軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第25話 殿下、領地に来る

王家の紋章を掲げた馬車が侯爵領の館へ入ったのは、午後の日差しがゆるやかに傾き始めた頃だった。

門番の報告は短く、それでいて十分すぎるほど重かった。

「王太子殿下、御来訪にございます」

その一言で、館の空気は目に見えないまま張りつめた。

誰も慌てて走ったりはしない。使用人たちはいつもどおりの足取りで動き、声も荒げない。けれど、盆を持つ手の角度も、廊下を曲がる足音も、自然と整いすぎている。

侯爵家として、王家の来訪を無下にはできない。

それが王子本人であれば、なおさらだった。

報せを受けたセレフィーナは、開いていた書類の上にそっと指を置いた。机の上には、昨日まで読んでいた祭礼文と席次の控えがまだ重なっている。

神殿の使者の次は、王家本人。

順番としては、ありえなくはなかった。

それでも、実際に来たのだと聞けば胸の奥がひやりと冷える。怖いのではない。ただ、いよいよここまで来たのだとわかる冷たさだった。

「思ったより早かったね」

窓辺で外を見ていたノアが、半ば独り言のように言った。

「ええ」

セレフィーナは静かに返す。

「王都は、文書のやり取りで済ませられないほど困っているのでしょう」

ノアは薄く笑ったが、その笑いに軽さはなかった。

「殿下が自分で来るってことは、そういうことだろうね」

リズがすぐに控えめな声で告げる。

「応接の用意は整えております。旦那様にもご報告が入っておりますので、まずは侯爵家の客としてお迎えする形に」

「ええ。そうしてちょうだい」

セレフィーナは立ち上がった。

以前なら、胸の内にもっとざわつきがあったはずだ。王子に呼ばれれば応じ、話したいと言われれば受けるしかないような、見えない傾きがいつもあった。

けれど今は違う。

ここは王都ではない。

ここは侯爵家の領地で、自分はこの家の娘で、もう勝手に舞台へ押し戻されるつもりはない。

「お嬢さま」

リズが衣の襟元を整えながら、小さく言った。

「お一人で応じる必要はございません」

「ええ」

「何を求められても、まずは侯爵家の客として受ける形でよろしいかと」

「そのつもりよ」

答えながら、セレフィーナは鏡に映る自分を見た。

顔色は悪くない。王都にいた頃より、呼吸も浅くない。

それだけで少し可笑しかった。

ルシアンがようやくここまで来た時、自分はもう、彼が知っている頃のセレフィーナではないのだ。

応接室へ入ると、ルシアンはすでに立って待っていた。

王都で見慣れた端正な立ち姿。整った衣服。姿勢の良さ。王子としての気品は少しも崩れていない。

ただ、その気品の下にある余裕だけが、以前より薄いように見えた。

顔色が悪いわけではない。

疲れ切っているわけでもない。

それでも、目の奥にわずかな硬さがある。

王都で何かが噛み合っていないのだと、それだけでわかった。

セレフィーナが礼を取ると、ルシアンもすぐに応じた。

「急な訪問になってすまない」

「王家のご来訪をお迎えするのは、侯爵家の務めにございます」

「そういう言い方をしなくてもいい」

反射的に出たらしいその言葉に、セレフィーナはほんの少しだけ目を上げた。

ああ、まだそこにいるのだ、と思った。

彼はもう王都の混乱を感じている。セレフィーナがいないことで何かが狂っているとも思い始めている。

けれどそれでもなお、二人の間には以前の延長が残っていると、どこかで信じている。

「お顔色は、前より良いように見える」

ルシアンが言った。

「領地で少しは休めているのか」

「こちらの空気には助けられております」

「それならよかった」

言葉そのものは気遣いだった。

けれど、その気遣いもセレフィーナにはどこか遠く聞こえる。

王都にいた時、自分がどれだけ呼吸を削っていたか。どれだけ眠れなかったか。どれだけ言葉を選び、角を立てないよう、空気を壊さないようにしていたか。

その間、彼は見ていなかった。

見ていなかった人の気遣いは、今になって受け取るには少し遅い。

「領地でのご静養が実を結んでいるようで、安心いたしました」

セレフィーナは礼を守ったまま返す。

「ご心配をいただき、ありがとうございます」

その返答があまりにも丁寧だったのか、ルシアンは一瞬だけ言葉を失った。

以前なら、もう少しやわらかい応答が返ってきたはずだとでも言いたげな顔だった。

だが今のセレフィーナは、彼の戸惑いを埋めるために距離を縮めるつもりはない。

数拍の沈黙のあと、ルシアンが低く言う。

