軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

魔女と約束の惚れ薬 16

ロゼは薬を渡した。

ハリージュは薬を受け取り、代金を支払った。

「それでは、ご来店ありがとうございました」

***

ハリージュが庵を出てしばらくして、ロゼはようやく正気に戻ったような気がした。荒れ狂う動揺を押し切って、真顔を貼り付け接客していたのだ。

気付けば、ローブの中は熱気が渦巻き、全身びっしょりと濡れている。

ずるずるとしゃがみ込んで、胸に手を当てる。荒れ狂っている心臓は、すごい速度で脈打っていた。

「心臓、痛い……」

座り続けることも出来ずに、背中から床に倒れ込む。埃が舞い上がり、窓から差し込む微かな陽に溶ける。

心の中を、無茶苦茶に痛めつけられているかのようだった。胸が苦しくて、かきむしりたいほどの疼きを感じる。

大きな炎となって燃え上がった恋情が消えずに、ずっとロゼの中で燻っている。

流石に薬が効いている時ほどの見境のなさは無いが、彼を好きだと思っていた気持ちが、今朝までの何倍にもなっている。

今では、軽く被験者になると言った、自分が浅はかだったことがはっきりとわかる。

鮮明に、彼のことを以前よりも恋しく感じている自分がいた。

つい先ほどまで、二人は密接しているとも言えるほどの親密な距離にいた。ロゼの体をぐずぐずに溶かしていた熱は、まだ体の芯に残っている。

――それに。

ロゼは唇に触れる。

あと一瞬、正気に戻るのが遅ければ、きっと触れ合っていただろう唇を。

ロゼは両手で顔を覆った。

「うぁあああ……!!」

バサバサとローブを翻しながら、物が敷き詰められた、ぐっちゃぐちゃな庵の中を、ゴロゴロゴロゴロゴロと転がり回る。

まるで物語の恋人達のように、甘え、こびていた。そんな自分を思い出すのは、けっこう辛い。

「っげふぉっ、ごほっごほっごほっ……」

埃に誘発され、咳き込む。

馬鹿なことをしているが、ようやく自分が自分に戻った気がして、少し安心する。

「はぁー……」

両手を広げて、寝転がる。

ロゼ、そう呼ばれた音を思い出し、顔中に皺を寄せ、唇を噛んだ。

「ぐええ……」

絶対に呼んで貰いたくなくて、そして何よりも呼んで欲しかった名前。

その名前を、誰よりも呼んで欲しかったハリージュに呼ばれた。

芋づる式に、名前を呼んでくれと懇願した自分も思い出し、次から次に死にたい気持ちがロゼを襲う。

記憶を一部失わせる魔女の秘薬も存在するが、自分のためにあんな高価な薬を使えるわけも無い。ロゼは地面に頭を叩き付けて、物理的に記憶を飛ばす方を選んだ。

何度か打ち付けても記憶は飛んでいかなかったが、痛みのおかげで気は紛れた。

天井の梁にも埃が積もっているのが見え、そっと目を閉じる。

「惚れ薬を使うのは、彼じゃない……」

ロゼはその可能性を一瞬だって、考えたことがなかった。

彼が誰かのために、こんな不名誉な場所に、身をやつしてまで来るとは思ってもいなかったからだ。

胸がまた、ぎゅっと締め付けられた。

喜んだところで、もう彼との関係は絶たれてしまったのだから、なんの意味もないのに。

