作品タイトル不明
23. 待ち受けることと、魔女の言葉(ラハルト視点)
「彼女の役に立ちたい」という一心からハルが魔女に答えると、魔女とユフィの視線が同時に彼へと突き刺さった。気に入らないと言わんばかりに眉をひそめながらも、それ以上言葉を重ねてこないのは、それだけシフという狼が彼女にとって大切な存在だからだろう。
(心を許した狼……か)
シフの傍にいる時にはいつも柔らかな微笑みを浮かべるユフィの姿が思い浮かび、胸の奥がちくりと痛んだ。彼女は誰に対しても重畳たる優しさを見せるが、あの狼に対しては、とりわけ愛おしげな表情を浮かべるのだ。狼に向けられたこの感情は、羨望だろうか、嫉妬だろうか。それとも……。
(……何でもない。何でも、ないのだ)
ユフィにとって大切な存在であるならば、ハルにとってもまた、大切に扱いたい存在だった。彼女のためであるならば、何だってできる。ハルの答えに魔女は満足げな笑みを浮かべ、手を差し伸べた。
「いいわ。それじゃあハル、こちらへおいで」
「はい」
自分を支えてくれていたユフィの手から離れ、魔女のもとへと向かう。そのわずかな数歩が酷く孤独に感じられるのは、それほどまでに彼女の温もりに慣れてしまったせいだろうか。
「さあハル、この紙に手を乗せなさい」
「このように……すればよろしいですか?」
「ええ。さて、それじゃあ……」
言葉を濁しながら手を伸ばしたリベリカが、ペーパーナイフを取り出すと、そのまま自身の肌を切り裂いた。赤い血が白い紙に触れた瞬間、血を含んだ紙が銀色に輝き、複雑な紋様を描き出した。
描かれた紋様は、やがてハルの腕に絡みつくように這い上がってきた。内心では驚いたものの、幸いなことに表に出ることはなかった。
彼の腕に紋様が定着すると同時に、数年もの間、彼の体を苛み続けていた痛みが次第に薄れていくのが感じられた。
驚いたハルが視線を落とすと、そこには見慣れた自身の掌があった。しかし、先ほどまでとは全く違っていた。自身の変化に追いつけないまま目をパチクリさせていると、リベリカの可笑しげな声が届いた。
「あら。気の毒なことをしてしまったかしら? ハル、あなた、思ったよりも魔法抵抗力が高いのね」
「抵抗力……ですか?」
「ええ。理由は分からないけれど、魔女の魔法がうまくかからないわ。おかげで効能が半分に減ってしまったもの」
半分に減ってこの程度なのだろうか。確かに、健康だった頃と比べれば体は重い。しかし、あまりにも長い間、病に苦しめられて生きてきたせいか、今でも十分に飛び立てるほど体が軽く感じられた。この程度動けるならば、ユフィを助けることができる。必ず、役に立てるはずだ。
「繰り返すけれど、この魔法の期限は一週間。その間に、何が何でも調教師を見つけ出しなさい。分かった?」
深く頷いたハルは、頭の片隅に仕舞い込んでいた過去の記憶を手繰り寄せた。戦争が激しかった頃でさえ、調教師を捕らえるのは常に至難の業だった。
奴らは狡猾で陰湿であり、決して自ら表舞台に姿を現さない。人々の間に紛れ込み、無害な表情を浮かべたまま、獣の兵器を操っていた奴ら。
しかし、調教師たちにも一定の行動パターンというものが存在する。奴らはシフの刻印が解けていないことを確認したはずだ。ならば。
「調教師たちは極めて慎重です。シフを連れ去るために、完璧な準備を整えるでしょう。襲撃が起こるのは、二日から三日の間かと」
「村まで攻め込んでくるかしら?」
「いいえ。奴らもここが魔女の村であることを知っているはずですから、踏み込んではこないでしょう。あらかじめ拠点を突き止めて急襲する方法もありますが……」
過去の記憶を辿っていたハルが、ユフィへと視線を巡らせた。すると、彼をじっと見つめていた彼女と目が合った。以前も、そして今も、交わした視線を決して逸らすことなく、彼女はまっすぐに彼を見つめていた。
「ユフィ。笛の音が正確にどこから聞こえたか、覚えているか?」
「大迷宮の近くにある岩山です。大小さまざまな洞窟が多く、中には非常に深い洞窟もあるので、その気になれば隠れ家にするにはうってつけの場所ですわ」
「ならば、選択肢は二つに一つだな。拠点を突き止めて叩くか、あるいは待ち受けるか」
「あなたは、どちらの方法が良いとお思いですか?」
