軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第162話 化学と快適性という力 7歳 秋

低く垂れ込めた灰色の雲から、細かい粒の雨が霧のように秋のフィヨルドを包むように降り注ぐ。赤や黄色の葉は鮮やかに染まる一方で、雨に叩かれた海面は鈍い銀色へと表情を変えていく。

「雨かあ…」

家の大掃除をして虫を追い出すよ!と意気込んでいたのだけれど、雨が降っていては仕方ない。大掃除は雨天順延だ。

「今のうちに、素材を集めておこうかな」

昨日使った乾燥薬草に加えて、僕が集めたのは大量の木灰と消石灰。

弱アルカリ性の灰。すなわち化学の力である。

◯ ◯ ◯ ◯ ◯

翌日は秋らしく空気の澄んだ空に、高くちぎれ雲が浮かぶ爽やかな晴れ。

「それでは、これから冬の家から虫を完全に追い出す作戦を開始します。皆さんの努力を期待します」

家族と協力者と見学者を前に、僕は力強く宣言した。

今回の虫掃除作戦は、村民の健康に関わる公衆衛生の問題でもあるので、為政者としてシグリズ様にも関心が高いらしい。2人のお嬢さんも傍らに立っている。

おかげで、今日の掃除には侍女と郎党の人にも手伝いとして参加してもらえることになって嬉しい。

彼女らの目論見としては、それが有効な試みであれば手順を学んでおきたい、ということもあるだろうしね。

「最初に、家の敷物と寝具を運び出して。干してある食料は地面に直接置かずに敷物か寝具の上に置いて下さい。それから食料は影になる場所において…」

僕は手元の黒板に書いたチャートとチェックリストに基づいて作業の指示をする。

引っ越しと清掃は手順が命だからね。しっかり事前に考えてきたのだ。

人手が多いので、家財の運び出し作業はすぐに終わった。

もともと、にわか貴族の我が家は、食料品を除けば大した家財もないしね。

「掃除は上から下にが原則です。最初に屋根の埃を落として下さい」

先日の宿泊所掃除でも活躍した長い柄のついた箒で、屋根についてクモの巣や埃を落としていく。宿泊所と異なるのは、石炉から立ち昇った煙がタールの層となってこびりついていること。防虫や防水に役立っているのはわかるけれど、絶対健康には悪いよね…。早いところ冬の家にも煙突と暖炉をつけたい。

