軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第39話 前へ出される子

学園の北回廊に面した小さな休憩所は、静かな場所のはずだった。

けれど、その日の午後のそこには、妙に息の詰まるやり取りがあった。

「ありがとう、リリアさん。やっぱりあなたがいると違うわ」

学園付きの婦人が、やわらかな笑顔で言った。

その前に立つ少女も、やわらかく微笑み返す。けれど、その口元とは裏腹に、指先だけがきゅっと固く重なっていた。

「いえ、そんな……私、花を置いただけで」

「それで十分なのよ。難しいことは何もないわ。ただ、そこにいてくだされば」

その言い方が、ミレイアには嫌にはっきり聞こえた。

ただ、そこにいてくだされば。

頼みごとの形をしているのに、中身はずっと曖昧だ。

何をしてほしいのかは言わない。

けれど断りにくいように、先に“あなたが必要”だけを置いてくる。

少女は困ったように笑って、小さく頷いた。

「……はい」

「ありがとう。本当に助かるわ」

婦人は満足そうに去っていく。

残された少女は、すぐには動かなかった。窓際に置かれた花瓶のそばで、ほんの一瞬だけ、ひどく疲れた顔をした。

その顔を見た時には、もうミレイアは歩き出していた。

「お疲れさまです」

声をかけると、少女ははっとしたように振り返った。

「あ……はい」

「少し、お疲れのように見えたので」

「そんなことは」

反射的に否定してから、少女は少しだけ困ったように笑った。

「……あるかもしれません」

その答え方が、妙に正直だった。

近くで見ると、少女は派手ではない。けれど目を引く。淡い蜂蜜色の髪をゆるくまとめ、飾り気の少ない服をきちんと着ている。華やかさではなく、そばに置いた時の収まりのよさで人の目に残る顔立ちだった。

「ミレイアです」

「あ……リリア・セヴランです」

名乗ると、リリアの目がほんの少しだけ揺れた。舞踏会のあと、学園でもミレイアのことは知られているのだろう。だが、そこにあったのは好奇心というより、どう接すれば失礼でないかを考える緊張だった。

