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作品タイトル不明

第一〇四話 もし郭奉孝が生きていれば

劉備軍と孫権軍に勝利したとはいえ、曹操軍も多くの船を失っており、将兵たちのあいだには疫病が蔓延している。

継戦(けいせん) 能力の限界が近づいていると判断した曹操は、攻勢への転換を断念すると、江陵の守りを曹仁にまかせ、北へ引き揚げて襄陽に入った。

「戦勝の知らせが伝わるや、市中には歓喜の声が満ちあふれております」

と報告するのは蔡瑁である。

「民草はことごとく曹丞相の徳政に服し、襄陽周辺の情勢は無風静穏そのものでございます」

かつて劉表のものであった椅子に腰を落ち着かせ、曹操は小さく笑みを浮かべて、うなずいた。

「うむ。荊州の民心は落ち着きつつあるようだ。しかしながら、いまだ劉備・孫権は健在である。蔡瑁、おぬしはどう考える」

「……劉備も孫権も、生かしておけば荊州に害をなしましょう」

怏々(おうおう) と眉を曇らせ、蔡瑁は返答した。

「余としても、彼らを放置したまま、鄴へもどるつもりはない。 趙儼(ちょうげん) たちに命じて、このまま劉備を討伐するつもりだ」

烏林(うりん) に布陣していた曹操本隊は、疫病のために戦える状態ではない。

しかし、別動隊の趙儼たちには戦闘を継続する余力が残されている。

劉備軍を撃破した彼らに、そのまま夏口へと攻め寄せるように、曹操は命じていたのである。

すでに劉備軍が八方ふさがりの状況にあると知って、蔡瑁の 双眸(そうぼう) にほのかに喜色が 灯(とも) った。

曹操はかさねて告げる。

「だが、揚州へ攻めこむ余力はない。孫権とは和議をむすぶ」

蔡瑁は表情を変えなかったが、それが意思によって制御されたものであることを、曹操は見てとった。

「余に臣従するのであればそれでよし。しなかったとしても、孫権は戦に負けたのだ。戦前ほど強気な姿勢はとれまい」

「……御意にございます」

うやうやしく 拱手(きょうしゅ) する蔡瑁を退室させると、曹操はそばに立つ参謀に声をかける。

「荀攸」

「はっ……」

「蔡瑁は不服そうにしていたな」

「……我々の軍勢で、揚州を制圧してほしかったのでしょう」

「であろうな」

蔡瑁の立場になって考えてみればわかる。

孫家は三代にわたって荊州を狙ってきた宿敵なのだ。

和議などという生ぬるい対応では、物足りなく感じられるであろう。

「ふん、疫病さえ広まっていなければ、いわれずとも揚州に攻めこんでおるわ」

曹操としても、せっかく戦に勝ったのに、孫権領を寸土も切り取ることができなかったのは、はなはだ不本意であった。

「それもこれも周瑜のせいだ。烏林に引きずりだされた時点で、余は周瑜の思惑に乗せられてしまったのだ」

苦々しく、曹操はつぶやいた。

郭嘉が 鬼手(きしゅ) を残していなければ、曹操は烏林から撤退する機を失い、いまごろ敗北の憂き目を味わわされていたにちがいなかった。

いまにして思えば、周瑜は烏林を必勝の地と見定めていたのだろう。

曹操軍の占領から間もない荊州を侵犯し、天人相関説をもちだして曹操の統治を否定する。

それらの挑発はすべて、自身が定めた必勝の地へと、曹操を引きずりだすための策であったのだ。

「個人としては敗北を認めてやってもよい。だが、結果的に勝利したのが我が軍であることに変わりはない。周瑜個人にも、いずれ思い知らせてやらねばなるまい。……その機会がめぐってくるとはかぎらんがな」

