作品タイトル不明
第25話
4月18日、金曜日。
世界の崩壊まで、あと13日。
「ユリ、動きやすい格好にして。あとスニーカー」
「はい! もう着てます!」
ユリが元気よく現れた。ジーンズにパーカー、紐をきっちり結んだスニーカー。完璧な格好だった。前日の夜から準備していたのが丸わかりだ。
「蒼、今日よろしく」
「わかった」
「ネロとシノとモグは留守番。何かあればすぐ連絡して」
「了解」「わかったわ」「うん!」
ブラックアークに乗り込んだのは、朝の八時半だ。
ゲンタが運転席、私が助手席、蒼とユリが後部座席。今日の目的は追加の種と苗、シノから追加依頼された試薬、それから特に理由はないがユリに外の空気を吸わせること——の三つだ。
「ユリ、外に出るのいつ以来?」
「えっと……ネロのアジトから出た時以来だから、十日くらい?」
「そんなになるか」
「山の中って、意外と飽きないんですよね。やること多いし、モグがいるし」
「それはよかった」
山道を下りる間、ユリは窓の外をずっと眺めていた。切り立った崖、深い谷、杉の木が連なる急勾配。「すご……」と何度も呟いていた。
「いつ来ても怖くならないか? この道」
「なりますよ! でも景色がきれいで、怖いより綺麗の方が勝ってます」
「いい感性ね」
一時間十分後、国道に出た。
そこから先は、前回とは別の街だった。
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最初の違和感は、国道に入った直後に来た。
渋滞している。
平日の午前中に、この道が渋滞することはほとんどない。それが、車がのろのろとしか進まない。
「どうしたんだろ」
「ネロに確認する」
私がスマホを開くと、ネロからすでにメッセージが来ていた。
『昨夜から県内複数か所で感染者の急増が報告されている。病院への搬送が集中しているため、幹線道路が混雑。スーパーの開店前から行列ができている場所もある』
「……前回より早く進んでる」
「何が?」
「外の崩壊が」
ゲンタがハンドルを握り直した。
三十分かけてようやく街に入ると、その異様さはすぐに目に飛び込んできた。
ドラッグストアの入り口に、開店前から列ができている。長い。二十人、三十人——端まで数えられないくらいの列が、歩道に沿って伸びていた。
「あんな列……」
ユリが窓に顔を近づけた。
「薬を買いに来てる人たち」
「全員が?」
「多分ね」
コンビニの前では、スーツを着た男性二人が何かで言い争っていた。声は聞こえないが、片方が片方の胸ぐらを掴もうとして、もう片方が払いのけている。
「けんかしてる」
「見ない方がいい」
私はそっとユリの視線を前に向けさせた。
交差点では、パトカーが一台停まっていた。前回より、明らかに警察車両の数が多い。
「怖い?」
隣の蒼が、ユリに向かって静かに聞いた。
「……少し」
「正直でいい」
「蒼は怖くないんですか?」
「こういう状況には慣れてる」
「前の仕事で?」
「ああ」
蒼がそれ以上は言わなかった。ユリも無理に聞かなかった。
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園芸店で苗と種を買い込み、試薬の専門店でシノのリストをこなし、ホームセンターで細々した備品を揃えた。どの店も、前回より棚の欠品が多かった。
「もう一軒だけ寄る。いい?」
「どこ?」
「本屋」
「本屋?」
「医学書と農業の教科書。崩壊後はネットが使えなくなる可能性がある。紙の本があった方がいい」
「なるほど」
大型書店に入ると、ユリが目を輝かせた。
「わあ……本屋って久しぶりです」
「好きなの選んでいい。実用書か、読み物か」
「いいんですか?」
「どうせカードで払う」
ユリが「やった!」と言って駆け出した。蒼が後を追いかけながら「走るな、人にぶつかる」とぼそりと言った。
私は医学書のコーナーで必要なものをカゴに入れながら、農業・植物学のコーナーへ移動した。
土壌改良、有機農業、薬草の育て方——モグがいれば大体なんとかなるが、知識として持っておいて損はない。
カゴを持ち上げた瞬間、視界の端に何かが引っかかった。
反射的に、その方向を見た。
レジから二列ほど離れた、雑誌コーナーの前。
男が立っていた。
背が高い。髪が伸びていて、少し乱れている。頬がこけていて、以前より随分と細くなった首筋。でも——その横顔は、見間違えようがなかった。
