軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

潜る日

ログアウトしたら、夜だった。

窓の外に星。原初の世界の星の湖を思い出す——のも、もう何度目かわからない。

スマホが鳴った。宮瀬からだ。

「久坂くん」

「ああ」

「明日、行くんだよね。――世界の根」

「ああ、封印が全部解けた。ようやく行ける」

電話の向こうで、宮瀬が少し押し黙った。

「怖い?」

「怖くはない。深淵の方が、よっぽど怖かったからな」

「そっか。……わたしは、ちょっと怖い」

「何がだ?」

「見聞録が、一人目の旅人の力だったって話があったよね。トワの——久坂くんの一番の武器が、あの人の遺産だった。世界の根で会ったら、見聞録がどうなるかわからない。暴走するかもしれないし、取り上げられるかもしれない」

宮瀬の声は落ち着いていた。タマキの時と同じ声で、でも少しだけ違う。

「大丈夫だ。見聞録がなくなっても、俺は歩ける」

「……え?」

「風向きで方角を知るのも、星で時間を計るのも。全部、俺の身体が覚えてる。それに何より――俺には共に歩んでくれる人がいるからな」

「……そっか」

宮瀬の声は、小さくとも満足げだった。

冬夜の『共に歩んでくれる人』というのが、誰のことなのかは、明らかだ。

だから、見聞録がなくても大丈夫。安心して、歩いて行ける。

「でもね、これだけ歩き続けられるのは、やっぱり久坂くんだけだよ」

「タマキもできるさ。薬師の五感で分析してただろう。あれは見聞録じゃない、宮瀬自身の力だ」

「……ありがと。そう言ってもらえると、ちょっと安心する」

「安心しなくていい。緊張してた方が、いい薬が作れるだろう」

「何、その理屈?」

「薬師が言ってた。集中力の高い方が、調合の精度が上がる……と」

「それ、わたしが言ったやつじゃん」

「いいことを言うな、と思って覚えていたんだ」

「ふふっ……でも、ありがとう。ちゃんと、覚えていてくれて」

宮瀬はすっかり安心したように笑った。

「久坂くんって、たまにそういうこと言うよね」

「そういうこととは……どういうことだ?」

「褒めてるのか、口説いてるのかわかんないやつ」

「褒めてるつもりだぞ、俺は」

「えー。口説いてほしかったな、ちょっと」

「……おやすみ」

「あー! 逃げた!」

「逃げたわけじゃない、そろそろ時間も時間だろう」

「まあでも……それはそうだけど……」

「今度また、二人でどこか良い景色を見に行こう。ゲーム内じゃなく、現実の世界で」

「久坂くん、それって――」

宮瀬はあえて、その続きを口にしなかった。

珍しくも、あの冬夜からデートを誘ってくれたんだ。

宮瀬の口角がつり上がるのも、自然なことだった。

「……おやすみ、久坂くん。明日、がんばろうね」

「ああ……がんばろう」

電話を切った。

カップ麺を食べて、歯を磨いて、布団に入った。明日はBCOの中で、世界の底に潜る。洗濯物を干して、コンビニに行って、VRヘルメットを被る。

それだけのことなのに、今日は少しだけ、心臓が速い。

午前十時――ログイン。

原初の世界……分岐点の右の道、穴の前。

グランがもういた。

裸足で穴の縁に立っている。

「グラン、今日は早いな」

「眠れなかったんだ。何千年も待ったのに……最後の一晩が、一番長かった」

タマキがいる。鞄を背負って、薬瓶をガシャガシャ鳴らしている。姿固定薬の改良版、写空の戦薬、原初の息吹、アルヴァの薬瓶——全部入っているんだろう。

セレスが肩にいる。角がいつもより明るく光っている。全記憶が覚醒しているから。

ルーナが影にいる。影が深い、力を溜めているのがわかる。

テンがブーツの上でぽわっと光っている。一回。準備完了の光。

穴の周囲に——プレイヤーたちが集まっていた。五百人以上。フォーラムで、「今日トワが世界の根に行くらしい」という情報が回ったのだろう。

「トワさん! 行くんですか今日!」

「行く」

「お気をつけて!」

「絶対に、帰ってきてください!」

「足跡残してくださいね! 帰り道がわかるように!」

足跡……そうだ。星巡りの靴の光の足跡は消えない。穴の中にも残れば、帰り道になる。

レクトが前に出てきた。