曹操は笑った。勝ったから、心置きなく笑えるのだ。

孫権がおとなしく帰順すれば、周瑜との再戦の機会も失われるが、そうなったらそうなったで、曹操からすればどこにも不都合はない。

曹操は、周瑜が戦死したことをまだ知らなかった。

知っていれば、本心はどうあれ、彼は哀悼の意を示したであろう。

人材を集めたいのであれば、たとえ敵であろうと、すぐれた人材には敬意を払ってみせねばならない。

曹操はふてぶてしい表情をたたえて、

「孫権がどこまで譲歩するかはわからんが……まあ、表向きでもかまわん。和議が一時的なものであろうとな」

曹操と荀攸の見解は一致している。

条件にもよるが、孫権は和議に応じるであろう。

大損害をうけた水軍を再建するために、孫権は曹操以上に時間を必要としているはずなのだ。

それが臣従になるのか、単なる和睦にとどまるのか。

永続的なものになるのか、一時的なものに終わってしまうのか。

どう転ぶにせよ、一時的な停戦は得られる。

そのあいだに、孫権の支援を失って孤立した劉備を、攻めほろぼしてしまえばよい。

「荊州を制圧して、孫権とは交渉する。結局、当初の方針どおりになってしまったな」

曹操はため息をついた。

無益な戦だった。したくてしたのではない、させられたのだ。

反省の念が墨汁のように、曹操の心を黒く塗りつぶした。

「…… 紆余(うよ) 曲折の末に、当初の方針どおりに前進できた。そう考えるべきかと」

「そう。荊州は天下のへそだ。余は天下取りへの道を着実に歩んでいるはずだ」

荊州を占領し、揚州の孫権には大打撃をあたえた。益州の劉璋は抵抗の意思を見せず、涼州の馬騰はすでに入朝して、一族とともに鄴に居をかまえている。

天下統一の日は、すぐそこまで近づいている。

「だのに、不思議と気分が高揚しない」

「…………」

荀攸は沈黙した。

曹操は、椅子の背もたれに体をあずけた。

劉表も一州牧で終わるつもりはなかったのであろう、鄴にある曹操のものと同等の、 豪奢(ごうしゃ) な椅子である。

物足りなさを、曹操は感じていた。

彼の体をうけとめるのにふさわしい座具は、もはや玉座以外に存在しない。

「天下を統一する余の姿を、郭嘉にこそ見せてやりたかったものだが……」

長い年月をかけて歩んできた、覇道の果てが見えつつある。

曹操は 眸(ひとみ) を閉じて、玉座に腰をすえる自分の姿を想像した。

しかし、そこから群臣を見おろしても、彼の覇業を誰よりも理解していた軍師の姿は、どこにも存在しなかった。

郭嘉奉孝(かくかほうこう) 、享年三十九歳。

中原の争乱、官渡の戦い、河北平定、烏丸討伐、そして赤壁の戦い。

曹操に仕えた十二年のあいだ、彼は常に勝利とともにあった。

三国志の著者である陳寿は、郭嘉を「徳行においては荀攸に劣る」と評し、程昱・董昭・ 劉曄(りゅうよう) ・ 蒋済(しょうさい) と同じ伝に並べた。

一方で、その知略に対しては賛辞を惜しまず、同時代に比肩する者は見あたらないとし、「もし郭奉孝が生きていれば、曹孟徳は天下を統一していたであろう」とも書きしるしている。

歴史について、「もし」を考察するのは無意味であるともいわれるが、「もし」と思いをめぐらせるのもまた、当然の心理であろう。

「もし郭奉孝が生きていれば」という仮定は、陳寿ですらその誘惑を無視できなかったように、人々の歴史に対する興味と知的好奇心を刺激してやまなかった。

結局のところ、そうした議論は空論にすぎず、結論にたどりつくことはない。

曹操と司馬懿、あるいは魏と晋の比較に終始し、堂々めぐりするだけなのだが、その反実仮想の流れに一石を投じたのが、陳寿の三国志に 付注(ふちゅう) した 裴松之(はいしょうし) である。

裴松之は、魏と晋の比較ではなく、郭嘉の死が孔明にあたえた影響にこそ着目すべきである、と主張した。

「周知のように、胡孔明は生涯を通じて無位無冠をつらぬいた高士であり、 野(や) に在りながら天下をひとつにまとめあげた歴史上唯一の人物である。彼の生涯をひも解くと、『 建安遺事北異伝(けんあんいじほくいでん) 』の題材となった異郷への旅路を境に、前半生と後半生にわけることができる。この旅のきっかけとなったのが、ほかでもない、郭奉孝の遺書であった」

