作品タイトル不明
102.人形修理
ソフィアは、目の前に横たわる美しい魔導人形を前に、静かに深く息を吐き出した。
人工の肌の下に張り巡らされた魔力回路は、これまでに見てきたどの魔道具とも次元が違う。
人間の神経系をそのまま模写したかのような、気が遠くなるほど精緻で複雑怪奇な構造であった。
しかもこれは、世界最高の職人であった祖父、先代八宝斎ヴィルが遺した真の傑作である。
今の自分の技術で、果たしてこの奇跡のような代物を完全に直すことができるだろうか。
職人としての重圧と不安が、冷たい汗となってソフィアの背中を伝っていく。
しかし、彼女は迷うことなく水色のワンピースの袖を捲り上げた。
困っている人がいる。
魔道具を愛し、その力を信じて勝利を掴もうとしている使い手たちが、目の前で悲しんでいるのだ。
相手がどんなに高度な遺産であろうと、使い手のために全力を尽くして直すのが職人の使命である。
ソフィアは目を閉じ、自身の奥深くにある魔力に深く意識を集中させた。
見開かれた彼女の瞳に、深い深淵の闇の色が宿る。
あらゆる魔力の流れを視覚化し、真理を暴く『虚無の魔眼』が発動したのだ。
ソフィアの視界に、人形の内部構造が青白い光の線となって鮮明に浮かび上がる。
複雑に絡み合う幾万もの回路の束の中から、魔力の流れが途絶え、黒くショートしている箇所を正確に見抜いていく。
どれほど複雑であっても、基本は自身が作り続けてきた魔道具と同じである。
断線した回路を正確に繋ぎ合わせれば、必ず魔力は再び循環するはずだ。
ソフィアはデートの際にも常に持ち歩いている小さな革鞄から、愛用の精密工具のセットを取り出した。
彼女は人形の腕と胴体の関節部分に隠された、極小の留め具を見つけ出してロックを解除する。
そして、本物の人間と見紛うほどに滑らかな人工皮膚を、メスを入れるようにパカッと慎重に開いた。
人工皮膚の下からは、美しい外見からは想像もつかないほど無骨で精密な、機械と魔石の密集した内部構造が姿を現した。
歯車と細い銀の導線が幾重にも重なり合い、その中心で動力源となる魔石が鈍い光を放っている。
ソフィアはピンセットを用い、ショートして黒く焦げ付いた回路の破片を丁寧に取り除いていく。
そして、新しい魔石の粉末を導線にまぶし、細いペンのような溶接用の魔道具を押し当てた。
じゅうっ。
微かな音と白い煙と共に、特有の焦げ臭い匂いがソフィアの鼻腔をくすぐる。
彼女は自身の魔力を指先から流し込み、途切れていた魔力回路を一つ一つ、ミリ単位の精度で繋ぎ合わせていく。
視界の端で火花が散り、金属と魔石が溶け合う感覚が指先を通じてダイレクトに伝わってきた。
彼女の意識は完全に職人のトランス状態へと入り込み、周囲の喧騒も、自分を見つめる学生たちの視線も完全に消え去った。
ただ目の前の回路を修復することだけに、魂のすべてを注ぎ込んでいく。
極限の集中は、彼女の体力を容赦なく削り取り、額に玉のような汗が幾つも浮かび上がった。
すると、誰かが柔らかな布で、その汗をそっと拭い去ってくれた。
視線を向けなくても、それが誰なのかはすぐに分かる。
ギルバートである。
彼はソフィアの集中の邪魔を一切せず、ただ寄り添うように彼女の作業を無言でサポートしてくれていた。
その大きく温かな気遣いが、ソフィアの心に絶対の安心感をもたらしてくれる。
やがて、ソフィアは最後の一つとなる首筋の回路の接続を終え、開いていた人工皮膚を元通りに閉じた。
手応えは完璧である。
ソフィアは工具を置き、深く安堵の息を吐き出した。
しかし。
待てど暮らせど、魔導人形の瞳が開くことはなかった。
胸の奥にある魔力炉は静まり返り、冷たい人工の肌に生命の温もりが宿る気配はない。
直したはずの回路に、魔力が循環していく様子が見受けられないのだ。
「どうして」
修理は完璧だったはずだ。
ソフィアの顔に焦りの色が浮かび、サッと血の気が引いていく。
自分が未熟だから、祖父の作品を蘇らせることができなかったのだろうか。
絶望に沈みかけたその時、ギルバートがぽんと彼女の華奢な肩に手を置いた。
「落ち着け、フィー。完璧に直せたのだろう」
「はい。でも、動きません」
ソフィアがすがるように見上げると、ギルバートは静かに力強く頷いた。
「信じるんだ。君自身の確かな腕を。そして、君に技術を教えた、お爺さまのことを」
その言葉が、焦りで沈みかけていたソフィアの心に確かな光を灯した。
祖父の作品である。
ただ回路を直しただけで動くような、単純な代物ではないのかもしれない。
ソフィアは再び目を閉じ、自身の精神の深淵へと潜り込んでいった。
魔竜ファフニールから継承した、歴代『八宝斎』の知識の海へアクセスするためである。
彼女の意識は肉体を離れ、果てしなく広がる純白の世界へと降り立った。
そこには、天井すら見えないほど巨大な無数の本棚が、地平線の彼方まで立ち並んでいる。
静寂に包まれたその空間には、古い羊皮紙とインクの匂いが濃密に漂っていた。
これらの一冊一冊が、歴代の八宝斎たちが紡いできた膨大な知識と経験の結晶なのだ。
ソフィアは無限の書庫の中を歩き、自分に最も馴染み深い魔力の波長を探し求めた。
煙草と機械油の混じった、懐かしくて優しい匂い。
彼女は迷うことなく一つの本棚に辿り着き、祖父ヴィルの記憶が刻まれた一冊の古い本を引き抜いた。
分厚い革張りの表紙を開くと、そこにはヴィルの筆跡で記された数々の設計図や手記が躍っていた。
ソフィアはページを猛烈な勢いでめくり、美しい人形の設計思想と、隠された起動シーケンスの記憶を瞬時に読み解いていく。
ただ魔力を通すだけでは動かない。
盗難や暴走を防ぐため、製作者だけが知る物理的なロックが仕掛けられているのだ。
あった。
これだ。
ソフィアは現実の世界でパチリと目を開けた。
そして、横たわる人形の頭部に手を伸ばし、その美しい銀糸の髪をそっとかきあげる。
滑らかなうなじのくぼみを指先で探ると、肉眼ではほとんど見えないほどの小さな起動ボタンが隠されていた。
ソフィアは迷うことなく、そのボタンをカチリと押し込んだ。
次の瞬間。
人形の胸の奥で、トクン、と心臓の鼓動のような魔力炉の重い音が響いた。
冷たかった人工の肌にほんのりと赤みが差し、生命の熱が全身の回路を駆け巡っていく。
閉ざされていた長い睫毛がゆっくりと震え、透き通るような翠緑の瞳が静かに開かれた。
女神のように美しい魔導人形が、長い眠りから完全に目覚めたのだ。
「おおおっ。すごいっ」
息を呑んで見守っていた魔道具研究会の学生たちから、割れんばかりの歓声が沸き起こった。