「少し座りませんか」

ミレイアが言う。

「すぐ呼ばれるかもしれませんが……」

「呼ばれるまでで」

「……はい」

二人は窓際の椅子へ腰を下ろした。

春の光が白い壁にやわらかく広がっている。休憩所そのものは穏やかだった。なのに、リリアの肩だけが少し強張って見える。

「さっきの方、よく頼みごとをなさるんですか」

ミレイアが聞くと、リリアは曖昧に笑った。

「最近は、少し」

「大変ですね」

「いえ、大したことではありません」

そう言ってから、リリアは自分で少しだけ眉を寄せた。

「……たぶん、そう言う癖がついてしまっているんです」

ミレイアはその言葉に、胸の奥が小さく痛むのを感じた。

「断りにくいですか」

「はい」

驚くほど素直な返事だった。

「私にしかできないことではないんです。でも、あなたが前にいると場が和むとか、あなたがいると皆が落ち着くとか、そう言われると……嫌だと言うほどではない気がして」

「ええ」

「それに、そう言っていただけるのは、ありがたいことでもあるので」

ありがたい。

その言葉に、ミレイアは思わず息を止めた。

助けていただいてありがたい。

前へ出していただいてありがたい。

気にかけていただいてありがたい。

そう思わなければいけないような空気の中で、自分が何に苦しかったのかをうまく言葉にできなかった頃を、身体が先に思い出す。

けれど今回は、その痛みへ沈まなかった。

「目立つのは、お好きですか」

ミレイアが聞くと、リリアはすぐに首を振った。

「いいえ。あまり得意ではありません」

「そうなんですね」

「人前で何かをするより、端で不足を埋める方が楽なんです。でも、最近は前の方へ呼ばれることが増えて」

リリアは自分の膝の上で指を重ね直した。

「私、そんなに人の気持ちを落ち着かせるような立派な人間ではないのに、そういう役を期待されると……少し、息苦しくなります」

役。

リリアはその言葉を使わなかった。

でもミレイアには、今の話がそうとしか聞こえなかった。

この子なら場に似合う。

この子が前にいれば整う。

この子なら和む。

それは褒め言葉のようでいて、本人の意思ではなく、置いた時の都合ばかりを見ている言い方だ。

回廊の向こうで、先ほどの婦人が別の相手へ話している声が聞こえた。

「セヴラン嬢は本当に感じがいいの。ああいう子が一人前にいると、場が自然と落ち着くでしょう?」

その声で、ミレイアの中の何かがはっきり繋がった。

前に出される子。

守られるべき子。

和ませる子。

祝福の場に似合う子。

それは昔、自分へ向けられていた視線とよく似ていた。

あの時、自分は何も言えなかった。

ありがたいと思わなければいけない気がして、苦しいと言う方が間違っているように思えていた。

誰も、無理なら断ってもいいと教えてくれなかった。

「リリアさん」

ミレイアは、ほとんど考えるより先に言っていた。

「無理なら、断ってもいいんですよ」

リリアが目を見開く。

「断っても……」

「ええ」

「でも、私がいると助かると言われると」

「それでもです」

ミレイアは静かに続けた。

けれど、自分でも驚くほど、その声には迷いがなかった。

「やわらかく見える人が、いつも引き受けなくていいんです」

「……」

「前にいると場が和むと言われても、それがご自分にとって苦しいなら、引き受けなくていいんです」

リリアはすぐには答えなかった。

長い睫毛が、春の光の中で一度だけ震える。

「そんなふうに考えたこと、ありませんでした」

「私も、前はありませんでした」

ミレイアは少しだけ笑った。

自分の言葉が、ただの綺麗事になっていないかはわからない。

それでも、黙って見送るよりはずっとましだと思った。

「ありがたいと思うことと、無理をしていないことは、同じじゃありません」

「……はい」

「だから、嫌だと言うほどではない、だけで決めなくてもいいんです」

ミレイアは息を吸った。

「ご自分がどうしたいかを、後回しにしすぎないでくださいね」

リリアはしばらく黙っていたが、やがて本当に小さく頷いた。

「ありがとうございます」

その声には、まだ迷いがある。

けれど、迷いの向きが少し変わっていた。

今までは、断るという発想そのものがなかったのだろう。そこへ初めて、別の道があると置かれた顔だった。

やがて回廊の向こうから、リリアを呼ぶ声がした。

「あ、はい」

立ち上がりかけたリリアは、ふとミレイアを見た。

「すぐには難しいかもしれませんけれど……少し、考えてみます」

「ええ」

「私、本当に前に立ちたいのかどうか」

その言葉に、ミレイアはやわらかく笑った。

「それで十分だと思います」

リリアが去っていく背中は、来た時と同じように控えめだった。けれど、ただ流されるだけの軽さではなくなっているようにも見えた。

ミレイアはしばらくその場に座ったまま、窓の外の光を見ていた。

胸の奥には、少し遅れて熱が来ていた。

あの時の自分を、今さら救うことはできない。

でも、だからこそ、目の前の誰かには言いたかった。

それはたぶん、親切だけではない。

後悔に近い必死さも混ざっていた。

それでもいいと、今は思えた。

その夕方、ミレイアは王都屋敷へ戻ると、すぐにセレフィーナを訪ねた。

セレフィーナは小さな会議室で資料を広げていた。机の上には学園側の記録と会計の写しが並び、いくつかの頁には細い紙片が挟まれている。エステル・ヴァレニエの名も、そこにあった。

「お忙しいところ、すみません」

「構わないわ」

セレフィーナは顔を上げた。

「何かあったのね」

「はい」

ミレイアは向かいへ座り、今日あったことを順に話した。

リリア・セヴランという少女のこと。

前にいると場が和むと言われていたこと。

本人は目立つのが得意ではないのに、断りにくそうだったこと。

頼まれる理由が、能力や意思ではなく、置いた時の“収まりのよさ”に見えたこと。

そして、自分が初めて「断ってもいい」と言ったこと。

セレフィーナは一言も挟まずに聞いていた。

だが、ミレイアが最後まで話し終えた時、その指先は机の上の一枚を静かに押さえていた。

「たぶん」

ミレイアは軽く指を握る。

「押し出され始めています」

「……そう」

「本人は、まだそこまではっきりわかっていないと思います。でも、周りはもう」

「ええ」

セレフィーナは、机の上の紙を少しだけ持ち上げた。

「こちらは、引かされる側を作り始めている」

ミレイアはその紙を見る。

エステル・ヴァレニエ伯爵令嬢。

余白には、やはり“硬い”“場を荒立てる”といった印象の言葉が並んでいる。

その下に、もう一枚、別の書類があった。

学園側の行事補佐候補一覧。

そこには小さく、神殿側確認済みを示す印が押されている。さらに端には、細い整った字で一言だけ添えられていた。

雰囲気の調和を重視して人選のこと。

名前はない。

けれど、誰かの手がもう動いている。

前へ出される子。

引かされる子。

それぞれ別の場所で、別のやわらかい言葉を使って。

けれど、並べてみれば、その形はあまりにもよく似ていた。

セレフィーナはその書き込みを見たまま、静かに言った。

「始めるつもりなのね」

その声音に、怒りはあっても熱はなかった。むしろ冷えているからこそ深い怒りだった。

「今度は、もっと穏便に」

「はい」

ミレイアは頷く。

「たぶん、前よりずっと見えにくく」

会議室の窓の外では、王都の夕方が少しずつ青く沈んでいく。

机の上に並ぶ紙はまだ静かだ。

何も決まっていないようにも見える。

けれど、もう形は出始めている。

前へ出される子と、引かされる子。

並べれば、それはあまりにも見覚えのある形だった。