軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話 先に舞台から降ります

出立の朝は、まだ夜の名残を引いていた。

空が白み始めるより先に、侯爵家の屋敷は静かに目を覚ましている。廊下には薄い灯りが落ち、使用人たちは声を潜めたまま、必要な支度だけを手早く整えていた。荷は最小限。旅支度というより、しばらく屋敷を離れるための控えめな準備に近い。

それでも、今日がいつもの朝ではないことは、空気の硬さでわかった。

セレフィーナは鏡の前に立ち、最後に外套の襟元を整えた。王都を離れると決まってから、まだ一日しか経っていない。長いようで、驚くほど短かった。

「お荷物はすべて積み終えております」

背後でリズが言う。

「忘れ物はございません」

「そう」

セレフィーナは鏡越しに彼女を見た。リズはいつもと変わらぬ顔で立っていたが、指先だけが少し硬い。

「あなた、眠れた?」

「お嬢さまほどではございません」

いつもの調子で返されて、セレフィーナはほんのわずかに口元を緩めた。

眠れなかったわけではない。ただ、深くは眠れなかった。目を閉じるたび、学園の中庭が浮かんだ。ルシアンの声、ミレイアの困った顔、周囲の視線。あの一場面が、何度も鮮やかによみがえった。

もう決まっていることなのに、どこか現実味が薄かったのだ。

王都を離れる。

昨夜までそれは紙の上の判断で、今ようやく身体のすることになりつつあった。

「参りましょうか」

セレフィーナが言うと、リズはすぐにうなずいた。

廊下へ出る。夜明け前の屋敷はひどく静かで、靴音まで慎重になった。大げさな見送りはない。表門ではなく裏門から出るのも、そう決めたからだ。侯爵家の娘が騒ぎ立てて王都を去ったという形は避けなければならない。

けれど、静かであることと、何も感じていないことは違う。

一歩ごとに、本当に出るのだという実感が胸の奥へ重く落ちていく。

裏門へ向かう途中、エヴァリーヌが待っていた。

濃紺の朝用外套を羽織った母は、まだ薄暗い中でも凛として見えた。父の姿はない。出てこないのは、あの人なりの配慮なのだろう。家長として判断を下し、送り出す役目は母に託した。それで十分だった。

「お母さま」

「ええ」

エヴァリーヌは近づいてきた娘を見て、まず何も言わず、外套の襟元を軽く整えた。その指先は、昨夜と同じように落ち着いている。

「冷えるわ。道中で外さないこと」

「はい」

母はそのまま、手袋越しにセレフィーナの手に触れた。

「息をしてらっしゃい」

その言葉に、セレフィーナの胸が少しだけゆるむ。

「……はい」

「王都のことは、少し忘れなさい」

「少しだけ、ですか」

「全部は無理でしょう」

やわらかな声だった。

「でも、少しならできます。そうでないと、あなたは考え続けてしまうもの」

セレフィーナは苦笑した。

「努力します」

「ええ。それで結構」

母はそう言って微笑んだ。

その笑みを見ていると、胸の奥にあたたかさと寂しさが同時に広がる。送り出してもらえる安心と、離れていく実感は、案外きれいには分かれなかった。

「文は無理に急がなくていいわ」

「ありがとうございます」

「でも、道中で具合が悪くなったら、必ず休みなさい。領地へ着くことより、着くまであなたが削れないことの方が大切です」

その言葉に、セレフィーナはまっすぐうなずいた。

母は最後にもう一度だけ娘の手を軽く握り、静かに離した。

「行ってらっしゃい」

「行ってまいります」

裏門の向こうには、控えめな造りの馬車が待っていた。侯爵家の紋はあるが、大仰ではない。供も最小限。護衛の数も、目立たぬ範囲に抑えられている。

セレフィーナは馬車へ乗り込み、リズも続く。扉が閉まり、短い合図のあとで車輪がゆっくりと動き始めた。

裏門を抜ける。

その瞬間、屋敷の中のぬくもりが、ようやく背中から離れていった気がした。

王都の朝は、まだ半分眠っていた。

窓の外を流れる石畳は青白く、店先は閉ざされたまま、通りには早い時間の荷運びや水撒きの気配がぽつぽつとあるだけだ。高い建物のあいだから、薄く色づき始めた空がのぞいている。