明日からは、もう会えもしないのに。

もっと、ぼればよかっただろうか。

そうすれば、これからの彼の記憶に少しでも「がめつい魔女がいた」と残っただろうか。

それとも「毎度食べ物を持ってこさせられた、迷惑な魔女がいたな」と、ほんの少しでも彼は思い出してくれることはあるだろうか。

彼は今何を、彼はこれからどうやって、彼はこれから一度でも、彼は、彼は、彼は、彼は――

「よし、片付けよう」

この思考にきりは無い。

そして考え続けていても、仕方ない。

自身を勇気付けるために、勢いよく体を起こすと両頬を叩いた。

決意が変わらないうちに、カウベルを外した。長年聞き慣れた音だったが、あの音を聞くと胸が躍る。

テーブルクロスも仕舞う。

きっとわざわざ取りに来る事は無いだろう。くしゃくしゃに畳んで、収納箪笥に無理矢理押し込んだ。

そうしなければ、心が勝手に期待してしまう。

もう来るはずもない人が、美味しいご飯を持って来るんじゃないかと。

出していた皿とカップも、一人分を残して仕舞う。

今後、誰かが菓子を持ってくることも無ければ、誰かに茶を出すことも無い。

見れば、思い出してしまう。

薬だらけのこの部屋で、唯一甘い林檎の香りがしていた、あの時を。

ハリージュが持ってきていた籠を見る。

中を見ると、今日は干し林檎の載ったクッキーだった。

口に持って行くと、クッキーが割れ、破片がポロリとこぼれる。

「……味がしない」

あんなに待ち望んでいた菓子は、一人で食べるレタスよりもずっと、味気なかった。

***

「――いらっしゃいませ?」

勝手にドアを開けて入ってきた客に驚いて、ロゼはぽかんとしたまま挨拶をした。

もちろん、客が来るのを知らせるベルが鳴っていたため、来客があることは知っていた。

それが、誰なのかも窓から確認した。

だが、まさかそんなはずがないと、彼が舟を漕いでこの庵にやってくる現在まで、現実を受け入れられないでいる。

それは、こんな店にもう二度と足を運ぶことはないだろうと思っていた人だったからだ。

「邪魔するぞ」

ハリージュはいつものように入ってくる。

その表情からは、何の変化も読み取ることは出来ない。

「……へい」

惚れ薬は渡し終えた。

ということは、ロゼとハリージュは既に魔女と客では無い。

というのに、一体なんの用があって出向いたというのか。

不審に思ったロゼは、ハッと顔色を青くした。

「薬に、もしや不備でもございましたか?」

「効能は疑う余地もない。それにもう、薬は俺の手を離れている。いつ使うのかは、俺の関与するところではない」

咄嗟に浮かんだ不安を口にしたロゼに、ハリージュは首を横に振った。

「とは言え、使い方については再三注意をしてはいるがな。……薬を飲んだものの、振る舞いについても」

ハリージュの鋭い視線を感じて、ロゼはぶかぶかのローブの中で身を縮こまらせた。

――まさか、あの時の話を蒸し返すつもりか。

二人の交わった視線を、紡ぎあった名を、溶けた吐息を、ロゼは全て鮮明に覚えている。

その全てを無かったことにするつもり――どころか、今後ハリージュと会うつもりも無かったロゼだ。

鳴らないオルゴールのつまみを回すものがいるだろうか?

