作品タイトル不明
第七十七話 ダンシングトニー
ゲートの中は嫌いではない。
我にとっては、世界が狭いのだ。
ゲートの中だろうが大差はない。
ただ、日本のゲートは欧州のゲートより少しばかり綺麗な気もする。
我は、今、東京競馬場の芝二千四百メートルの起点に立っている。
ジャパンカップ。
周りには米国、豪州、香港、日本。
様々な国の馬が気勢を上げている。
笑止。
勝つのは我だ。
人間どものざわめきが、金属と芝と空気を伝ってこちらへ押し寄せる。
全馬がゲートに収まり、一瞬の静寂が訪れる。
この瞬間は好きだ。
全馬の意識が一点に集まる、この一瞬だけは、虚飾がないからだ。
ガシャンッ!!
意識が解き放たれる。
各馬が前へ殺到する。
我は、慌てない。
飛び出さない。
競り合わない。
我の勝ち筋は明確だ。
四コーナーまで、ゆるり。
そこから、一気。
それで欧州の怪物どもを幾度となく引き裂いてきた。
東京だろうがパリだろうがアスコットだろうが、やることは変わらない。
『各馬まずは第一コーナーへ!ゴールデンビール、好位につけた!サクライルドルフは中団!ダンシングトニーは後方!』
実況の声が遠く響く。
後方?
違うな。
我は、待っているだけだ。
背中の男も、まだ待つ。
いい。
それでいい。
向こう正面。
芝の上を流れる空気が一定になる。
少しだけ頭を下げ、呼吸を深くする。
脚の奥に力を貯める。
周囲にも馬がいる。
我を意識しているものもいる。
我を見ていないふりをしているものもいる。
無駄だ。
どちらでも同じだ。
三コーナーが近づくにつれ、前の空気が変わっていく。
人間どものざわめきが少しずつ厚みを増す。
……まだ。
前方では、ビールが位置を上げ始めている。
中団では、ルドルフも動く準備をしている。
来い。最高の形で来い。
それをまとめて潰すのが、我の仕事だ。
四コーナー。
東京の長い長い直線の入り口。
人間どもが、勝負どころだと騒ぐ場所。
違う。
ここは、我が仕事を始める合図でしかない。
手綱が、ほんの少しだけ変わった。
――そろそろ見せてやれ。
そういう、よくわかった合図だ。
我は、深く呼吸を吸い込む。
よし。
では、見せてやろう。
一歩目。
芝を深く捉える。
二歩目。
身体が前へ滑るのではなく、世界の方が後ろへ飛び始める。
三歩目。
見えていた景色が、明らかに変わる。
これだ。
この感覚があるから、我は走るのが好きだ。
『さあ各馬直線へ!!先頭はゴールデンビール!これにサクライルドルフが迫る!ダンシングトニーは大外!』
観客席の歓声が、一気に膨れ上がる。
前には、まだずいぶんと馬がいる。
だが関係ない。
全員まとめて抜く。
我にとって、競馬とはそういうものだ。
まず一頭。
抜く。
もう一頭。
かわす。
さらに二頭、三頭。
前へ、前へ。
視界の中で、他の馬たちが止まって見える。
いや、実際に止まっているのかもしれんな。
これだ。
これが我だ。
幾多の芝の戦場で、前を行く馬すべてに「それでも届くのか」と絶望を教えてきた脚だ。
東京であろうが変わらん。
『外からダンシングトニー!!ダンシングトニー来た!!』
実況が叫んでいる。
もっと叫べ。
我の名を呼ぶ栄誉を授けてやる。
『来た!!ダンシングトニー来た!!大外からすごい脚!!』
そうだ。
見ていろ。
これが世界の末脚だ。
我はさらにギアを上げ、坂を登りきる。
前の空気が裂ける。
観客のどよめきが、少しだけ悲鳴に近いものへ変わる。
いい。
これだ。
我が全てを置き去りにした時、世界はいつもこういう音を出す。
「……ん?」
何かが、横にいる。
いや、横にいるどころではない。
横で、並んで、前へ出ようとしている。
我の脚で、まだかわしきれない?
何者だ。
ほんのわずかに内を見ると必死の顔のビールがいた。
更にもう一頭。
ルドルフだ。
歯を食いしばるでもなく、澄ました顔のまま我の脚に合わせてきている。
おかしいだろう。
我の末脚だぞ。
欧州でどれだけの名馬が、置き去りにされてきたと思っている。
「来ましたか」
ルドルフの澄ました声。
だが、その奥に熱がある。
ビールも笑うように鼻を鳴らした。
「遅ぇぞ、怪物」
気に入らんな。
実に気に入らない。
だが、面白い。
「よかろう」
我は、普段は使わないものを使うことにした。
奥の奥に隠していた脚。
欧州でも、本当に必要な時にしか見せなかった、更にもう一段上の脚。
我が“怪物”と呼ばれる所以の、その先。
背中の男も、その変化を感じたのだろう。
「それだ!!」
我は、もう一段深いところから力を引き出した。
世界が沈む。
周囲が遅くなる。
これだ。
この感覚。
全てが止まって見える瞬間。
我だけが別の時間を走る感覚。
『ダンシングトニーさらに来る!!やはり怪物か!!』
そうだ。
怪物だ。
これで終わる。
さらばだ、弱き馬たちよ。
『だが、サクライルドルフ粘る!ゴールデンビールも伸びる!』
……なぜだ?
なぜビールが、まだいる。
目を剥きながら、それでも前へ首を出してくる。
ルドルフも、いる。
燃えるような瞳で、更に一段踏み込んでくる。
何だお前ら。
何でついてくる。
何で落ちない。
残り二百。
ビールが吠える。
「それでこそだ!!」
うるさい。
ルドルフも吠える。
「怪物退治です!」
我も吠える。
「大人しく止まっていろ!!!」
『欧州の怪物!桜の皇帝!黄金の不撓不屈!三頭横並びだ!!!』
歓声が爆発する。
人間どもは総立ちになっているのだろう。
こういうのが好きなのだろう。
だが今は、その歓声すら邪魔だ。
なんなのだ、この二頭は。
バケモノか。
日本にも、バケモノはいるらしい。
残り百。
脚が焼ける。
肺が裂ける。
だが止まらない。
鞭が飛ぶ。
人間どもも本気だ。
当然だ。
「……!」
我の胸の奥で、初めて焦りが弾けた。
負ける?
この我が?
こんなところで?
日本の馬に?
冗談ではない!!!!
「最強は我だ!!」
ビールが叫ぶ。
「お前ら全員!!俺様が潰す!!」
ルドルフも返す。
「私は負けない!!」
意地だ。
叩き合い。
美しいなどという言葉で片付けるな。
これは、殺し合いだ。
ほんの少しでも前へ。
鼻先一つでも前へ。
ただ、それだけのために、自分の中の全部を吐き出す闘争だ。
ビールが、一瞬だけ前に出る。
そこへルドルフが食らいつく。
我も、首を前へ出す。
まだだ。
まだ終わるな。
こんなところで終われるか。
――終わるのが惜しい。
『すごい!!すごい叩き合いだ!!』
世界が、細くなる。
全部が遠のいて、ただゴール板だけが前にある。
ビール。
ルドルフ。
我。
三頭とも譲らない。
そして――