軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

「良い旅を」

戦いの翌日。

花の台地は穏やかだった。昨日の騒ぎが嘘みたいに、天蓋のひびはメブキの蔦で塞がれていて、虹色の光がまたゆっくり降り注いでいる。

プレイヤーたちは大半がログアウトしていた。深夜まで戦ったから当然だ。レクトと〈白霧の進軍〉のメンバーだけが残っていて、広場の片付けをしている。レクトは片付けの合間に壁で根釣りをしていた。この男はいつでも釣っている。

花畑の端に、ボウケンがいた。

隣にガンロがいる。杖を並べて、二人とも黙って花畑を見ている。

トワは二人から少し離れた場所で座っていた。

セレスが膝の上で寝ている。メブキがセレスのお腹の上で寝ている。二段寝だ。

ボウケンが振り向いた。

「三人目の旅人……少し話せるか」

「ああ」

「昨日のことだが。あの目——『原初の観測者』について、お前はどう思っている」

「どう思っている、とは?」

「あれが何なのか……なぜわたしを取り込んだのか。わたし自身にも、よくわからない」

トワは少し考えた。

「【片鱗モード】であいつの内側を見た。……本来、どのモンスターにも共通して存在する弱点、【核】がなかった。弱点がない……つまり、倒せる相手じゃなかった」

「ああ……あれは生き物ではない。何と言ったらいいか……あえてたとえるのなら、『世界の構造』。わたしが何千年も見続けている間に……少しだけ、わかったことがある」

「なんだ、聞かせてくれ」

ボウケンが杖を膝の上に置いた。

「この世界は、誰かが見ていなければ確定しない。……草の一本も、石の一つも、見られて初めてそこにあることが決まる。その『見る機能』が形を持ったものが、『原初の観測者』だ」

「世界を存在させるための観測装置……ということか」

「そうだ。だから、あれ自体に悪意はない。世界が存在するために必要な機能だ。わたしを取り込んだのも、より精度の高い『観測端末』が欲しかっただけだろう。わたしの『見る力』は、あれにとって相性が良すぎた」

「名前のない旅人が、『見る力』を使い続けると取り込まれる……名前があれば取り込まれない」

「そうだ。名前がある存在は、見られなくても存在が確定している。観測の必要がない。だから、『原初の観測者』にとって、名前のある存在は対象外だ。わたしには名前がなかった。だから——格好の端末だった」

ガンロがそっと口を挟んだ。

「わたしにも名前がなかった。もし先に穴に降りていたのがわたしだったら、わたしがあの目に取り込まれていたかもしれない」

「お前は降りなかった……待っていた。だから、取り込まれなかった」

「待っていたんじゃない。ただ、何もしなかっただけだ」

「何もしないことが、お前を守ったんだ。……そしていま、こうして二人でいる」

「ああ……待っていて、本当に良かった」

二人の老人が、同じ顔でくしゃっと笑った。

「一つだけ、聞いておきたいことがあるんだが」

トワが話を切り出した。

「何だ?」

「俺の見聞録は……一人目の旅人、あんたの力の断片だ。俺があんたと同じように見聞録を使い続けたら——俺も同じことになるのか」

ボウケンが金色の瞳でトワを見た。

「なる」

はっきりと答えた。

「見聞録はわたしの力の欠片だ。使い続ければ、力が育つ。力が育てば、原初の観測者に近づく。名前のない状態で使い続ければ、いずれお前も取り込まれる」

「名前がない状態、か。俺の『トワ』はプレイヤーネームだ。命名された名前じゃない」

「ああ……この世界の住人の名前は、名前のようで名前ではない。自分が自分につけた名前は、この世界では力を持たない。誰かにつけてもらった名前だけが、存在を固定する」

トワは誰にも名前をつけてもらっていない。

名前をつける側であって、つけてもらう側ではない。ボウケンと同じだ。

「でも——お前には、仲間がいる」

ボウケンがセレスを見た。今もトワの膝の上で寝ている、小さな精霊。

「わたしには、仲間がいなかった。一人で見続けた、だから取り込まれた。お前には仲間がいる……仲間がいれば、一人で見る必要がない。そしていつか——誰かが、お前に名前をつけてくれるだろう」