ロゼはそう言う類いの人間では無かった。

つまり、この展開については、予想さえしていなかったのだ。

自分のことを万が一にも、今後の人生で思い返して貰えたら幸せ……なんて思っていたが、あんな自分を思い出されるのは、無理だ。

「どうぞ、試験薬のことはお忘れください。私としましても、服用した薬の効果はもう、切れております」

薬の後遺症は残っているが、嘘では無い。ロゼはきっぱりと言い切った。

未練たらたらに引きずっているが、その感情さえもう綺麗さっぱり消えてしまっているという顔をした。

まるで悪い夢を見ているかのようだ。話題になんて、今後一切、絶対に出して欲しくない。

「薬の効果は――」

「はい。もう、切れております」

旗色が悪いと見たロゼは、ハリージュの質問を遮り、ぐるんと体を反転させた。

「他に何かご用が?」

はじめて庵を訪れた時、ハリージュはひどく不機嫌だった。

村人から庇ってくれた時には、最初ほどの不審の念は抱かれていないように感じたが、こんな胡散臭い場所に進んで来たいはずもない。

その証拠に、まだ彼も旅装束に身を包み、身分を隠している。

用も無いのに訪れるはずが無い。

そう確信を持って尋ねたロゼは、すぐに返事をもらえなかったことを訝しみ、ハリージュを振り返った。

ハリージュはというと、ロゼの方を見てもいない。

拍子抜けだ。一瞬で呼吸が楽になる。

一体何を見ているのかと視線を追えば、ハリージュは窓際に置かれたテーブルセットをじっと見下ろしていた。

ロゼの視線を感じたのか、ハリージュが視線だけでこちらを見た。

冷たい群青色の瞳が、ロゼを射る。

「ロゼ」

名を呼ばれ、体がカッと熱くなった。

引きずられるように、胸も切なく軋む。

また名前を呼ばれるなんて、思ってもいなかった。

名前を呼ばれるだけで、これほど如実に、心が動くだなんて。

驚きや喜びや悔しさがぐちゃぐちゃに混ざって、体から吹き上げてくる。

「あれは、薬の影響で――!」

だからもう、名前を呼び続けたりしないでくれと懇願しそうになったロゼは、利口なことに咄嗟に口を閉じた。

燃え上がった心も冷静さを取り戻す。

目の前の冷たい視線は、あろうことか、ロゼを責めていたからだ。

「クロスは、片付けたのか」

ロゼは、じり、と後じさった。

肉食獣を前にした草食動物の気持ちが、何故かこの瞬間はっきりとわかった。

「……大事な物とはつゆ知らず、すぐにお返しいたします」

「そんなことは望んでいない」

しかめっ面の男の手には、いつものように大きめの籠が握られていた。

落ち着いてみれば、籠からは芳醇な香りが漂っていることに気付く。

彼はまた、食べ物を買ってきたのだ。ロゼのもとに。

その意図がわからずに、ロゼは渇いた唇をちらりと舐める。

「……もう、訪れは無いと思っておりましたので、不要な物かと……」

「俺のためで無く自分のために、食事は大事にすることだ」

大きなため息をついたハリージュが、ずいと籠を差し出してくる。

しかしロゼは大股で飛び退いて、頭を深く下げた。

「お代でしたら、もう受け取っております。これ以上、受け取ることは……」

ご容赦ください。

ロゼはローブの中で泣き出しそうなほど愚直に祈った。

一度受け取ってしまえば、きっとまた次を望む。

明日も、その次の日も、そのまた次の日も――彼が来るんじゃないかと、日がな一日窓に目をやる日々が始まってしまう。

想像するだけで、なんていう恐ろしい日々だろう。

契約の終わりは好都合だった。

甘く楽しい片思い期間の終わりが、明確だったから。

自分で勝手にはじめた恋を、勝手に終わらせることができた。自分の、心一つで。

けれどこれを受け取ってしまったら、それはもう、一方的にただ取り出して眺めていられるだけの、優しい恋じゃない。

終わりのわからない片思いは、恐ろしい。

「……なら」

あわや震えだしそうなロゼを黙って見つめていたハリージュが、口を開いた。

口調は穏やかに始まったが、細い糸の上を綱渡りしているような、どこか張り詰めた空気も感じさせた。

「また、薬を頼みたい」

「……へい?」

なんの? と小首を傾げれば、ハリージュは目頭にこれでもかというほど皺を寄せて答えた。

「……惚れ薬を」

全ての感情を置き去りにして、驚きが一等賞でやってきた。

目と口と鼻をあらん限りに開いて、ロゼはハリージュを凝視した。

ハリージュは、せめて視線だけでも逃がそうとしたのか、そっぽを向いている。

「……今度こそ、ご自分用に?」

「魔女の趣味は、客を詮索することか? ロゼ」

名前を呼ばれた動揺を隠すためにも、ロゼは口をへの字にした。

もちろん魔女は客の詮索なんてしない。だから今は、完全にロゼの失態である。

だが、ロゼのあんな痴態を見た後に、もう一つ所望しようとは随分と悪趣味なことは確かだ。

最も、ロゼは魔女だから、魔女の秘薬を使うことにためらいは無い。

ロゼがハリージュに惚れ薬をぶっかけない理由は、ただ一つ。