「……少し、きみと二人で話したい」

来た、と思った。

王子としての来訪でありながら、結局はそこへ寄ってくる。

個人的な対話で、以前の位置へ引き戻せると思っている。

セレフィーナは即答しなかった。わざとではない。問いの形をきちんと受け止めたうえで、どう返すべきかがもう見えていたからだ。

「殿下」

静かに口を開く。

「こちらは侯爵家の館にございます」

「わかっている」

「ですので、お話は侯爵家の客人として、正式な場でお受けいたします」

「正式な場でなくてはならないのか」

「ええ」

セレフィーナはまっすぐにルシアンを見た。

「以前のように、というわけにはまいりません」

その一言で、応接室の空気がさらに薄く張った。

ルシアンはすぐには言い返さなかった。

その沈黙の中に、ようやく少しだけ現実が届いた気配がある。

セレフィーナは続けた。

「必要なお話であれば、侯爵家の客としてお聞きします。けれど、私的な場での面会を当然のようにお受けすることはできません」

「当然のように、か」

ルシアンの声音が少しだけ沈む。

「私は、そんなつもりでは」

「そうであっても、形は残ります」

それはきつい返しだったかもしれない。

だが、もう曖昧に笑って飲み込むつもりはない。

ルシアンは息を吐いた。

そこで初めて、王子ではなく一人の若い男らしい焦りが、ほんの少し表へ滲んだ。

「セレフィーナ」

彼の声は低い。

「王都はいま、ひどく混乱している」

「そうでしょうね」

「舞踏会も、学園も、社交界も、何もかもが妙に噛み合わない」

「……」

「きみがいなくなってから、ずっとだ」

その言葉は、やっと本音に近かった。

けれど、セレフィーナの胸へ落ちたのは安堵ではない。

遅い、という静かな痛みだった。

それを、どうして私がいる間に気づかなかったのかしら。

心の中でそう返した声は、自分でも驚くほど冷静だった。

ルシアンが困っているのはわかる。王都が噛み合わないのも事実なのだろう。

けれど、その“噛み合わなさ”は、セレフィーナがずっとそこにいて、噛み合わせ続けていたからこそ見えなかったものだ。

彼女がいる間、彼はそれを当然と思っていた。

だから、いなくなって初めて困る。

その遅さが、痛いほどよくわかった。

「殿下がお困りであることは、お言葉から伝わります」

セレフィーナは礼を崩さずに言う。

「ですが、そのことと、私が以前と同じ形で応じることは別にございます」

「私は、以前と同じに戻せと言っているわけではない」

「けれど、まだ“話せば戻る”と思っていらっしゃるのではありませんか」

ルシアンの表情が、そこで初めて揺れた。

図星だったのだろう。

彼は完全な愚か者ではない。だが、見ていなかった人間特有の遅れがある。自分の足元で何が支えられていたか、自分がどれほど一方的に“そこにいる人”へ寄りかかっていたか、その認識がようやく追いつき始めたところなのだ。

「……そう簡単に言えることではない」

ルシアンは少し掠れた声で言った。

「だが、きみがいないと、何もかもが噛み合わないんだ」

応接室が静まり返る。

侯爵家の応接室。

王子の来訪。

礼を守った正式な場。

その中でこぼれたその一言は、王都の焦りそのもののようだった。

セレフィーナは、彼を見返した。

言葉に詰まったわけではない。

ただ、その台詞が、あまりにも遅くて、あまりにも正直で、そしてあまりにも彼らしかった。

それを、どうして私がいる間に気づかなかったのかしら。

もう一度、心の中で同じ言葉が浮かぶ。

王都で息を詰めていた自分。

空気を整え、噂を受け、場を支え、それでも立ち続けていた自分。

その間、彼は見ていなかった。

今ようやく困っているのだとしても、それはやはり遅い。

「お話は、侯爵家の場で正式にお受けいたします」

セレフィーナは静かに言った。

「ですから殿下も、どうかその形でお言葉をお選びくださいませ」

それは拒絶ではない。

だが、以前の場所へは戻らないという、はっきりした線引きだった。

ルシアンは何か言いかけ、そして飲み込んだ。

館の外で風が木々を揺らす音が、遠くかすかに聞こえる。

王都のようなざわめきではない。ただ、風が風として通り過ぎていくだけの音。

その音を聞きながら、セレフィーナは自分の呼吸が乱れていないことを知った。

ついに来た。

けれど、もう以前のようには押されない。

それだけで十分だった。

応接室の空気はまだ重い。

だが、その重さの中で立っている自分の足は、思ったよりもしっかり床を踏んでいた。