作品タイトル不明
103 イレーヌの苦悩
一夜明けて、街は物々しい警備体制が敷かれていた。
商店だった場所は焼け跡になっていて、焦げた臭いが残っている。幸いにして火が広がらなかったのは、住民たちが協力して消火したからであり、火を点けた夜盗を軍が拘束したおかげである。
イレーヌがイースデン公爵家を訪ねてきたのは。昼になろうかという頃であった。
「ナーディア、お別れの挨拶に参りました」
イレーヌは眠れなかったのだろう。瞼がむくんで、泣いた事が分かる。
「どういうこと?
伯父様の事はどうするの?」
ナーディアがイレーヌの手を握ると、イレーヌの身体がピクンとはねる。
「ユークリッド様は王となられる身です。
私のような者より、もっと相応しいご令嬢が現れます」
イレーヌが眠れなかった原因は、この事で悩んでいたと分かる。
ナーディアは、イレーヌをソファに導いて、自分は左横のソファに座る。
「それで、領地に逃げるつもりなの?」
図星なのであろう、イレーヌが視線をそらす。
もしかしたら、領地より遠い外国を考えているかもしれない。
「伯父様が結婚しようと思えば、今までにできたはずよ。
姪の私から見ても、伯父様は知的で見目麗しいわ。
縁談も山程あったはず」
ナーディアは母から聞いて、伯父が女性に幻滅していた事を知っている。
それほど、ユークリッド・トレファンは魅力的であったのだ。
積極的な女性の猛攻で、女性全体を避けていたと聞く。
その伯父が結婚する気になったのは、イレーヌだからこそだ。
「伯父様は、イレーヌでなければ結婚しないと思うわ」
「王となられて、世継ぎが必要になりました。
私は、それができないかもしれない」
元婚約者のことで、イレーヌは恐怖心が消えない。
ユークリッドは、それでもいいとプロポースしてくれたが、王となるとそれでは許されない。
昨夜、ずっと考えていた。
街の喧騒、厳重な警備。
胸が苦しくって、涙が止まらなくって、自分が不甲斐なくって。
綺麗な身体だったら、自信が持てたかもしれない。
王家に嫁ぐには、純潔が条件なのだ。
声を殺し、肩を震わせて泣くイレーヌを、ナーディアはそっと抱きしめる。
「もし、イレーヌが逃げたら伯父様は追いかけると思うわ」
顔を上げたイレーヌに、ナーディアはクスッと笑う。
「試してみる?」
「アーニデヒルト様の欠片が、北の地にあると言うの」
ナーディアはいいことを思いついた、とばかりに笑顔で言った。