作品タイトル不明
第84話 橋を作る人
親善行事の会場は、嵐が去ったあとのように少しだけ散らかっていた。
傾いた白い花。ずれた椅子。磨き上げられた床には、踏まれずに残った花びらが一枚、皮肉のように光っている。
セレフィーナは、手元の橋渡し確認書を見つめた。
角はよれ、進行役の汗が移ったのか、赤いインクが少し滲んでいる。何度も指で押さえられた跡が、紙の端に薄く残っていた。
王都の正式書類のような美しさは、どこにもない。
そのかわり、戦い抜いた盾のような重みがあった。
「セレフィーナ」
呼ばれて振り向くと、ルシアンが王家側の控えを持って立っていた。
王子として整えた微笑は、今日はほとんど残っていない。目元には疲れがあり、襟元の飾りもわずかに緩んでいる。朝なら従者がすぐに直しただろう乱れを、彼はそのままにしていた。
「この確認書、次回の地方調整まで暫定運用を継続する」
ルシアンは控えの端を押さえた。
「費用、人手、本人意思、不利益評価。この四つを抜いたまま地方へ渡す運用は、少なくとも私の名では通さない」
「王都側の記入欄、もっと増やしてもいいですか?」
ルシアンの口元が、かすかに引きつった。
「……嫌な予感しかしないが、許可しよう」
「ありがとうございます」
「礼を言う顔ではないな」
「嬉しい時ほど、手が動きますの」
セレフィーナがペンを持ち直すと、横からノアが覗き込んだ。
「殿下、諦めてください。お嬢様の書類は、抜く時の方が痛い種類です」
「ノア」
「褒めています」
「お前の褒め言葉は、なぜいつも負傷者が出そうなんだ」
「効果的だからです」
ルシアンは返す言葉を探すように控えへ視線を落とし、結局、黙ってその紙を抱え直した。
会場の端から、別の声が聞こえる。
「フォルク家の記録、助かりました。次回、こちらの費用見積もりも見ていただけますか。王都側の表と、うちの実費がどうにも噛み合わなくて」
イレーネが、実務席の控えをまとめる手を止めていた。
相手は別の地方家の家令だ。先ほどまで遠巻きにしていた者の一人である。声にはまだ遠慮がある。けれど、値踏みするような視線ではない。
イレーネは少しだけ瞬きをした。
すぐに、いつもの実務家の顔になる。
「見ます。ただし、確認者と費用負担者を先に書いてください」
「そこからですか」
「そこからです」
家令が苦笑した。
「わかりました。では、そこから」
その少し向こうでは、フィオナが紹介文の控えを両手で持っていた。ミレイアが隣に立っている。
「案内補助なら、できました」
フィオナの声は、少し疲れている。
けれど、押し潰された響きではなかった。
「はい」
ミレイアが短く答える。
「前に立つのが全部嫌だったわけでは、なかったのだと思います」
フィオナは、控えの折れ目を指でなぞった。
「ただ、勝手に決められるのが怖かっただけで」
「次も、考えてからでいいんです」
「はい」
フィオナは頷いた。
「考えてからなら、選べます」
ミレイアは、紹介文の折れた端をそっと伸ばした。強く励ましもしない。大げさに喜びもしない。ただ、紙を傷めないように、指先だけを丁寧に動かしている。
その近くへ、別の若い令嬢が控えめに近づいた。
「あの……“考えます”と返しても、よいのでしょうか」
ミレイアが顔を向ける。
「もちろんです」
「それだけで、失礼にはなりませんか」
「考えずに受ける方が、あとでずっと苦しくなります」
令嬢の肩が、ほんの少し下がった。
ミレイアは橋渡し確認書の写しを一枚取り出す。
「返事を急がされた時は、まずこの確認欄を使ってください。誰が何をお願いしているのか、先に紙へ出すんです」
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
けれど、その一言は会場のざわめきの中で、不思議とよく聞こえた。
セレフィーナは、窓の外へ目を向けた。
会場と街道をつなぐ橋が、夕方の光に染まっている。欄干は古く、木目には傷があった。立派な橋ではない。けれど、人はそこを渡っていく。
ノアが、当然のように隣へ来る。
「今度は、ちゃんと渡れる橋になりましたね」
「まだ仮橋よ」
「落ちなければ上出来です」
「ずいぶん基準が低いのね」
「壊れやすい立派な橋より、渡れる仮橋の方がましでしょう」
セレフィーナは、外の橋と手元の確認書を見比べた。
「それは、そうね」
「それに、お嬢様の橋は性格が悪い」
「褒めているの?」
「もちろんです。渡る者に、責任欄を埋めさせる橋なんて、そうありません」
「いい橋でしょう」
「最悪に良い橋です」
ノアの声はいつもの調子だった。
けれど、その横顔は少しだけ穏やかに見えた。
「セレフィーナ様」
背後から、控えめな声がした。
振り向くと、小さな地方家の令嬢が立っていた。先ほどミレイアに声をかけていた少女だ。胸元で、橋渡し確認書の写しを大切そうに抱えている。
「次の親族会でも、これ、使えますか」
セレフィーナは少女の顔を見た。
怯えはまだ残っている。
けれど、目は逸らしていない。
「使えます」
セレフィーナは答えた。
「必要なら、一緒に形を直しましょう」
少女は、ほっとしたように息を吐いた。
「ありがとうございます」
橋渡し確認書のよれた端が、少女の指の中で少しだけ折れていた。
セレフィーナはペンを取り、そこをそっと伸ばす。
まだ仮橋だ。
けれど今日、確かに誰かがそこを渡った。