軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

おやすみ

四度目の突入の前に、一日休むことにした。

深淵に三回潜って、三回帰ってきた。身体は元気だ。VRMMOだから当たり前だが頭が疲れている。無音の空間、歪んだ街並み、脈打つ床——頭の中にこびりついている。

昼前にスマホを開くと、宮瀬からメッセージが来ていた。

タマキ:「今日はBCOやるの?」

トワ:「やる。——ただ、深淵には行かない」

タマキ:「じゃあ何するの?」

トワ:「特に決めてない」

タマキ:「決めてないなら、一緒にログインしよ。わたしも新しいレシピ試したいし」

ログインした。始まりの町。いつものBGM。いつもの喧騒。いつもの噴水広場。

——音がある。

三回深淵に潜った後だと、始まりの町のBGMが沁みる。何でもない環境音が、こんなにありがたいとは思わなかった。

タマキがマーサの調合小屋に向かった。「新しい対策薬のレシピを試す」と言っていたが、半分は趣味だろう。タマキは薬を作っている時が一番楽しそうだ。

残りのメンバーはそれぞれ好きなことをしていた。ゼクスは装備のメンテナンス。アストレアは大聖堂で祈り(と鎧の修繕。歯形だらけなので)。ハルは手帳の整理と図書館。

トワは、何もしなかった。

噴水広場のベンチに座った。セレスが肩の上にいる。ルーナが影の中にいる。

何もしない日。

BCOの中で、何もしない日は——たぶん片手で数えられるくらいしかなかった。歩いていないと落ち着かない。何かを探していないと、手持ち無沙汰になる。

だが今日は——座っていられた。深淵が、「何もしない」ことの贅沢さを教えてくれたから。

「トワ。きょう、あるかないの?」

「歩かない」

「めずらしい」

「たまにはいい」

「じゃあ——おひるね?」

「昼寝はしない」

「おやつ?」

「朝食べただろう」

「おやつとあさごはんはべつ」

「同じだ」

「べつ。セレスのてーり」

「お前の定理はおやつに偏りすぎている」

「おやつはせかいのちゅーしん」

「中心ではないぞ」

「ちゅ-しん」

「中心ではないだろ」

「じゃあ、なにがちゅーしん?」

「……セレスが中心、とでも言ってほしいのか」

「いってほしい」

「言わない」

「けち」

ルーナが影の中からくすくす笑った。

「セレスはかわいいね」

「ルーナ。セレスのみかた、する?」

「する」

「じゃあ、いっしょにおやつ」

「いいよ」

「トワもいっしょ」

「いや、俺は——」

「いっしょ」

「……わかった」

エリーのパン屋に行った。朝の行列はもう捌けている。昼前の静かな時間帯。

「トワさん! いらっしゃい。今日はお休みですか?」

「ああ。——おやつを三つ」

「三つ? セレスちゃんとルーナちゃんの分?」

「そうだ」

エリーがパンを包みながら微笑んだ。

「ルーナちゃんは、何が好きですか?」

影の中からルーナの手だけが出てきた。指で——何かを指している。

ショーケースの中のクリームパン。

「クリームパン?」

「……甘いのが好き。影の中は暗いから——甘いものを食べると、少し明るくなる気がする」

「影の中で甘いものを食べると明るくなる——素敵ですね!」

エリーが嬉しそうにクリームパンを取り出した。

「セレスちゃんは?」

「いつもの!」

「夢見のパンですね」

「ゆめみのパン!」

「トワさんは?」

「……俺はいい」

「トワもたべて」セレスが見上げた。

「たべて」ルーナが影の中から言った。

「二人に挟まれたら断れないですよ、トワさん」エリーが笑った。

「……じゃあ、ルーチェのパンを一つ」

「はい! 三つで銅貨九枚です!」

噴水広場に戻った。ベンチに座って、パンを食べる。

セレスがトワの膝の上で夢見のパンを齧っている。小さな手で持って、端からかじかじ食べていく。

ルーナの手だけが影から出ていて、クリームパンを持っている。影の中でもぐもぐ食べている音が聞こえる。時々、クリームが影の境界面から垂れそうになる。

「ルーナ。クリームが——」

「大丈夫。影の中でこぼしても、影が吸収するから」

「影がクリームを吸収するのか?」

「うん。——影はなんでも吸い込む。いいものも、悪いものも」

「じゃあ、影の中にゴミを捨てたら?」

「消える。——でもやらないでね。影が汚れるから」

「やらない」

「ゼクスさんは、時々やるよ」

「あいつ……今度やったら言っておく」

セレスがパンを食べ終えた。ルーナは指についたクリームを舐めている。

「おいしかった」

「よかったな」

「トワのパンは?」

「食べた」

「おいしかった?」

「美味かった」

「えへへ」

「なんでお前が嬉しそうなんだ」

「トワがおいしいとうれしい。セレスのてーり」

「定理が多すぎる」

「てーりはいくらあってもいい。セレスのてーり」

「定理で定理を正当化するな」

昼過ぎ。

噴水広場で、セレスとルーナが遊び始めた。

