
「あら。こんなところで、何をやってるのです」
背後からかけられた優雅で威圧感のある声に、ギルバートの肩がビクンと大きく跳ねた。
「お、お母様っ」
ギルバートが顔を引きつらせて振り返る。
そこに立っていたのは、豪奢なドレスを纏い、扇で口元を隠したヴォルグ公爵夫人であった。
帝国の破壊神すらも恐れる、最強の女傑の登場である。
「むぎゅっ」
夫人は目にも留まらぬ速さでソフィアに歩み寄ると、その豊かな胸に彼女をきつく抱きしめた。
上質な絹の感触と、圧倒的な母の香りにソフィアは完全に身動きが取れなくなる。
「なんで偶然、こんな所にいるんだ」
「社交の帰り道に、愛らしい息子の姿が見えたものですから。それにしても、こんな夕暮れ時に二人で何をしていたのです」
夫人が扇を閉じ、鋭い眼光でギルバートを射抜く。
ギルバートは冷や汗を流しながら、しどろもどろに言い訳を並べた。
「い、いや。フィーが仕事で汗をかいたらしくてな。少し、休ませようかと」
「あら、それは大変。なら、うちのヴォルグ邸にいらっしゃいな」
夫人の目が、獲物を見つけた肉食獣のようにキラリと光った。
「そのまま、うちでお泊まりしちゃいなさいな」
「えっ。あ、あの、DBホテルに」
「さあ、行きましょうね、ソフィアさん」
ソフィアのささやかな抵抗は、圧倒的な権力と腕力の前にあっけなく握り潰された。
夫人はソフィアの腕をがっちりとホールドしたまま、公爵家の豪奢な馬車へと猛烈な勢いで歩き出す。
「あっ、ギルさぁんっ」
ソフィアが情けなく助けを求めるが、ギルバートは恐ろしい母の背中を前に、ただ項垂れて後をついていくことしかできなかった。
かくして、甘い夜を過ごすはずだった仲直りのホテル計画は白紙となり。
不器用な二人のデートは、公爵夫人による強制連行というドタバタな結末で幕を閉じるのであった。