作品タイトル不明
最終話:「旅人の極意」
三月。春が来た。
大学四年の最後の日。冬夜は自室の窓を開けた。暖かい風が入ってきた。桜の蕾が膨らんでいるのが、ベランダから見えた。
机の上にVRヘルメットがある。その横に、宮瀬がくれたレモングラスの鉢植え。スマホにはBCO Companionアプリが入っていて、画面の隅でセレスが眠っている。角が微かに光っている。寝ていても、月光は消えない。
この一年間を思い返した。
去年の春に、BCOの累計プレイ時間が一万時間を超えた。その頃はまだ影と夜の章の途中で、宵闇の回廊を歩いていた。暗闇の中でセレスの月光を頼りに進んで、宵と出会って、月影という新しい属性を見つけた。
夏に影と夜の章が終わって、秋に灯火の章が始まった。世界の糸がほつれて、仲間が集まって、世界の外側に踏み出した。アルキスと出会って、戦って、最後にアルキスが四歩だけ歩いた。
冬に宮瀬と温泉に行った。星を見た。マフラーを分けた。「知ってる」と「俺も同じだ」だけの、短い確認。
蓮の短編が文芸誌に載った。ミコトが大学に受かった。ハルが進路を決めた。全員が歩いている。ゲームの中でも、外でも。
来週には卒業式がある。四月からは社会人だ。冬夜はソフトウェア会社で仮想空間の設計に携わる。宮瀬は調剤薬局で、現実の薬を人に渡す。生活は変わる。だが、夜になればログインして歩ける。
冬夜はヘルメットを手に取った。
最後に一度だけ、歩いておきたい場所があった。
◇
ログイン。リベルタの宿屋。いつものベッドの上。
「セレス」
「トワ。きょうは、どこいく?」
「少しだけ、歩いてくる。一人で」
「ひとり? セレス、いかない?」
「セレスも来る。一人というのは、仲間を呼ばずに、という意味だ」
「じゃあ、セレスは、いく」
「ああ、行こう」
リベルタの門を出た。
春の草原。緑が鮮やかだった。糸のほつれが消えた世界は、以前より色が濃くなった気がする。灯歩の光が世界の糸を修復し続けているからかもしれない。
金色の足跡を残しながら歩いた。
霧底の森に向かった。最初にセレスと出会った場所。森の入口の苔むした岩の上に座った。
「ここ」セレスが角を傾けた。「セレスが、トワに、あった、ばしょ」
「ああ……セレスがまだ小さくて、角も光らなかった頃だ」
「トワが、セレスのなまえ、よんでくれた」
「セレスという名前はしっくりきた。意味は月の光だと思って、本当は違ったけどな」
「ちがっても、セレスのなまえ」
「……そうだな」
森を抜けて、銀月の草原に出た。崖の上から見下ろすと、遥か下に広がる景色が見えた。初めてこの崖に立った時のことを覚えている。まだLv1で、装備もなくて、見聞録の使い方もよく分かっていなかった。
聖都ルクスの方角を見た。ソルシアの方角を見た。新大陸の方角を見た。全部、歩いた場所。全部、足跡を残した場所。
見聞録を開いた。
【踏破率:100%】
100%になった。なのに、まだ歩いている。
リベルタに戻った。
中央広場の噴水の前に立った。
ここが始まりの場所だった。初めてBCOにログインした日、宿屋を出て最初に見たのが、この噴水だった。水の音が好きだった。それだけの理由で、三分間立ち止まった。アルキスが不思議がった三分間。
噴水の水音を聞いた。変わっていなかった。初めて聞いた時と、同じ音。
「トワ」
セレスが角を光らせた。銀色の月光が噴水の水に映っていた。
「なに、してるの」
「噴水の音を聞いていた」
「なんで?」
「好きだからだ」
「すきだから」
「最初にここに来た時から、この音が好きだった。理由はない。ただ好きだった。それが、旅の最初の一歩だった」
セレスが角をトワの頬にちょんと当てた。月光が温かかった。
「トワ。セレス、きいていい?」
「何だ?」
「たびびとのごくい、って、なに?」
旅人の極意。
トワのクラスの名前に含まれた言葉。BCOの旅人クラスを極めた先にあるもの。一万時間歩いて、灯歩の光を灯して、アルキスを止めて、世界を救って。それでも旅人のままでいるトワの、Lv1の旅人の極意。
「分からない」
「わかんない?」
「分からない。だが、たぶん……これだと思う」
「これ?」
トワが噴水の前から一歩を踏み出した。金色の足跡が石畳に残った。
「歩くことだ。歩き続けることだ。目的があってもなくても、敵がいてもいなくても、仲間がいてもいなくても、ただ歩く。歩いた先で見つけたものを覚えている。覚えていることが、灯火になる。それが、『旅人の極意』だ」
「あるくこと……」
「ああ、シンプルだろう」
「しんぷる。でも、トワはそれを、いちまんじかん、やった」
「やった。そして、まだやる」
セレスが角を高く掲げた。銀色の月光がリベルタの広場を照らした。NPCが顔を上げた。通りかかったプレイヤーが足を止めた。
「セレスも、やる。トワと、いっしょに、あるく。ずっと」
「ああ、ずっとだ」
リベルタの門に向かって歩き出した。門の向こうに、春の草原が広がっている。どこまでも続く緑の道。
行き先は決めていない。決めなくていい。歩いた先に、何かがある。何もなくても、歩いた道が残る。足跡が、光になる。
旅人の極意とは、歩くことなのだから。
◇
冬夜がVRヘルメットを外した。
部屋に春の風が吹き込んでいた。窓の外の桜の蕾が、もう少しで開きそうだった。
スマホの画面で、セレスが目を覚ました。
「トワ。おはよ」
「おはよう、セレス」
「そと、はるだね」
「ああ、春だ」
「こっちでも、あるく?」
「こっちでも、歩こう。セレスと、ルーナと、テンと、一緒に」
「タマキは?」
「もちろん、歩くさ。社会人になっても、ずっとな」
「うん、セレスも、ずっと」
「ああ……行こう」
冬夜は窓の外を見た。春の空。薄い雲。暖かい風。
現実にも、ゲームにも、春が来ていた。
明日もログインする。明日も歩く。明日も、仲間たちと一緒に。
旅は、続く。
【ブレイブ・クロニクル・オンライン ── 完 ──】