見慣れた景色だった。

何年もここを通り、学園へ向かい、帰ってきた。王都の朝の匂いも、石畳の揺れも、遠くの鐘の音も、ずっと自分の日常の一部だった。

なのに今日は、まるで違う街のように見える。

セレフィーナは窓の外から目を離せなかった。

「お嬢さま」

向かいに座るリズが、小さく呼ぶ。

「お寒いですか」

「いいえ」

「では……」

「まだ、完全には安心できないだけ」

正直に言うと、リズは小さくうなずいた。

「私もです」

それで少しだけ気が楽になる。

馬車は一定の速度で進んでいる。誰かに呼び止められる気配はない。門までの手配も、父が整えている。理屈ではわかっていた。それでも王都の内側にいるあいだは、まだ舞台の上に足を残しているような感覚があった。

学園も、王宮も、社交界も、まだこの城壁の中にある。

そして自分もまだ、その中を走っている。

「……本当に、出るのですね」

リズがぽつりとつぶやいた。

その言葉は確認でもあり、実感でもあった。

「ええ」

セレフィーナは窓の外を見たまま答える。

「思ったより、あっさりしているわ」

「もっと大ごとになると思っておりました」

「私も」

「ですが」

「ですが?」

「静かすぎて、少し怖いです」

セレフィーナはそこで初めて、リズを見た。

「どうして」

「このまま何も起きない方が、かえって不自然に思えてしまって」

なるほど、と思う。

大きな騒ぎになっていないからこそ、余計に不気味なのだ。見えないまま、用意された流れだけが進んでいるようで。

「そうね」

セレフィーナは再び外へ目を向ける。

学園へ続く通りは、今日は曲がらない。王宮へ向かう車列とも交わらない。いつもなら自分が立つはずの場所を、ただ遠ざかっていく。

本当に降りるのだ、と思った。

そこに少しだけ喪失感が混じるのは、自分でも意外だった。王都に未練があるわけではない。ここには嫌なものも多かったが、自分の立場も、役目も、時間も確かにあったのだ。

それを置いて出る。

それは解放であると同時に、切断でもあった。

やがて馬車は王都の門へ近づいていく。石畳の響きが少し広い場所へ抜け、衛兵の声が遠くに聞こえ始めた。

そこで、御者がごく小さく手綱を引いた。

「……?」

セレフィーナが視線を上げると、街道脇に一頭の馬が止まっていた。

その隣に立っていたのは、見慣れた黒髪の青年だった。

ノア・ヴェルナー。

伯爵家次男にして、宮廷書記官見習い。王都の空気を面白がるような目で見ているくせに、肝心なところでは人の言葉の意味を拾う男だ。

「まあ」

セレフィーナが思わず声を漏らすと、リズが顔をしかめた。

「あれは……偶然ではございませんね」

「ええ」

「明らかに待っております」

「そうね」

馬車が完全には止まりきらぬ程度のゆるやかさで速度を落とす。ノアは、いかにも通りがかっただけという顔で帽子の縁に触れた。

「おはようございます、セレフィーナ様」

そんな時間ではないでしょう、と言いたくなるほど整いすぎた挨拶だった。

「ノア様」

セレフィーナは窓を少し開ける。

「こんなところで何を?」

「さて。卒業前に帰郷なさる侯爵令嬢を見かけたものですから」

さらりと言いながら、その目は明らかに何かを察している。

「ずいぶんお早いのね」

「早起きは得意です」

「初耳ですわ」

「今、作りました」

その答えに、セレフィーナは思わず息を漏らした。

こんな時にさえ軽口を忘れないのは、この男らしい。

「それで」

ノアは馬車の窓越しに首を傾げる。

「卒業前に帰郷ですか」

その問いには探る響きがあった。けれど責める色はない。意味を拾いに来ているだけだ。

セレフィーナはほんの少しだけ口元を上げた。

「公演中止ですの」

「は?」

間の抜けた声が返る。

リズが小さく目を伏せた。たぶん笑いをこらえている。

セレフィーナはそのまま言った。

「主演がいなくなれば、幕は上がらないでしょう?」

数秒、ノアは黙った。

それから、やれやれとでも言いたげに肩をすくめる。

「……なるほど。そう来ましたか」

「思い切ったのは向こうですわ」