「勝算があるのは待ち受けることだ。しかし、シフのことが心配ならば、拠点を捜索するのも……」
「あなただって、体を慣らす時間が必要でしょう? 二、三日程度なら、十分に待つことができますわ」
ハルの言葉が終わるよりも早く、ユフィが答えた。そして、リベリカを見つめながら言葉を続けた。
「師匠。私の用件は済んだようですので、これで失礼してもよろしいでしょうか?」
「ええ、行きなさい」
リベリカが手を振ると、ユフィは静かに部屋を出て行った。無意識のうちに彼女が去った空間を見つめていると、リベリカの声が響いた。
「無情に捨てる時は容赦なかったというのに、酷く愛おしげに見つめるものね」
「……」
「ねえ、ラハルト。あなた、これからどうするつもりなの?」
「どうするつもり、とは……?」
「言葉通りの意味よ。今はあなたの体が悪いから、ユフィも傍にいるのでしょう。けれど、その傷が一生続くわけではないのよ。これから一年……いいえ、半年もすれば、あなたはここに留まる必要がなくなるわ」
魔女の言葉が理解できなかった。これから一年、早ければ半年のうちにハルは死ぬはずだ。それなのに、その先の未来を語る理由は何なのだろうか。
「死ぬ前にユフィの前から去れ……とおっしゃっているのですか?」
「何を言っているの……ああ、そうか。あなた、ずっと寝たきりだったからよく分かっていないのね。あなたの体、治せるわよ」
「え? それは一体……」
「完治は難しいし傷跡も残るけれど、日常生活に支障がない程度には回復するわ。だから、日常生活に問題はなくなるのよ」
信じがたい言葉だった。確かにこの村に滞在しながら、体が快方に向かっていることは感じていた。しかし、どこまでも死ぬ前に苦痛を和らげるための行為に過ぎないと考えていたのだ。
もし、そうではないというのなら……。
「あのね、ハル。私はあなたに、この村から出て行ってほしいの」
「……出て行ってほしい、ですか」
「ええ。いくらユフィがあなたを許し、何でもないように振る舞っていたとしても、私はあなたを許すつもりはないからね」
当然のことであろう。魔女がユフィをどれほど惜しみなく慈しんでいるか、少し見ただけでも十分に分かる。大切な弟子を傷つけた男を、魔女が許すはずなどない。しかし。
「ここは魔女様の村です。お気に召さないのであれば私を追い出せば済むものを、あえて私に尋ねる理由をお伺いしてもよろしいですか?」
「この村を訪れた者を追い出す権限は、私にもないからよ」
「私がこの村に留まりたいと言ったなら、魔女様はどうされるおつもりですか?」
「何も」
「何も、ですか?」
「ええ、何も。ただ……」
リベリカの視線がハルへと向けられた。感情を読み解くことのできない魔女の視線が、彼の赤紫色の瞳を捉える。リベリカが言葉を継いだ。
「あなたが一度でもユフィを悲しませるようなことがあれば、私はあなたに、生きていることを後悔させてあげるわ」
「伏してお願いいたします。いいえ、魔女様が手を汚される必要はありません。ユフィをほんの少しでも悲しませた瞬間、私自身の手で私を裁きますから」
「あなたが、自分自身を?」
「はい」
そうだ、リベリカがその手を汚す必要などない。ユフィの目から再び涙を流させるようなことがあれば、ハルは誰よりも自分自身を許すことができないだろうから。
「そこまでしてここに残り、あなたは何がしたいの? ユフィの何になりたいというの?」
リベリカの問いに、ハルは微かな笑みを浮かべて答えた。
「何も」
「何も?」
「はい。彼女が私を道端の石ころのように扱っても構いません。存在しないものとして見なされても、一向に構わないのです。ただ……彼女の傍らで、彼女の役に立てるのなら。私は、どのような形であれ構いません」
「そう。それがあなたの答えなのね」
リベリカがハルに倣うように微笑んだ。
「いいわ。用件は済んだから行きなさい。ユフィの言う通り、あなたにも体を慣らす時間が必要でしょう?」
「はい。それでは……」
リベリカに一礼を捧げたハルは、静かに魔女の部屋を後にした。一人残された魔女は、窓の向こうに佇む赤髪の弟子を見つめた。誰の耳にも届かない魔女の声が、低く静かに響いた。
「だからこそ、あなたがユフィの 最後の欠片(トリガー) であり得るのね」