魔女の秘薬を使っても手に入らなかった時、そこには絶望しか残っていないからだ。

「……わかりました。ご依頼、承ります」

またお時間いただきますよ。

渋々そう告げると、何故かハリージュは「望むところだ」と晴れやかに笑った。

***

――ロゼ。

それは、ハリージュには呼ぶことを認められなかった、魔女の名だ。

女性の名前を呼ぶことに、こだわりを持ったことはなかった。それどころか、王女以外の特定の女性に、関心を持つことさえ珍しかった。

呼ぶなと言われた時にイラッとはしたが、魔女の名だ。

ハリージュの知らない、呼んではいけない理でもあるのかもしれないと、一人考えたりもした。

だというのに、惚れ薬を飲んでハリージュに惚れ込んだ魔女は、あっさりとハリージュに名前を呼ぶことを許した。

惚れていないハリージュには許さなかった名前を、呼んでくれと懇願したのだ。

決して、ただの一度だって呼んでやりたくはなかった。

けれど、子猫のように手の中で震え、すり寄ってくるロゼを、ぴしゃりと叱りつける事は出来なかった。

気付けば、自然と甘やかしていた。

彼女が望むことは、なんでもしてやりたいと思わせる愛しさを覚えた。

自分への恋情を抱え、恥ずかしさのあまり、フードに隠れてしまういじらしさ。

手慣れた娼婦のような淫猥な指先と、陽だまりに咲く花のようなあどけない笑顔。

薬に従うまいと抗っている姿は、普段の、無表情で口いっぱいに林檎の菓子を頬張る魔女の姿を思い起こさせた。

ハリージュは次第に、目の前にいるロゼのことしか考えられなくなっていった。

自制心は強い方だと自負していたのに、年頃の娘相手にするべきではないことまで、しようとした。

ハリージュの依頼のために、薬まで飲んでくれたロゼ。

薬で生まれただけの彼女の恋心を、決して弄ぶような真似だけはすまいと思っていたというのに、抗えない何かがそこにあった。

丁度時間がきたからよかったものの、取り返しがつかなくなるところだった。

薬に流され、こちらのことなど何も思っていないはずの彼女を、傷つけずに済んだ。

薬の効果が切れたロゼは、いつも以上に冷静だった。

頭の切り替わっていないハリージュを置き去りに、テキパキと薬を包み終えたロゼは、支払いを強請った。

魔女の庵を訪れる時には必ず持ち歩いていた代金を渡し、二人は別れの挨拶を交わした。

屋敷に戻ったハリージュは、戸惑いを抱えていた。

――いつまでも、胸の高鳴りが収まらないのだ。

蓋を開けてみれば、惚れ薬を飲まされたのはハリージュだったかのようではないか。

あれから、寝ても覚めてもロゼの声が、体温が、潤んだ瞳が忘れられない。

ハリージュはこれほど心乱されたままだというのに、ロゼにはもう全く薬の効果が残っていないという。

砂時計が落ちきった後のロゼの表情からは、ハリージュに向けた恋情を読み取ることは不可能だった。跡形もなく、消え去っていた。

ほっとして然るべきなのに、冴え冴えとしたロゼの表情を見た時に、一抹の寂しさも感じてしまった。

会えば何かがはっきりとするかもしれないと考えたハリージュは、なんの気構えも無く魔女の庵を訪れた。

いつものように、菓子を持って。

――なのにハリージュを待っていたのは、拒絶だった。

庵のどこからも、ハリージュのいた気配は無くなっていた。

少なからず――友情と呼ぶのは相応しくないにしろ――絆を育んでいたと信じていたハリージュは、驚いた。

当然のように、迎え入れてくれると思っていたからだ。

むせかえるほどのスパイスが利いた紅茶を、小さな窓から入る日だまりの中で飲む時間が、これからも変わらずに、ずっとここにあると、ハリージュは信じて疑っていなかった。

目の前にいる小さな魔女は、ハリージュなど、テーブルクロスを撤去したぐらいで追い返せると思っている。

この薄情な魔女に、ハリージュはどうしても意趣返しをしたくなった。

「ロゼ」

惚れ薬も飲まされていないのに名を呼ばれた魔女は、心底驚きと、後悔に満ちた表情を見せた。

ざまあみろ。

そう思う心の片隅が、見えない複数の槍でズタズタに突き刺されている。

やはり自分は、拒絶されていたのだ。

あれは本当に、薬が見せたまやかしで、決して、本心しか言えないロゼの、本心ではなかった。

ハリージュの苦境は続いた。

客ではないハリージュは、もうこの庵には不要だと、ロゼは遠回しに伝えてきた。

ハリージュは咄嗟に、伝えていた。

「また、薬を頼みたい――惚れ薬を」

あれほど胡散臭いと思っていた魔女の秘薬を、それも、人の心を動かすような薬を、望む言葉を。

けれど、言ってしまえばなんと妙案かと手を打ちたくなる。

惚れ薬を作る面倒くささは、身をもって経験している。

それにかかる膨大な時間も、よく知っていた。

それくらいの時間を再びかければ、ロゼも自分をもう拒絶しようなどとは思わないだろう。

なぜ拒絶されることがこれほど堪えるのかもわからないまま、ハリージュは己の出した結論に酷く満足して、笑った。