「確かに。そこまで綺麗に配役しておいて、本人が黙って立っていてくれると思ったなら、少し楽観的すぎる」

「少し、ではない気もしますけれど」

「ええ、かなり」

ノアは小さく笑った。

その軽さに、張っていた空気が少しだけ抜ける。

「では、僕は王都で上演され損ねた劇の後始末でも見物しておきます」

「悪趣味ね」

「今さらでしょう?」

「否定はしません」

ノアは笑みを深くしたが、その奥の目だけは冷静だった。

「お気をつけて、セレフィーナ様。置いてきた舞台は、案外きれいには止まらないかもしれません」

「でしょうね」

その一言だけで十分だった。

ノアは全部は知らない。けれど、今の王都が“ただの婚約候補の帰郷”で済むようなものではないとわかっている。

だからここへ来たのだ。

セレフィーナは窓を閉める前に、最後にひとつだけ言った。

「ノア様」

「はい?」

「見物するだけではなく、ちゃんと見ていてくださる?」

「もちろん」

返事は軽いのに、不思議と信用できた。

窓を閉める。馬車は再び動き出す。

王都の門が近づいてくる。

高い石壁の影が馬車を包み、衛兵の声が短く交わされ、車輪が境目を一つ越えた。

その瞬間、石畳の硬い響きが少し変わった。

王都の内側の、整えられた音ではなくなる。

門を抜けたのだと、身体が先に気づいた。

セレフィーナはそこでようやく、深く息を吸った。

朝の空気は冷たく、少し土の匂いが混じっていた。王都の内側で吸っていた空気より、ずっと薄くて、まっすぐ胸に入ってくる。

それだけのことなのに、肺の奥がひどく驚く。

「……お嬢さま」

向かいでリズが、ぽつりと言った。

「なに?」

「いま、人間らしいお顔です」

「それは褒めているの?」

「最大級に」

セレフィーナは、ほんの少しだけ笑った。

大きくではない。けれど確かに、自分の口元がゆるむのを感じた。

まだ何も終わっていない。王都を出たからといって、すべてが消えるわけでもない。噂は残るだろうし、学園も、王子も、あの中庭の空気も、向こう側にはまだある。

それでも。

少なくとも今、自分はあの舞台の上にはいない。

そのことだけで、胸の内側に一つ、確かな空きができた。

「アシュクロフト侯爵令嬢、今朝方王都を離れました」

低く抑えた報告が、神殿の奥まった一室に落ちた。

窓は高く、差し込む光は細い。香が焚かれているせいで空気は澄んでいるのに、なぜか息苦しい部屋だった。壁際には祝祭用の白布が畳まれ、長机には未開封の書状が並んでいる。

報告を受けた高位司祭は、手元の文書からゆっくり顔を上げた。

「名目は」

「領地視察と静養にございます」

「侯爵家の正式な判断ですか」

「はい」

一拍。

高位司祭は感情を荒立てることなく、静かに文書を閉じた。

「……代役では、務まりません」

報告した神官は息を詰めた。叱責されたわけではない。声も穏やかなままだ。なのに、その一言だけで部屋の温度がわずかに下がった気がした。

高位司祭は細い光の差す窓辺へ目を向ける。

「予定が狂いましたね」

その声音には苛立ちすらなかった。

だからこそ、不気味だった。

王都を離れた。それだけのことのはずなのに、彼らの受け止め方はあまりにも重い。

まるで一人の令嬢が帰郷したのではなく、何か決まっていた仕組みそのものが、一枚剥がれ落ちたかのように。

馬車は王都を遠ざかり、街道を進んでいく。

城壁は少しずつ小さくなり、朝の光はようやく世界をはっきり照らし始めていた。

セレフィーナは窓の外を見たまま、そっと目を細める。

先に舞台から降りる。

口にすれば皮肉めいた話だった。

けれど本当に必要だったのは、きっとそれだけだったのだ。

焼かれるために立つくらいなら、幕が上がる前にいなくなればいい。

それで王都が困るのなら、最初からあの舞台は、誰か一人に頼りすぎていたのだろう。

セレフィーナは外套の襟を少し引き寄せ、静かに座り直した。

王都の門を越えた今、少なくともあの中庭の続きを演じる場所からは離れられた。

けれど向こう側では、別の形のざわめきが、もう動き始めているのだろう。