軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

《覚えていない》

グランが前に出た。

杖をついて裸足で、花の床を踏みながら、一歩ずつ。

巨大な目がグランを見た。

「お前は……確か……」

「ああ、そうだ。わたしだよ……一人目の旅人」

凪のように穏やかな、グランの声。

「わたしだ。一緒に歩いただろう。原初の世界を。草原を、湖のほとりを、星の高台を。二人で歩いたことを、覚えているか」

目は、グランに何も答えなかった。

グランは続けた。

「裸足で歩いただろう。わたしが場所を作って、お前が名前をつけた。二人でちょうどよかった。そう言ったのはお前だろう」

目は、何も映していなかった。グランの姿を映しているはずなのに、認識していない。見えているのに、見ていない。

「分岐点のベンチで待っていた。お前が右の道に行った後、左のベンチに座って待った、何千年も。苔が石を守ってくれた。お前が刻んだ言葉を」

「……何のことだ」

「帰ってくる、と言っただろう。必ず帰ってくる、と。穴の縁にも刻んだ。二回言った。念押しだと——」

「知らない、そんなものは」

それが、目の答えだった。意図的に突き放したのではなく、空っぽだった。覚えていない、という言葉に感情がない。忘れたことに対する罪悪感もなかった。忘れたことすら、記憶にないのだろう。

「お前の顔を知らない。お前の声を知らない。お前の名前を知らない。わたしの目には——何も映っていない」

グランの杖をつく手が震えた。膝が折れかけた。でも、倒れなかった。

「覚えて……いないのか」

「いない。見ることに集中していたら、見えないものは全て消えた。触れた記憶。感じた記憶。一緒に歩いた記憶。全部——見る力に変えた」

「変えた……?」

「見る力は、無限ではない。どこかから力を持ってくる必要がある。わたしは——自分の記憶を燃料にした。見ることと引き換えに、感じたこと全てを手放した」

見る力の代償。記憶を燃料にしていた。一緒に歩いた記憶も、笑い合った記憶も、分岐点のベンチで交わした約束も、全部——見る力に変換して、使い切った。

「わたしと歩いたことの記憶も?」

「全て。最初に消えたのは記憶だった。記憶が消えると、顔が消えた。顔が消えると、声が消えた。声が消えると、一緒に歩いた道が消えた。最後に——何か言いようのない違和感だけが、残っていた。でも、それが何だったのか——誰だったのかは、もうわからない」

グランの目から涙がこぼれた。

何千年も待った。何千年も信じた。帰ってくると、覚えていてくれると。

覚えて……いなかった。

でも、グランは顔を上げた。

「忘れてもいい」

「何……?」

「忘れてもいい。お前が覚えていなくても、わたしは覚えている。最初に出会った日。一緒に歩いた草原。お前が名前をつけた生き物たち。分岐点のベンチ。穴の縁の約束。セレスが生まれた日にお前が泣いて笑ったこと。全部。何千年分の全部を、わたしは覚えている」

目が応えなくとも、グランは言葉を続けた。

「だから、忘れてもいい。お前が覚えていなくても、わたしが代わりに覚えている。それでいい」

「……何を言っている。お前はわたしの目に映らない。わたしの記憶にもない。お前は——わたしにとって存在しない者だ」

「存在しなくてもいい。ここにいるから」

グランが杖を地面に突いた。

「何千年も待って、やっと会えて、覚えてもらえなかった。それが今の現実だ。でも——だから諦めるのかと聞かれたら、答えは決まっている」

「……」

「諦めない。わたしはお前を連れて帰る。覚えていなくても。忘れられていても。お前がわたしを知らなくても——わたしはお前を知っているんだ」

グランが目を見た。まっすぐ、涙を流しながら。

「お前の目に映らなくてもいい。わたしの足は、お前のところまで歩いてきた。裸足で、何千年の距離を。——目に見えないものを、足で証明する。それがわたしの旅だ」

見ることしかできない目が、一瞬だけ見るのをやめた。

グランの言葉が何かに触れたのか。忘れたはずの記憶の残骸に。消えたはずの感情の欠片に。

でも、目はすぐに開いた。まだ、見ることをやめない。まだ足りない。

「……面白いことを言う。だがわたしは帰らない。見ることをやめる理由がない。お前のことを思い出す理由も——ない」

グランが杖を地面に置いた。

両手を広げて、目に向かって歩いていく。

「グラン。何をするつもりだ」トワが声をかけた。

「この世界を守る。あの人が見るのをやめた時に、世界が壊れないように。——わたしの力を、全部ここに置いていく」

「全部——」

「場所を守る力。わたしが持っているもの全てをこの『世界の根』に注いで、根を支える。あの人の力の代わりに。あの人が帰れるように」

「そんなことをしたら——」

「わたしが消える。……ああ、わかっているさ」

グランの身体から光が溢れ始めた。草の波紋の力。場所を守る力。何千年もかけて蓄積した、二人目の旅人の全て。

光が根に流れ込んでいく。根が光った。床が光った。壁が光った。『世界の根』全体にグランの力が染み込んでいく。

グランの手が透け始めた。

「グラン!」

「大丈夫だ、トワ。……これでいい、あの人が帰ってこられるなら——」

時間が経つにつれて、グランの身体が薄くなっていく。

「やめろ、グラン! このままじゃ消えるぞ!」

「消えていい。あの人が帰ってこれるのなら——」

「だめ、よくない!」

セレスがトワの肩から飛び降りて、グランの透けかけた手を掴んだ。

「よくない! グランがきえるのは、よくない! セレスがうまれたとき、わらってくれたひとがきえるのは、ぜったいによくない!」

メブキもグランに飛びついた。

ルーナが影を伸ばしてグランの足元を支えた。

でも——止まらない。グランの力が『世界の根に』流れ続けている。止められない。自分の意志で流している。止める気がない。

世界の根が——震え始めた。

グランの力が大きすぎる。根が受け止めきれない。

七本の柱が揺れた。天蓋の虹色の膜がびりびり震えた。

花の台地にいるプレイヤーたちが叫び声を上げている。地面が揺れている。

原初の世界の地上でも地震が起きている。草原が波打っている。鏡の湖の水面が割れている。大きい木が揺れている。

【警告:世界の根の安定性が急速に低下しています】

【全プレイヤーに通知:世界の構造に異常が発生しています】

BCO全体に、全プレイヤーに通知が飛んだ。

トワはグランを見た。透けていく身体。流れ出す力。止まらない。

止めなければ。

グランが消える前に。世界が壊れる前に。

『名前』を――つけなければ。