作品タイトル不明
第26話
4月21日、月曜日。
世界の崩壊まで、あと10日。
午前中は拠点の総点検をした。
食料備蓄:米五百キロ、缶詰三百個以上、パスタ、乾物、調味料——半年分以上。
医薬品:抗生物質、解熱剤、縫合セット、点滴パック——シノが「十分」と言った。
燃料:ソーラーと水力で電力は自給できるが、念のための備え。問題なし。
防衛:防御レベルMAX、結界ドーム、対空防衛、地下シェルター完成。
食料自給:モグの温室と畑。野菜は当面まかなえる。
情報:ネロが外の動きをリアルタイムで監視中。
全項目を確認して、私はリストに「完了」と書いた。
「どうだ」
背後からゲンタが覗き込んだ。
「完璧」
「そうか」
ゲンタが短く答えた。それだけだったが、その一言に重みがあった。この一ヶ月で積み上げてきたものが、全部このリストに収まっている。
「今夜、焚き火をしたい」
「急だな」
「崩壊まであと十日よ。全員でゆっくり話す時間を作りたかった」
ゲンタが少し考えて、「いいな」と言った。
---
夜の七時。
拠点の中庭に、焚き火台を出した。
モグが「火をつけるの、得意!」と言って、あっという間に炎を起こした。松ぼっくりと細い枝を組み合わせた、よく燃える火だった。
全員が丸く囲んで座った。ゲンタ、蒼、シノ、ネロ、ユリ、モグ、そして私。
誰も何も言わない最初の一分が、心地よかった。
ただ火が燃えていた。山の夜は静かで、風が木々を揺らす音だけが聞こえた。見上げると、星が出ていた。星降る森、という名前は伊達ではない。
「なあ、マナ」
先に口を開いたのはゲンタだった。
「崩壊まで十日か」
「そう」
「俺が最初にお前に会ったのは、ホームセンターだったな」
「そうよ。ソーラーパネルの前で途方に暮れてた」
「途方に暮れてたのはお前の方だろ」
「お互い様よ」
笑いが少し起きた。
「ゲンタって、なんでホームセンターにいたの?あの時間に」
私が聞くと、ゲンタが炎を見ながら少し間を置いた。
「仕事を探してた」
「仕事を?ホームセンターで?」
「求人の貼り紙がある。建設系のアルバイト募集が出ることがあるんだ。定期的に見に来てた」
「……ゲンタほどの腕があれば、仕事は選り取り見取りじゃないの?」
「業界から弾かれてた」
短い言葉だった。
「どうして?」
ゲンタが炎をじっと見た。しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと話し始めた。
「十年前、小学校の建設現場の現場監督をしてた。途中で発注元から指示が来た。基礎工事の鉄筋の本数を減らせ、と。コスト削減だ」
「……それって」
「強度が落ちる。地震が来た時に危ない。俺は拒否した」
「拒否して、どうなった?」
「クビになった。それから同じ会社の関係先にも話が回って、どこにも雇ってもらえなくなった。独立しようとしたが、許可が下りない」
ゲンタが炎から視線を上げた。
「その学校は、俺が降りた後、別の業者が指示通りに建てた。三年後に大きな揺れがあって——壁にひびが入った。子どもは誰もいない時間だったから怪我人はなかった」
静かだった。
「俺が正しかったことは証明された。でも誰も謝らなかった。仕事も戻ってこなかった」
「ひどい話ね」
シノが静かに言った。
「そういうもんだ」ゲンタが肩をすくめた。「だから、ここに来た時は正直ほっとした。建築許可も発注元もない。俺の技術を、俺が正しいと思う通りに使える場所なんて、初めてだった」
誰も何も言わなかった。
火が静かに燃えていた。
「俺も話す」
蒼が、不意に言った。
全員が蒼を見た。この人が自分から話し出すのは珍しい。
「SAT在籍中に、立てこもり事件があった」
淡々とした声だった。
「人質が一名。犯人が一名。俺は狙撃ポジションについて、射線を確保していた。撃てる状況だった」
「でも?」
「上から『待て』が来た。犯人の家族に議員がいた。事を荒立てるな、という話が上から下りてきた」
炎が揺れた。
「待った。待ち続けた。三時間後に犯人が人質を刺した。人質は病院に運ばれたが、助からなかった」