カイトだった。
前世で、私をパーティから切り捨てた男。
雑誌をぼんやりと眺めている。でも視線は動いていない。読んでいるのではなく、ただそこに立っているだけだ。目の下にクマがあった。頬の肉が落ちて、顎のラインが角ばっていた。
痩せた。顔色が悪い。
足元には買い物カゴが置いてあった。中に入っているのは、値引きシールを貼られたカップ麺が三つと、安売りの乾パン。服は安物のジャージで、袖口が薄汚れていた。
以前のあの人を知っている人間が見たら、別人かと思うだろう。
私は立ち止まって、黙って見た。
何も感じない——とは、正直に言えば違う。
何かは感じる。ただそれが、怒りでも悲しみでも懐かしさでもなかった。強いて言うなら、遠さだ。ガラスの向こうにいる知らない人を見るような、そういう感覚。
あの人が私を囮にして捨てた。
その事実は変わらない。でも今の私にとってそれは、もう「過去に起きた出来事」でしかなかった。
「マナさん」
隣にユリが来ていた。本を三冊抱えている。
「あの人、知り合いですか?」
ユリの視線が、カイトの方向に向いていた。私がじっと見ていたのに気づいたのだろう。
「昔ね」
私はカゴを持ち直して、カイトから視線を外した。
「もう関係ない人」
「……そうですか」
ユリが何かを察したように、それ以上は聞かなかった。
「本、選べた?」
「はい! 小説一冊と、料理本と、あと植物図鑑!」
「植物図鑑はモグが喜ぶね」
「そうなんです! 一緒に読もうと思って!」
私たちはそのままレジに向かった。
振り返らなかった。
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ブラックアークに荷物を積んで、帰路についた。
街を抜けるまでの間、ユリは窓の外を見ながら黙っていた。いつもの元気がない。
「どうした?」
「……さっきの人」
「カイト?」
「名前、知ってるんですね」ユリが私を見た。「大事な人でしたか?」
私は少し考えてから、正直に答えた。
「大事だと思ってた。昔は」
「今は?」
「今は何とも思わない。それが少し、不思議だけど」
「……悲しくないんですか?」
「悲しくない、とは違うかな」
私は窓の外を見た。街の灯りが遠くなっていく。
「昔、あの人に殺されかけたの。……いや、一度死んだようなものね。だから——もう終わった話なの。私の中では、とっくに」
ユリが少し黙った。
「そっか」
それだけだった。それ以上聞かなかった。
後部座席で蒼が無言でいた。聞こえていたはずだが、何も言わなかった。それがありがたかった。
山道に入ると、外の喧騒が遠くなる。舗装が途切れ、木が深くなり、街の音が消える。
一時間以上かけて山を上がる。
拠点の門が見えた時、私は静かに息をついた。
今日もただいまと思った。
モグが飛び跳ねて出迎えてくれた。ネロが荷物の確認に来た。シノが「試薬は?」と真っ先に聞いた。
「はい、シノ。頼まれてた試薬と、ついでに医学書も買ってきた」
「ありがとう。助かるわ」シノが本の背表紙を確認しながら、少し目を細めた。「……欲しかったやつが全部ある」
「ネロに事前リストを送ってもらってたから」
「気が利くわね」
「モグにはこれ。ユリが選んだ」
「植物図鑑! モグのために選んでくれたの!? うれしい!」
モグが本を大事そうに抱えた。
いつも通りだった。
夕食はユリが選んだ料理本を開いて、「これ作りたい!」と言い出したので、全員でリクエストに応えることにした。結果、ポトフとガーリックトーストという洋食の夕べになった。
「美味しい! 私が選んだ本のレシピだ!」
「美味しいわね」シノがパンを一口かじった。「選択眼があるじゃない」
「えへへ!」
蒼がガーリックトーストを二枚目に手を伸ばしていた。
ゲンタが「パンより米の方がいい」と言いながらも完食した。
私はポトフのスープを飲みながら、今日一日を思い返した。
カイトの横顔。痩せた頬。クマのある目。
何も感じない、とは言えない。でも、もうここに引きずり込まれることはない。
あの人の席は、ここにはない。
最初から、用意していない。
「マナさん、スープのおかわりどうぞ」
ユリがお玉を持って立っていた。
「ありがとう」
世界の崩壊まで、あと十三日。
今日も、私の楽園は温かかった。