作品タイトル不明
19. トリガー
「あっ」
「あ」
魔女は自らのものが狙われると、極度の怒りを表出する。
うっかり本性を覗かせてしまった二人の魔女が気まずそうな表情でバンデオンを見ると、バンデオンは眉をひそめ、テーブルに視線を固定している二人を指差した。
それを受け、リベリカが先にエレナの方へと近づきながら謝罪した。
「エレナ、ごめんね。怖かったでしょう」
「いいえ、リベン。あなたたちの怒りはもっともだわ。カランも本当に愚かな真似をするものね」
青白くなった顔をしたエレナが首を横に振り、無理に微笑んでみせた。
「話は大体終わったから、そろそろ休むことにしよう。エレナ、私が送っていくわ。行きましょう。ユフィ、君はハルを病室へと連れて行っておくれ」
「バンデオン、ちょっと手伝ってくださ……」
「俺はリベンを手伝わなきゃいけないから。ばあさん、俺に寄りかかれよ」
「おやまあ、ありがたいねえ。それじゃあ、お言葉に甘えようかね」
ユフィが言葉を終える前に素早くエレナを抱き上げたバンデオンは、眉をひそめて彼を見上げるユフィの方には一切視線を向けることなく、ドアへと大股で歩いていくだけだった。
それに続いてリベンが食堂を出がけに言い残した。
「ユフィ、ハルをしっかり送り届けるんだよ。わかったね?」
意味深な最後の言葉を残してリベリカが食堂を去り、ハルと二人きりにされたユフィは、込み上げてくる溜息を堪えきれずに深く吐き出した。
(本当に、やってられないわ)
湧き上がる苛立ちを無理やり押し殺したユフィが、ハルへと近づいた。そして、震える彼の両手を握りしめながら言った。
「ごめんなさい、ハル。怖い思いをさせて。心配しないでください。私たちは決して、あなたたちを傷つけたりしませんから」
「……わかっている。怖いわけではないんだ。ただ、身体が勝手に震えてしまってね」
「魔女が怒ると、周囲に影響が及ぶのです。だから可能な限り平穏を保とうと努力しているのですが……」
思わず感情を制御しきれなかった。魔女は平穏でなければならない。感情的になりすぎてもいけず、感情が欠落していてもいけないものだ。
(まだ未熟だということね。はぁ……)
今回はリベリカも一緒に怒ったのだから、状況を聞いた魔女ならば誰もが感情的に対応し得るという免罪符が与えられるかもしれないし、ユフィは当事者であるシフの魔女なのだから、なおさら感情的になっても仕方がなかったと言い訳はできる。
しかし、それはあくまで結果論に過ぎない。実際にリベリカはすぐに感情を立て直したが、ユフィは未だに感情に振り回されている。
(もっと心を律しなければ。動揺するな。刺激されるな。私は魔女なのだから)
目の前にあるものがどれほど心を揺さぶろうとも、決して流されてはならない。視線を落としたユフィは、握り合ったハルの手を見つめた。
包帯が巻かれた手は冷たく、湿り気を帯びていたが、彼女の小さな手をすっぽりと包み込むほどに大きかった。
世界のすべてのものは石ころと同じ。気にする必要も、怒る理由もない。転がってきた石ころが、シフに少し深く突き刺さっただけだ。傷は治療すればいい。大丈夫、平穏は保てる。
揺らぐな。揺らぐ必要などない。
「ごめんなさい。もう大丈夫です。すべて抑え込みましたから……」
ユフィが握っていた手を離しながら言葉を続けようとした、まさにその瞬間だった。ユフィの手をまともに握り返せずに力を抜いていたハルが、突如として彼女の手を強く握りしめた。
驚いたユフィが反射的に視線を上げると、死に直面していたとは信じがたいほどに強烈な眼差しが、彼女の瞳を捉えた。
「ユフィ」
「……なぜ呼ぶのですか」
「どんなことがあろうと、君が悪いわけではない。腹が立つなら怒ればいいし、悲しいなら泣いてもいいんだ」
「……何と言いました?」
「私の前でだけは、感情を抑え込まないでおくれ。怒り、悲しみ、恨み、憎んでも構わないから」
ハルの言葉に、ユフィは眉を跳ね上げた。
「知りもしないのに、戯言を言わないでください。私は……魔女は、そうで臨んではいけないのです」
「どうして?」
「あなたも先ほど経験したでしょう? 私たちの感情は、平凡な人間にとっては毒なのです。だから……」
「君も人間だ」
続いたハルの言葉に、ユフィは呆然とした表情を浮かべた。
「……何ですって?」
「魔女である前に、君もまた、一人の人間だ」
──私たちは魔女である前に人間なんだよ、ユフィ。だけどね、一度魔女になってしまえば、徐々に人間性を失っていくものなんだ。
ラハルトの声に混ざり合うようにして、リベリカの声が頭の中に響いた。
「大切な家族が攻撃されれば、悲しく、怒り、憎らしく思うのが当然の……人間だろう?」
──だからこそ、私たちは人間の心を繋ぎ止めるための 装置(トリガー) が必要なの。ある魔女にとってはそれが人かもしれないし、別の魔女にとっては行動かもしれないね。
交わる視線のなかに、はるか昔に目にした、愛する人の姿が重なった。ラハルトが彼女の手を包み込む。無骨で、手荒ではあるが、それでも彼女を守ってくれた。その手が、過去の記憶を呼び覚ます。
「だからユフィ」
──だから、ユフィ。
違う、違う。この人だけは違う。そんなはずはない。これは石ころだ。ただ、道端に転がっているだけのもの。
心の中で否定する。それにもかかわらず、リベリカの声は消し去ることはできず、ラハルトの言葉が途切れることもなかった。
心臓が不規則に脈打つ。抑え込んでいたかつての心が、切なかった過去の感情が、いまにも溢れ出しそうだった。
「君が私に気を遣う必要はない。いくらでも利用すればいいし、めちゃくちゃに壊してしまっても構わない。君にはその資格があるし、私は君のためなら、何だってするつもりだから」
──それを見つけ出したらね、必ず傍に置いて守り抜くんだよ。
私たちが心を失ってしまう前に。
人間でなくなってしまう前に。