「蜘蛛は逃がしてあげてくださいね、外で払って!」

手伝ってくれている郎党の人に注意をする。屋内の虫を食べてもらわないといけないからね。

屋根の掃除が終わったら、化学の出番です。

「この塗料で、壁と柱を白く塗ってください」

「これは…?」

「宿泊所と同じ白い塗料、か?」

用意したのは、消石灰と水と少量の脂肪を混ぜた塗料である。

この弱アルカリ性の塗料は、細菌やカビの発生を防ぎ、虫や卵の生存を阻害する。

おまけに室内を明るくしてくれる。まさに一石二鳥の効果があるのだ。

「この白い塗料は、虫を殺します。道具は用意しましたので、柱と壁の塗装をお願いしますね」

用意しておいた木べらや動物の毛のブラシなどで、木の柱や泥の壁に白い塗料が塗られていくに従い、薄暗かった冬の家の内側がだんだんと明るく感じられるようになっていく。

「これは…美観を考えただけでも、なかなか良い試みですね。長屋敷の方でも検討しましょう」

「はい!とてもよろしいかと思います!」

屋内を覗き込んだシグリズ様も、家屋を白く塗りたくなったようだ。

お洒落でおまけに防虫効果も期待できるわけだからね。

塗料が余ったので、ついでに屋外の壁も白く塗ってもらうと、重厚な印象の冬の家が、すっかり瀟洒な印象へと様変わりした。

「わあっ!すっごくいいわね!」

エリン姉も冬の家のビフォアアフターにすっかりご満悦だ。

でもね、家内の虫退治はここからが本番なんだ。

「シグリズ様。これで虫が発生する闇をなくすことができました。これから、虫が発生する土をなくします」

この時代、虫はトロルの呪で闇と土から生まれてくる、と信じられている。

その理論に則って虫の対策をすれば、普及も早いはずだ。

用意された道具はスパージ。ヴァイキングのシャベルである。

「床の土の表面を削って外に捨ててください。特に家畜の区画はしっかり削って!」

ヴァイキングは土間暮らし。屋内の土の表層には虫や虫の卵が大量に存在する。

悪い土は削って外に捨ててしまうのが良い。

捨てた土は家畜の糞と混ぜて堆肥にする際の発酵熱で蒸し殺してしまう。

「ここで家の中を燻蒸します。エリン姉、ベーグルが家の中にいないか確認してね。ムニ!家の中に入ったらダメだよ」

「むに!」

今日は初回燻蒸なので、毒性強めのタンジーやヨモギなどの薬草を砕いたものも、たっぷり使います。家全体をサウナにする勢いで、火事にだけは気をつけて白樺の皮やジュニパーの枝と一緒に、モクモクと白煙が上がるようにする。

「除虫菊、輸入したいなあ…」

虫を遠ざけるのでなく、できれば殺しきりたい。

北方21星の大結束の貿易ネットワークで手に入らないものだろうか。

ここで、しばらく休憩する。手順通りである。

車座になって、草原に敷かれた毛皮に座り、三脚炉で調理されたスープをもらう。

「本当に徹底的に掃除をするのですね」

「そうですね。なにしろ長年の澱が貯まっているものですから」

暮らしがカツカツで、略奪なしでは飢える寸前の生活をしていては。家屋の掃除に割く労力も捻出できないからね。

ようやく生活の快適性を追求できるだけの基盤が整ってきたのだ。

「こらっ!ベーグル!大人しくしなさい」

エリン姉が家から逃げ出したベーグルを捕まえて、鯨の髭から削り出した櫛で長い毛を梳いている。最初は抵抗していたベーグルも、段々と気持ちよくなってきたのか、ひっくり返って腹を見せだした。

「ふぎん!ふぎん!」

「はいはい。わかってるよ」

ムニがうるさいので、海鳥の羽をまとめたブラシでムニの羽を梳いてやる。

食生活が豊かすぎるためか、だいぶ丸い。冬毛が生えたら、もっと丸くなるだろう。

こいつは北方の野生では生きていけないな…。

「むに?」

◯ ◯ ◯ ◯ ◯

「冬に家屋の中にいれる前に、家畜の毛をよく梳いて虫を取り除きます。最初に木灰をかけます。貝殻粉と同じく、虫を殺すためです。牛や馬の皮膚は分厚いのと毛が密生しているので影響はありません」

今は秋なので、一頭だけ牛を連れてきて父ちゃんに牛の毛梳きと木灰を用いた殺虫の作業を実演してもらう。

最初に粗い目の櫛で毛を梳いて整えてから、目の細かい櫛で木灰と一緒に毛についたノミ・ダニ・シラミを取り除いていく。

「ほら。見て下さい。こんなに虫がいます。木灰で死んでますね」

「うわあ…」

「ええっ…!」

「いやっ!」

目の細かい櫛で牛の毛を梳くと、細かいゴマのような黒い物体が山ほどとれる。

これらは全て虫なのである…。見てるだけで痒くなりそう。

木灰のアルカリでやられたのか、跳ねる個体は少ない。

「と、まあ。虫は家畜の毛にびっしりとついています。冬の家に家畜を入れる前には、しっかりと木灰をかけて毛を梳いてやらないといけません。夏であれば、海水で洗って川で洗い流すのもいいんですけどね」

