作品タイトル不明
第四十四話 人間はしょーがないなー
夜の馬房ってのは外に出れないから退屈だ。
人間は寝ろというけど、俺たちは意外と喋ってたりする。
俺も暇だから、お母さんに話しかけることが多い。
「ねえ、お母さん」
ストーンブレイク――俺のお母さんは、半分眠そうな顔でこっちを向いた。
俺の母親であり、この牧場の重賞勝ち馬であり、普段は偉そうで口が悪いくせに、なんだかんだ俺が近寄ると許してくれる女傑である。
「ん?」
低くて、ちょっと気の抜けた返事。
「俺も早くレースに出たい」
そう言うと、母さんは一拍置いてから、ふっと鼻を鳴らした。
「早くても二年後だよ」
「えー」
理不尽だ。
「でも俺、牧場で一番速いよ」
これは事実だ。
産まれて四か月くらい経ったが、放牧地を走れば、他の当歳はすぐ置いていける。
というか、最近は一歳のやつにも勝てる。
たまに向こうが本気出すと負けるけど、それは向こうがズルいだけだ。
するとお母さんは、少しだけ笑うみたいに鼻を鳴らした。
「はは。大きい牧場には、速いのがもっとたくさんいるよ」
「そうなの!?」
俺は思わず身を乗り出した。
知らんかった。
「競馬ってのは、そういう場所だ」
お母さんは、まるで当たり前みたいに言った。
「ぐぬぬ」
なんか、ちょっとだけびっくりした。
……いや、待てよ。
じゃあ、そいつら全員に勝てば、俺がすごいことが証明される。
簡単だな。
だが、その時、ふと思った。
「ねえ、お母さん」
「んー?」
「母さんは、なんで走ってたの?」
この牧場のことは、だいたい知ってる。
爺ちゃんとか朔とか弥生とか。
でも、外の走る場所のことはあまり知らない。
お母さんは少しだけ黙った。
寝てるのかと思ったけど、違った。
考えてる。
「そうだね」
それから、ゆっくり言った。
「本能と、ほんの少しの“義理”かな」
「ぎり?」
なんだそれ。
食えるのか?
お母さんは少しだけ笑って続けた。
「この牧場を、少しばかり大きくしてやろうって気持ちかな」
俺はすぐに頷いた。
「それはわかる!」
すごくわかる。
この牧場、ちょっと狭いのだ。
たしかに走れるし転がれるし寝られるし、悪くはない。
でも、もっとこう、どーんと広いところを、ばーんと走りたい。
「それと」
お母さんが、少しだけ真面目な声になった。
「ついでに、朔をえらくしてやろうってのもほんのちょっとだけあったね」
「えー、なんでー?」
俺は本気でわからなくて聞き返した。
朔は飯持ってきたり、ブラシしたり、すぐ怒ったりする人間だ。
たしかに便利だけど、なんで母さんがそこまで考えてやる必要があるんだ?
お母さんは、やれやれって顔をした。
「私たち馬の言葉が聞こえる人間って、朔くらいなんだよ」
「そうなの!?」
俺はびっくりした。
本気でびっくりした。
思わず寝藁の上でぴょこんと跳ねてしまった。
「弥生ちゃんが変なだけで、爺ちゃんもみんなも聞こえてるのかと思ってた!」
「弥生が変なのは否定しないけど、聞こえちゃいないよ」
「ええー……」
俺が本気で困惑していると、隣の馬房の繁殖牝馬が、眠そうな声で口を挟んできた。
「人間ってのはねえ、不便な生き物なんだよ」
「そうそう、だからこっちがだいぶ気を遣ってやってるのさ」
「でも、気を遣っても伝わらないんだよねえ」
人間ってそんなに駄目なのか。
「まったく、人間って馬の言葉もわからないのか!!」
「だいたいわかんないね」
「俺たちは人間の言葉わかるのに!!」
「そうだねえ」
「人間はしょーがないなー」
人間、だいぶ終わってるな。
そりゃ、たまに変なこともするわけだ。
「だからさ」
お母さんの声が、夜の空気に少しだけまっすぐ通った。
「ご飯の好き嫌いとか、病気っぽい時とか、怪我しそうな時とか、朔が皆に言ってくれたら、私たちも助かるだろう?」
「それはそう!!」
俺は勢いよく頷いた。
俺は普通のリンゴじゃなくてふじリンゴがいい!
「じゃあ、朔にえらくなってもらわないとダメじゃん!」
「そういうこと」
お母さんは、小さく鼻を鳴らした。
「だから、あんたたちが頑張れば、朔は『あの馬の馬主が言うことなら』ってなるはずさ」
「なるほど!!」
俺はかなり理解した。
すごく理解した。
つまり、こういうことだ。
俺たちが強くなる。
みんなが「うわ、あの馬すげえ」となる。
その馬の馬主である朔が何か言う。
すると人間どもが「おお、あの名馬の馬主が言うなら」となる。
爺ちゃんも喜ぶ。弥生も喜ぶ。
完璧だ。
「しょーがないなー」
俺は寝藁の上で、わざとらしく大きく息を吐いてやった。
「じゃあ、任せてよ、お母さん!!」
それくらいなら、簡単だ!
お母さんは、少しだけ笑うみたいな声音で返した。
「ま、ケガしない程度に頑張んな」
「うん!まずは無敗の三冠馬だね!」
俺がきっぱり言った、その直後。
厩舎の空気が、ぴたりと止まった。
「……」
「……」
「……」
え?
なんだよその間。
俺がすごすぎて、みんな感動してるのか?
すると、向かいの馬房の繁殖牝馬が、やけに静かな声で言った。
「……あー」
別の牝馬も続く。
「それ、絶対クラウンだ」
「完全にクラウンだねえ」
「三冠って単語をそんな得意げに使うの、あのガキくらいだよ」
「わたしもさんかんばになるー」
なんか急に、全員の視線が、俺ではなく別の方向を見始めた。
俺が首を傾げると、お母さんが、心底嫌そうな顔をした。
「……クラウン、後で怒る」
え、なんで?
こないだ、「ルドルフ、お前は無敗の三冠馬になるぞ!!」って言ってただけなのに怒られるの?
まあ、いいや。
怒られるの俺じゃないみたいだし。