作品タイトル不明
11. 夏の始まり、村では
永遠に降り続くかと思われた雨が止み、時季外れの暑さが村に降りてきた。濡れた土が乾く間もなく広がった高温多湿な空気は不快感を催させたが、強烈に照りつける太陽の下で鮮明になった世界は、見る者の心にどこか清々しさを呼び起こしていた。
青々と育った瑞々しい草の匂いを嗅ぎながら、ユフィは心地よげに空を眺めていた。
雨の日、旅人が魔女の家に転がり込んできてから約半月。
リベリカ、エレナ、そしてユフィの三人で、患者の症状と被曝強度を細かく考慮して作った新薬が、患者の体にうまく馴染んだようだ。なかなか快方に向かわなかった三人目の患者の容体は、ここ一週間で目に見えて改善していた。
患者が健康を取り戻すことは、何よりも嬉しいことだ。それに加え、なかなか寝付けずにユフィの自尊心を逆なでしていたのが一昨日のことのようだが、彼のために特別に調剤した茶と香草もよく合っているのか、最近はよく眠れるようになった。
行き詰まっていた物事がするすると解けていく感覚に、言いようのない達成感を覚えていた。
(これなら、近いうちにリハビリを始めてもいいかしら)
リハビリといっても、王都からこの辺境まで一人で辿り着くほどの強靭な精神力と体力を持つ彼に対し、ユフィがしてあげられることは多くない。せいぜい杖なしで歩けるよう手助けする程度だろう。
「もちろん、そのためにはまず体力を回復させないとね」
これまではまともに食事を喉に通せず、薄い粥と栄養剤で凌いできたが、今日からはついに薬膳料理を出すことができる。
薬膳料理はユフィの得意分野であるため、振る舞うことを考えるだけで今から心が浮き立った。
彼の好物はすべて知っている。その知識を活かして朝早くから料理を作っていると、匂いを嗅ぎつけたシフがキッチンの扉をひょいと開けた。
「シフ、おはよう。でも、キッチンに入ってはだめよ?」
ユフィの制止に、シフは分かっていると言わんばかりに扉の外から大きな目をしばたかせた。ルビーのように輝く相棒の姿に、作りかけの料理を小皿に取ってシフへ歩み寄る。
「私の代わりに、味見をしてくれる?」
扉の外へ料理を差し出すと、シフは待っていましたとばかりに口を寄せた。チャプチャプと心地よい音が響いてしばらく。
「どう? 元気が出そうかしら」
ユフィの問いに、シフは返事の代わりに彼女の頬に自分の顔を寄せて擦りつけた。特に気分が良い時にだけ見せるシフの甘えは、ユフィにとって何よりのご褒美だった。
「あら、そう。美味しかったのね。よかったわ」
見た目が似ていれば、好みも似るのだろうか。シフに失礼だと分かっていても、ついそんな考えがよぎってしまう。
笑いながらシフの頭を撫でてやると、大きな尾が嬉そうにゆらゆらと揺れた。
「すぐに朝食を用意してあげるから、食堂に行って待っていなさい」
ユフィの言葉を忠実に聞き入れる愛らしい相棒は、素直に足を向けて食堂へと去っていった。その姿を笑顔で見送った後、ユフィは相棒が待ちきれずに乱入してくる前に、手早く料理を仕上げた。
薬膳料理を抱えて魔女の家へと向かう。朝から漂う香ばしい匂いに、今度はバンデオンが尻尾を振って近づいてきた。
「ユフィ、朝からめちゃくちゃいい匂いがするな」
「あら。では、普段はいい匂いではなかったというのですか?」
「普段だって思わず涎が出るような匂いだったさ。今日は特に最高だって意味だよ」
ユフィの悪戯っぽい問いを上手くいなしたバンデオンは、彼女が並べた豪華な食事を見て目を丸くした。
「わあ、なんだこれ? 今日は何かのお祝いか?」
「ええ。粥しか食べられなかった患者さんが、ようやくまともな食事を摂れるようになったのですもの」
「あはは、だからこんなに豪華なのか。なるほどな」
患者が食事を摂れるようになると、いつにも増して豪華な膳を用意する。傷ついた心を慰める温かな料理は、時としてどんな魔法よりも生への執着を呼び覚ますから。
鼻をひくつかせるバンデオンにリベリカとエレナを呼んでくるよう頼み、ユフィは三人目の患者用の料理を別に取り分けて彼の病室へと向かった。
「おはようございます、ハル。お加減はいかがですか?」
「おはようございます、ユフィ様。おかげさまで、随分と楽になりました」
「良かったです。今日からは食事が摂れるとのことでしたので、特別に腕を振るったのですよ。冷めないうちに召し上がってください」
慎重にハルの体を起こしたユフィが、簡易テーブルの上に食事を並べた。置かれた膳を目にしたハルの目が少し見開かれ、やがて追憶の色に染まっていく。おずおずとスプーンを手に取った彼は、程よく冷めたシチューを口へと運んだ。
「……懐かしい味がするな」
確かに、かつてのユフィは彼の部隊へよく見舞いの品を持って訪ねていた。兵士たちが少しでも健康でいられるように、彼が無事に自分の元へ帰ってこられるようにと、心を込めて料理を作ったこともあった。今日は彼の好物ばかりを並べたのだから、馴染みがあるのは当然だった。
「昔はよく召し上がっていたでしょうから」
「あ……」
ユフィの何気ない返答に、思わず失言したハルが反射的に顔を上げた。しかし、ユフィの視線はすでにハルではなく、一晩中灯されていた香草に向けられていた。
(今日はよく眠れたみたいね)
かなり長い時間灯っていた形跡のある、すり減った香草を見てユフィはふわりと微笑んだ。
彼女を傷つけずに済んだという事実に安堵しながらも、彼女の何気ない一言に傷ついてしまうのは……。彼女の慈愛に、傲慢な期待が込み上げてしまうからだろうか。
(私のような者が、よくも……)
傲慢になるな。微塵も期待するな。彼女が自分を治療してくれるのは、あくまで「村の規律」ゆえなのだから。
傷ついた心を再び自ら切り刻む。懐かしさだけが詰まっていたはずのその食事は、ほんの少し、苦く感じられた。