「トワさん。俺たちはここで待ってますよ! もしも……もしも、何かあったら——!」

「何もない。行って、帰ってくる」

「……はい。待って、ます……」

ちょっと不憫だが、レクトはしょんぼりと肩を落としていた。

トワ、タマキ、グランの三人が、穴の縁に立った。

セレスが肩の上から穴を覗き込んだ。

「トワ、ここ、くらい」

「暗いな」

「でも——したに、ひかりがみえる。ずっとしたに」

「一人目の旅人の光か」

「うん。ずっとひかってる。ずっと、ずっと、まえから」

グランが穴を見つめていた。何千年ぶりに、この穴を降りる。あの人が通った穴を。「帰ってくる」と言って降りていった穴を。今度は迎えに行く側として。

「行くか」

「ああ」

「行きましょう」

穴に降りた。

暗い……深い。封印の紋様が消えた内壁が、むき出しの岩になっている。足場を探しながら降りていく。星巡りの靴が、壁面に光の足跡を残していく。

グランの裸足が岩を踏むと、岩が微かに震える。振動が下に伝わっていく。

十メートル……二十メートル……五十メートル。

暗い。ルーナとセレスの光が、唯一の光源だ。

百メートル降りたところで——渡空魚が動いた。

穴の入口から、渡空魚が十八匹全員、降りてきた。

ぱたぱたと。穴の中を泳いで。

「お魚さんたちが——ついてきてる」

「穴の中まで、来ているのか?」

「はい! わたしたちに、付いてきてくれるみたいです」

渡空魚が十八匹、トワたちの周囲に円を作った。そして——光り始めた。

鱗が発光している……今まで見たことのない光り方だ。

銀色ではなく金色、一人目の旅人の色と同じ金色だ。

そして穴の中が、明るくなった。

渡空魚たちが金色に光って、穴の中を照らしている。ルーナの紫の光と合わさって、穴の壁が金と紫に染まっている。

「お魚さんが光ってますよ……金色に」

「名前の力だろう。命名したから、恩返しに来てくれたのかもしれない」

かつて、マルが言っていた。

たくさん集まると変わる――十八匹が集まって、変わった。光るようになった。

渡空魚が先導するように、下に泳いでいく。道を照らしながら。

「お魚さんが、案内してくれてます!」

「名前をつけた魚が道を照らす。……名前の力、というやつか」

セレスが肩の上から渡空魚を見ていた。

「おさかなきし、ほんとうにつよかった」

「強いというのか、あれは?」

「つよい。だって、くらいところを、てらしてくれる。それ、とてもつよい」

「……そうだな。暗い場所を照らすのは、強いことだ」

渡空魚の金色の光に導かれて、降りていく。

二百メートル……三百メートル。

深い……いや、【深淵】よりも深い。、界の底。

空気が変わった、温度が変わった、匂いが変わった、足の裏に伝わる振動の質が変わった。

何かがある――近い、大きい。

やがて、穴が広がった。壁がなくなり、巨大な空洞に出た。

【新エリア「世界の根」に到達しました!】

【エリア踏破率:6/7 → 7/7——完了】

【世界の根は従来のエリアとは異なるルールが適用されます。詳細は探索により判明します】

システムメッセージも気にならないほど、トワは目の前の光景に見入っていた。

目の前に広がっていたのは——暗闇ではなかった。

根だった。

七本の柱の根が、天井も壁も床も覆っている。木の根のように絡み合い、脈打っている。根の中を光が流れている。金色の光――血管を流れる血のように、ゆっくりと。

空洞は広い。どのくらい広いかわからない。渡空魚の金色の光が届く範囲でも、壁が見えない。

「ここが……【世界の根】」

「広い……原初の世界の草原くらいありますね」

グランが裸足で根の上に降り立った。

根が震えた……ぶるん、と。生きている。世界の根は生きている。

「根が脈打ってる」タマキが足元の根に手を触れた。「どくん、どくんと……心臓みたいですね。世界の心臓なのでしょうか」

遠くに光が見えた。

金色ではない白い光……あれは、建物のような——いや、建物だ。

「あそこに何かある。行ってみよう」

渡空魚が先に泳いでいった。金色の光で道を照らしながら。

世界の根――原初の世界から隔離されたエリア。この先に、一人目の旅人がいる。

でもまだ遠い。まず——この場所を知るところからだ。