セレスが月光で小さな光の球を作る。ルーナが影で小さな影の球を作る。二つの球を——ぶつける。

ぱちん。

光と影がぶつかると、小さな花火みたいに散った。銀色と紺色の火花。

「きれい——!」セレスが目を輝かせた。

「もう一回」ルーナが影の球を作る。

ぱちん。

また散った。今度は前より大きい。噴水の水に反射して、広場全体がちかちか光った。

「もっとおおきく!」

「うん!」

セレスが大きな月光の球を作った。直径三十センチ。ルーナが同じ大きさの影の球を作った。

「いくよ——!」

ぶつけた。

ばちーん。

【セレスの月光とルーナの夜がぶつかりました!】

【微弱な属性干渉が発生しました。周囲のプレイヤーに影響はありません】

光と影の花火が噴水広場いっぱいに広がった。銀色と紺色の粒子が雪のように降ってくる。

通りかかったプレイヤーたちが足を止めた。

「何だ今の!?」

「すっごくきれい——!」

「精霊が、遊んでるのか?」

「トワさんの精霊じゃないか? 月の精霊と——もう一人の」

「影の精霊、ルーナだろ? 本当にいいよな、珍しい精霊を二人も……」

セレスとルーナが噴水の上で追いかけっこを始めた。セレスが月光で光の足場を作り、ルーナが影の足場を作る。噴水の水の上に、銀と紺の道ができていく。

二人が走ると光と影の軌跡が残る。噴水が——イルミネーションみたいになった。

「あれ——映える! スクショ撮っていいか!?」

「撮れ撮れ!」

「トワさん、精霊をレンタルしてくれないか? 結婚式の演出に使いたい」

「レンタルはしない」

「残念——!」

セレスがルーナを追いかけて、ルーナが逃げる。ルーナが影に沈んで消える。セレスがきょろきょろする。ルーナが別の場所から出てくる。セレスが「みつけた!」と飛びつく。

「……あいつら、仲いいな」

「長年の友達、ですからね」タマキがいつの間にか隣に座っていた。調合が終わったらしい。

「タマキも休憩か」

「レシピの検証が一段落したので。——セレスちゃんとルーナちゃん、見てると癒されますね」

「深淵の後だとな」

「ですね。——深淵では二人とも戦力として頑張ってますけど、本来はこうやって遊ぶのが似合ってるんですよね」

セレスがルーナに捕まった。二人でころころ転がっている。光と影がぐるぐる回って——小さな渦になった。

「セレス、つかまえた!」

「捕まっちゃった」

「ルーナ、まけ!」

「負けた」

「しょうひん!」

「何がもらえるの?」

「おやつ!」

「セレスが勝ったのに、なんで景品がおやつなの。自分のご褒美じゃない」

「しょうひんはおやつ。まけたほうがかう」

「……買うの?」

「かう。ルーナがかう、セレスのぶん」

「わかった」ルーナが影の中から手を出した。「エリーさんの店に行こう」

「やった!」

トワの財布から銅貨が出ていく音がした。精霊に財布の概念はない。

「……俺の金か」

「トワのおかね。——でも、セレスのおやつ」

「お前の理論では、俺の金はお前のおやつに変換されるのか」

「へんかん。ちがう。てーり」

「もう何も言わない」

夕方。

VRヘルメットを外した。

現実の部屋。夕日が窓から差し込んでいる。時計を見ると——五時間ログインしていた。深淵に行かなかったのに、もう五時間。

スマホが鳴った。宮瀬から。

「おつかれ。——どうだった?」

「何もしなかった」

「何もしなかったの? 五時間も?」

「セレスとルーナが遊んでいるのを見ていた。——あとパンを食べた」

「……久坂くんがゲームで何もしないなんて、初めてじゃない?」

「たぶん、初めてだ」

「どうだった?」

「……悪くなかった」

「ふふ、いいね。——現実でもそういう日、作ろうよ。何もしない日、二人で」

「何もしないで、何をするんだ?」

「何もしないの。——散歩して、パン買って、公園で食べて。それだけ」

「……それは、BCOでやったことと同じだな」

「でしょ? ゲームでできるなら、現実でもできるよ。——今度の日曜、空いてる?」

「空いてる」

「じゃあ決まり。何もしないデート」

「何もしないのにデートなのか」

「何もしないからデートなの。——予定を入れない贅沢ってあるんだよ、久坂くん」

予定を入れない贅沢。

に歩き続けてきた男には、新鮮な概念だった。

「わかった。日曜日、何もしないデートだ」

「やった。——あ、でもパンは買おうね。セレスちゃんに怒られるから」

「セレスは現実にはいないが」

「いなくても、パンは必要でしょ」

「……そうだな」

電話を切った。

窓の外が暗くなっていく。日が沈む。夜が来る。

明日はまた深淵に潜る。暗くて、無音で、不気味な場所に。

だが——今日は休んだ。パンを食べて、精霊が遊ぶのを見て、何もしなかった。

明日の深淵が——少しだけ怖くない。

たぶん、こういう日があるから、歩き続けられるんだろう。

セレスの定理ではないが——おやつは世界の中心かもしれない。

「……言わないけどな」

誰にも聞こえない独り言を、暗くなっていく部屋の中で呟いた。