裴松之は、孔明の前半生と後半生の変化について、次のように記述している。

「私たちは学問の神として胡孔明を信奉しているが、おどろくべきことに、胡孔明はその前半生において、名家の子弟を弟子に取ろうとはしなかった。唯一の例外が、太祖・司馬仲達であるが、彼にしてもなかば強引に弟子入りをはたしたのであって、胡孔明自身が望んだ弟子入りではなかった。もし胡孔明が陸渾の隠士として生涯を終えようとしていたら、大晋帝国の礎を築いた 胡門十傑(こもんじっけつ) は、第一席の司馬仲達ただひとりであったかもしれないのだ。これがどれほど重大な損失かは、いまさら言及するまでもないことであろう。私たちが 謳歌(おうか) している 今日(こんにち) の繁栄は、胡孔明と彼の高弟たちの偉業の上に成り立っているのだから」

裴松之は、曹操が天下を統べたところで、孔明が動かないのであれば太平の世がもたらされることはない、と結論づけたのである。

同じく郭嘉の死に着目し、これに疑義を呈したのが、三国志演義の著者・ 羅貫中(らかんちゅう) である。

「やむをえず、ということがある。胡孔明を通俗小説の登場人物とすることは禁じられているため、私は三国志演義のなかで、彼を描くことはできなかった。結果として、その 無謬(むびゅう) 性を郭奉孝や司馬仲達に付与することになってしまったかもしれない。そう感じると同時に、ある疑念が浮かびあがった。司馬仲達と同様に、郭奉孝も胡孔明と理念を共有していたのではないか? だとすれば、もし彼が生きのびて、曹孟徳が天下を統一していたとしても、やはり太平の世が訪れていたのではないだろうか。これは推論ではあるが、胡孔明はやむをえず動きはじめたのだ。郭奉孝という稀代の軍略家が失われたことで、みずから動く必要性を感じとったのであろう」

羅貫中は郭嘉の死について、こうまとめている。

「いずれにしても、我が国の歴史において、郭奉孝の死がきわめて重要な転換点となったのはあきらかである。死はあるいは 泰山(たいざん) より重く、あるいは 鴻毛(こうもう) より軽しというが、彼の死はまさしく泰山より重い出来事であった。権力者を疎んじ、世俗から遠ざかっていた胡孔明を動かしたのは、曹孟徳の権勢でも、漢王朝の権威でもなかった。郭奉孝の遺書だったのである」

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赤壁の戦いは、中国後漢末期の二〇八年、長江の赤壁(現在の湖北省荊州市江陵県)において起こった曹操軍と孫権・劉備連合軍との戦いである。

曹操が荊州を占領すると、その大軍勢に対抗するために、呉の孫権と、新野から夏口へ落ち延びていた劉備は連合した。

孫権は、周瑜を都督に任じて三万の軍勢をあずけ、長江に面した最前線の陸口に駐屯させた。この孫権軍をおさえるため、曹操は対岸の烏林に六万を超える軍勢を率いて布陣した。また、劉備を討伐するために別動隊四万を夏口に進軍させた。劉備軍二万六千は漢水に沿って進軍し、この軍勢を迎え撃った。

曹操軍と孫権軍は長江をはさんで対峙したが、戦況は膠着し、戦が長引くうちに、湿地帯にかこまれた烏林の曹操軍には疫病が蔓延した。疫病の猛威の前に、曹操は撤退を決断し、郭嘉は「十面埋伏の計」と「鉄鎖連環の計」を残して、陣中で病没した。

劉備軍は陸路で曹操を追いつめようとしたが、十面埋伏の計によって大敗した。

孫権軍は長江をさかのぼり、水路で江陵をめざした。しかし、鉄鎖連環の計によって孫呉水軍は大炎上し、指揮官の周瑜も火傷のためにまもなく死去した。

勝利こそしたが、曹操軍の疫病による被害も甚大であり、これ以上の戦闘は不可能だと判断した曹操は、江陵の守備に曹仁を残して撤収した。

『三国志』魏書武帝紀には、「曹操軍は勝利したが、風土病による死者が多かったので帰還した」 と書かれている。

『三国志』呉書呉主伝には、「赤壁で敗れ、周瑜を失った孫権は、一時的に曹操に臣従した」と書かれている。

『三国志』蜀書先主伝には、「五千人あまりの兵を失った劉備は、夏口を放棄して、荊南に逃走した」と書かれている。

赤壁の戦い wiikiより一部抜粋

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