虫は海水に弱いので海水で洗えたら楽なのだけれど、北方では冬に海水を沸かす燃料代が高くつくからね。標準的な清掃手順にはならないだろう。

「…そろそろ、家の燻蒸も終わりましたかね。扉と窓を開けて空気を入れ替えます」

扉と窓を開け放つと、フィヨルドを吹き渡る西からの爽やかな風が、屋内に立ちこめた白煙を吹き飛ばしていく。

「うわぁ…やっぱり」

屋内に足を踏み入れると、点々と黒い虫が落ちていた。

煙で逃げた虫も多いのだろうけれど、逃げ遅れて死んだ虫も少なくない。

「まずは死んだ虫を掃き出して。それから、床に消石灰と木杯と砕いだ薬草を軽く撒きます」

ここでも消石灰と木杯の弱アルカリ性が役に立つ。

床に撒いて虫と虫の卵を物理的に殺す層を作るのだ。

「虫や埃が溜まりやすい家の隅。それと家畜区画の排水口は特に念入りにお願いします」

家畜エリアにはし尿を排出するための排水口があるのだけれど、そこは特に虫が繁殖しやすい場所なのだよね。たっぷりと消石灰と木杯を撒いて殺虫します。

「寝台の周りに浅く溝を掘って消石灰の線を作りますね」

床から寝台に虫が登ってこないよう物理的な堰を作るのだ。

「あとは藁を新しい藁を運びいれます」

北方の家屋では、寝台や床、家畜の寝床に至るまであらゆる場所に藁を使う。

藁を新しいものに入れ替えることで、虫の繁殖も防ぐ。

「これで家の掃除は終わります!家具や食料を元に戻して、僕達もサウナに入り綺麗になりましょうか」

今日はサウナの日じゃないけれど、大掃除ですっかり汚くなったしサウナで身体を綺麗にしたい。あと服も燻蒸したいからね。

「よ、ようやく終わりか…」

「すっごい大変ねえ…」

「少し大げさな気もしますが…手順はわかりました」

虫殺しの大掃除参加者たちも、1日の作業で疲労困憊のようで。

これを1月に1回はやりたい、と言ったらどんな反応をするだろうか。

実際、最初はそれぐらい頻繁にやらないと効果が出ないと思うんだよね。

◯ ◯ ◯ ◯ ◯

そして翌日のこと。

「トール!すっごい!ほんっとに虫が一匹も出なかったの!すごい!」

「調理中に虫が飛んでこなかったのなんて初めてよ。虫にも全然刺されなかったわ…」

母ちゃんとエリン姉は、虫がいない生活の快適さを体験して、先日の不平はどこへやら。すっかり手のひらを返していた。

「すごいわよ!毎月、やりましょう!」

「おいおい…」

「父さんも必ず手伝ってね!」

と、我が家では女性陣の主導で毎月の大掃除が決定事項となった。

いや実際、虫のいない暮らしの快適性はすごいよ。

これを味わってしまったら元に戻れないのはわかる。

◯ ◯ ◯ ◯ ◯

数日後、秋の晴れた日に村長婦人の主導で長屋敷の方の大掃除と家屋の塗装作業が行われた。

僕の家と異なり、家財や食料品の備蓄も多いので運び出す作業が大変そうだったけれど、郎党の男手も多いので労働力には困らなかったみたい。

「あれ、何をやっているんだ?」

「家を白く塗っているな。なにかの魔術か?」

「虫を除ける魔術ですって」

長屋敷の大掃除に、村の人達が野次馬に来ていた。

貴重品も多いので手伝いは断られ見学に回っているのは、大掃除の手順の普及という観点からは望ましいことなのだけれど。

「…魔術じゃないよ。化学だよ」

僕のつぶやきは誰にも届いたりはしないのだった。

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そして翌日のこと。

いつものように長屋敷を訪ねた僕は、興奮した様子の高貴な女性達に囲まれた。

「トール。まったく虫が出ませんでした!」

「あの塗料、すごいですよ!魔術ですか?魔術ですね!」

「毎月、いえ毎週掃除をやりましょう!」

長屋敷の住人である、シグリズ様と2人のお嬢さんたちも、見事なぐらい手のひらを返していたのだった。

人は虫がいない生活という快適性には逆らえない。

この光景、どこかで見た気がするな…。

こうして我が村では、1ヶ月に1回の虫殺しの大掃除が推奨されるようになり、手順の普及に伴って衛生環境は大いに改善されることになる。

合わせて赤ん坊の乳幼児生存率も大きく改善されることになるのだけれど、しばらく後に行われる人口統計の実施まで実数については明らかにならなかった。