「……」
「俺が撃っていれば助かった。でも撃てなかった。命令に従ったから」
蒼が膝の上で手を組んだ。
「その翌日に辞表を出した。組織の命令より、目の前の命の方が大事だと思ったから。でも——辞めた後も、あの三時間は消えない」
「蒼」
ユリが蒼の袖を、そっと引いた。
「……それは、蒼が悪いんじゃない」
「わかってる」
「わかってる、だけじゃなくて」ユリが続けた。「本当に、悪くないから」
蒼が少しだけ目を細めた。それ以上は何も言わなかった。
「私も言うわ」
シノが眼鏡を外して、レンズを拭いた。珍しい仕草だった。
「国立感染症研究所にいた頃、新型ウイルスの論文を出した。パンデミックになり得る変異株を発見した、という内容よ。五年前の話」
「五年前」
「上に提出したら、差し戻された。『センセーショナルすぎる』『経済への影響が大きい』という理由で。学会への発表も止められた」
シノが眼鏡をかけ直した。
「その後、私は研究所を追われた。表向きは自己都合退職。実態は追い出しよ。それからは自費で研究を続けてた。あの時の論文が正しかったことは——今の外の状況を見れば、わかるでしょう」
「正しかった」
「正しかった。でも五年前に動けていれば、防げたかもしれない感染者が何万人もいる」
シノが炎を見た。
「それが、ここに来た理由よ。今度こそ、間に合いたいから」
また静寂が落ちた。
ゲンタが薪を一本くべた。炎が大きくなった。
ネロが「俺とユリは昨日話した」と言った。ユリが「うん」と頷いた。それで十分だった。
「マナは?」
ゲンタが、私を見た。
「マナは、なんでここを作ったんだ。山を買って、俺たちを集めて。何がしたかったんだ、本当のところ」
全員の視線が私に向いた。
私は火を見た。
話したい、と思った。いつかは話さなければならない、とも思っている。でも——今日はまだ、その言葉が出てこなかった。
「……いつか全部話す。今日じゃないけど」
ユリと一瞬だけ視線が合った。昨日の車内での会話を思い出しているのだろう。ユリは小さく頷いてくれた。
「そうか」
ゲンタはそれ以上聞かなかった。誰も聞かなかった。
ただ、蒼がぼそりと言った。
「待ってる」
「ありがとう」
しばらくの間、火だけが燃えていた。
ぐぅ、と。
誰かのお腹が鳴る音が、静かな夜に響いた。
「……俺だ」蒼が真顔で言った。
緊張の糸がプツリと切れ、シノがくすりと笑った。ユリが「お腹すいたの、蒼?」と聞くと、「黙れ」と言いながら蒼が視線を逸らした。
「なあ」
ゲンタが、少しおかしそうな顔で言った。
「なんで俺たちは、お前についてきたんだろうな。冷静に考えると、初対面の女に山の中に連れてこられて、要塞を作って、崩壊に備えてる」
「……言われてみると確かに」
蒼が腕を組んだ。
「俺は唐揚げだった」
「唐揚げ?」
「マナが弁当を持ってきた。腹が減ってた。食ったら美味かった。それがきっかけだ」
「私はスクランブルエッグ」シノが言った。「最初の朝食。ちゃんとした食事だった。久しぶりに」
「俺は親子丼」ネロが短く言った。
「モグは、マナがやさしかったから!」
「ユリは……全部です。マナさんが全部の始まりでした」
私は全員の顔を見て、それから笑った。
「要するに、ご飯がよかったから?」
「だいたいそうだ」ゲンタが言った。
笑いが起きた。全員が笑った。火が揺れた。
笑いながら、私は少し泣きそうになった。
前世の私は、こんな夜を一度も持てなかった。仲間だと思っていた人たちと、焚き火を囲んで話したことなんてなかった。弱みを見せたら捨てられると思っていたから。
今は違う。
弱みを話した人間が、ここにいる。それでもここにいる。
それがどれだけ尊いことか、前世を持つ私には、人一倍わかる。
「マナ、どうした」
ゲンタが私の顔を覗き込んだ。
「なんでもない」
「目が赤い」
「煙が入った」
「風は向こうに行ってる」
「……うるさい」
ゲンタが「そうか」と言って、視線を火に戻した。
何も言わないのが、この人のやさしさだ。
世界の崩壊まで、あと十日。
星降る森の夜は、深く、静かで、温かかった。