「誰かが、俺に名前を……?」

「名前をつける者には、名前をつけてくれる者が必要だ。わたしにはいなかった。お前にはいるはずだ」

セレスがトワの膝の上で寝返りを打った。

「……トワ……おさかな……もういっぴき……」

寝言だ。たぶん、というか絶対に魚の夢を見ている。

ボウケンが微笑んだ。

「いい精霊だ。この子がお前を守っている。わたしの時代には、精霊は生まれたばかりで小さかった……今は、こんなに育ったんだな」

「こいつは俺を守ってるつもりはないと思う。ただ肩に乗って、飯を食べて、寝てるだけだぞ」

「それが守りだ。傍にいること自体がな」

タマキが花の台地に来た。

「ボウケンさん、ガンロさん。身体の調子はどうですか」

「問題ない。名前をもらったおかげで安定している」巌路が答えた。

「ボウケンさんは? 何千年も目だったんですから、身体に違和感があるんじゃ」

「ああ……足がある、ということに違和感がある。手がある、ということに違和感がある。何千年も目だけだったから、身体の全てが新鮮だ」

「新鮮……。回復薬を置いておきますね、何かあったら飲んでください」

「ありがとう……薬師は親切だな。千年前の薬師は、わたしに薬をくれたことがなかった」

「千年前の薬師?」

「ナギのことだ。あの子はわたしの薬は作らなかった。わたしが薬を飲まないと知っていたから」

「ボウケンさん、薬を飲まないんですか」

「飲まなかった。見ることに集中していると、飲食を忘れる」

「それはダメです。今日からちゃんと飲んでください」

「薬師の処方か」

「処方です」

タマキが有無を言わさず薬瓶をボウケンの手に握らせた。

ボウケンが困った顔をしている。ガンロが隣で笑っている。

「お前も飲まされるぞ、ガンロ」

「はっはっは、わたしは薬を飲むぞ。健康は大事だからな」

「面白いな、ガンロ。ずっと裸足で歩いてきて、いまさら健康を語るのか」

「知らないのか? 裸足は健康にいいんだぞ?」

「それには、なんの根拠もないだろう」

「いまこうしているのが、何よりの根拠だ」

二人が話していると、新たな人影が。

ヒトミだ。

「久しぶりだな、一人目の旅人」

「ヒトミ。……大きくなったな」

「大きくなっていない。あなたの目が小さくなっただけだ」

「目が小さくなった、か。確かに、人間サイズの目になった。不便だな、二つしか見えない」

「二つで十分だ。わたしは四つあるが、二つの方がいいこともある」

「何がいいんだ?」

「見えすぎないことだ。見えすぎると、大事なものを見落とす。あなたがそうだったように」

ボウケンが少しだけ沈黙した。

「……そうだな。全部見えていたのに、隣にいた者の顔を忘れた。見えすぎて、見えなくなっていた」

「今は、見えるか?」

ボウケンがガンロを見た。

「見える。やっと見える」

「なら、もう十分だ」

ヒトミは安心したように四つの目を細くした。

ログアウト前。

ボウケンがトワのところに来た。

「三人目の旅人。一つだけ忠告しておく」

「何だ?」

「『原初の観測者』は、退いただけだ。消えていない、世界の底にいる。いつか——また来る」

「ああ、それはわかっている」

「お前の見聞録は、あれへの入口でもある。使えば使うほど、繋がりが強くなる。……気をつけろ」

「やめろとは言わないのか」

「言わない。見聞録はお前の旅だ。やめろとは言えない。……わたしもやめられなかった。やめろと言われても無駄だ」

「じゃあ、何を気をつければいい?」

「一人で見るな……誰かと一緒に見ろ。一人で見ると、わたしのようになる。誰かと一緒なら——ならないかもしれない」

「一人で見るな、か。ガンロの忠告と同じだな。一人で行くな、と」

「同じことだ。ガンロはいつも正しい……わたしが聞かなかっただけだ」

ボウケンが杖を突いて立ち上がった。

そして立ち去ろうとしたところで、

「三人目の旅人……最後に一言だけ、いいか」

「一言じゃなくても構わないぞ」

「今回もまた、良い旅だったか?」

トワはグランからかけられてきた言葉を思い出した。

良い旅を。

トワの口角は自然と緩くなった。

「ああ、良い旅だった」

「そうか……では明日もまた、良い旅を」

「ボウケンも、良い旅を」

老人は満足げな笑みを見せてから、トワの前から去って行った。

トワはセレスを肩に乗せて、メブキを肩の反対側に乗せた。

「トワ。もう、かえるの?」

帰るとはこの世界のことじゃなく、現実世界のことだろう。

「ああ、そろそろ今日は帰る」

「あしたも、くる?」

「来る。約束する」

「やくそく。――じゃあ、またあした」

「ああ、また明日」

ログアウトした。

スマホが鳴った。宮瀬からだ。

「久坂くん。原初の世界編、ようやく終わったね」

「ああ……これで、全てのメインクエストが終わったはずだ」

「ボウケンさんとガンロさん、どんな人だった? 名前つけた後は」

「二人とも老人だ。ずっと言い合ってたぞ。何千年ぶりに会ったのに、昨日まで一緒にいたみたいに」

「それって……いい関係ですね」

「そうだな……いい関係だと思う」

「久坂くん。ボウケンさんが言ってたこと……見聞録を使い続けるとトワさんも同じことになるって話。大丈夫なのかな」

「大丈夫だ。俺は一人じゃない」

「……うん。一人じゃないね」

「宮瀬がいるからな。俺の隣の……その、ポーション係が」

あえてパートナーと言わない冬夜に、宮瀬はふふっと笑う。

「ポーション係って言い方、やめてよ」

「じゃあ、薬師でいいか」

「薬師もなんか、業務的だよ」

「じゃあ……宮瀬」

「うん。それでいい」

少し黙った。

「そろそろ、また一緒にお出かけしたいね」

「俺もちょうどそう思っていた」

「春の季節だし……あと、レイドバトルも終わったから、またみんなで打ち上げもしたいね」

「どうせその内、蓮から連絡が来るだろう。……あいつ、オフ会だけはやたら積極的だからな」

「いいじゃん、幼なじみなんでしょ? 蓮くんなりに、気に掛けてくれてるんだよ、きっと」

「そういうものか」

「うん、そういうもの」

「分かった。それじゃあ……また明日」

「おやすみ、久坂くん」

「おやすみ、宮瀬」

電話を切った。

窓の外には星が見えている。

原初の観測者は退いただけだ。消えていない。

だが、今日はそのことを考えない。今日は——旅人が帰ってきた日だ。

二人の旅人に名前をつけた。望見と巌路。遥かを見る者と、揺るがぬ道。

原初の世界で名前をつけた全ての存在が、今日も世界を支えている。見られていなくても、名前がある限り。

今回も……いい旅だった。