軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第22話 神殿の使者

神殿の使者が侯爵領へ着いたのは、空がもっとも明るく見える昼前だった。

知らせが入った瞬間、館の空気は目に見えないまま一段だけ張った。

誰も騒がない。使用人たちはいつもどおりの足取りで動き、声も荒げない。けれど、銀器を運ぶ手つきも、廊下を曲がる角度も、わずかに硬い。

高位司祭の名代。

その肩書きが持つ重さを、侯爵家で知らぬ者はいない。

しかも相手は王都の本邸ではなく、わざわざ領地まで来たのだ。礼儀の形を取っていても、それだけで十分に異常だった。

自室でその報せを聞いたセレフィーナは、鏡の前で自分の顔を一度だけ確かめた。

怯えている顔はしていない。怒ってもいない。ただ、冷えていた。

「客間へお通ししております」

リズが衣の襟元を整えながら告げる。

「ノア様は?」

「別室に下がっていただきました。今回はお嬢さまと神殿の面会でございますから」

「そうね。その方がいいわ」

神殿は、見るべきものしか見ない。

ならばこちらも、見せるべきものだけを見せればよい。

「お嬢さま」

リズが低く言った。

「曖昧なお返事は不要でございます」

「ええ」

「言葉尻を拾われる可能性がございます」

「わかっているわ」

セレフィーナは立ち上がった。

神殿の怖さは、剣や怒声の形を取らない。

祈りと祝福と配慮の顔をして、決められた場所へ戻ることを求めてくる。

だからこそ厄介だった。

客間に通された使者は、五十代半ばほどに見えた。

神殿の衣は華美ではない。だが、布の質と仕立てだけで高位の側にいる者とわかる。髪はきちんと撫でつけられ、指先まで静かだった。笑みも浅く柔らかい。けれど、その柔らかさは相手を安心させるためというより、断りにくくするためのものに見えた。

セレフィーナが入ると、使者は完璧な角度で一礼した。

「お目にかかれて光栄に存じます、アシュクロフト令嬢。突然の来訪、どうかお許しくださいませ」

「ようこそお越しくださいました」

「ご静養の折にお時間を頂戴しましたこと、心苦しく思っております」

「構いませんわ」

席を勧めると、使者はもう一度礼をして腰を下ろした。声も所作もすべて整っている。神殿で長く人を説いてきた者の話し方だった。

「お加減はいかがでしょうか」

「領地の空気に助けられております」

「それは何よりでございます。神殿もまた、常に令嬢のご平安をお祈りしております」

平安。

その言葉が、なぜか少しもやさしく聞こえなかった。

リズが茶を置く。使者はきちんと礼を述べ、カップにはすぐ手をつけない。まず言葉を尽くすと決めているのだろう。

「王都はまもなく、祈りに満ちた季節へ入ります」

使者は穏やかにそう切り出した。

「学園の卒業舞踏会、そして星冠祭。若き方々の門出と祝福の巡りが重なる、尊い時節にございます」

「ええ」

「このような時には、しかるべき方々が、しかるべき場にお立ちになることが大切でございます」

しかるべき方々。

しかるべき場。

セレフィーナはその言い回しを、心の中で静かに反復した。

「王都はいま、多くの心が祈りへ向いております。正しき形が整うことを、皆が願っております」

「……そうでしょうね」

「ええ。そして、そのためには令嬢のお立場が必要なのです」

来た、とセレフィーナは思った。

まだ命令ではない。圧も表には出ていない。

けれど、最初からここへ着地するために言葉を積んでいたのだとわかる。

「私の立場」

「はい。アシュクロフト令嬢は、ご自身が思われている以上に、多くの方の目に映るお方でございます」

「そうかしら」

「王都は、しかるべき席にしかるべき方があることで、初めて安らぎを得るものです」

安らぎ。

今度は、はっきりと不快だった。

使者は続けた。

「令嬢がご体調を崩され、ご静養に入られたことは、まことに惜しまれております。ですが、もしお心身の状態が整いつつあるのであれば」

「……」

「ぜひ王都へお戻りいただきたいのです」

それは勧める声音だった。

懇願にも命令にも聞こえないよう、ひどく丁寧に調整された声。

「卒業舞踏会と星冠祭のあわいは、そう何度も巡るものではございません」

「ええ」

「今ここでお戻りにならないのは、まことに惜しまれます。皆が正しき形を求めておりますゆえ」

正しき形。

その言葉を聞いた瞬間、セレフィーナの中で何かが冷たく固まった。

使者は最初から今まで、一度も自分の意思を尋ねていない。

具合はどうか。休めているか。領地で何を見つけたか。

そうした問いは、表面を撫でるために使われただけだ。

本当に確かめたいのは、ただひとつ。

戻るか。

立てるか。

所定の位置へ復帰可能か。

それだけだった。

「ご配慮には感謝いたします」

セレフィーナは、ゆっくりと言葉を置いた。

「神殿が私の心身を気遣ってくださることも、王都の時節が重いものであることも、理解しております」

「ありがとうございます」

「ですが、現時点で王都へ戻るつもりはございません」

使者の微笑みは崩れなかった。

崩れないまま、わずかに静まる。

「令嬢」

「私はいま、領地におります。ここでの務めもございます」

「それはもちろん尊いことにございます。ですが」

「私の立つ場所は、少なくとも私が決めます」

使者の目が、初めて少しだけ細くなった。

ほんのわずかな変化だった。だが、祈りの顔の下にある硬さが見えた気がした。

「神殿としては、令嬢のご存在が王都に必要であると考えております」

「神殿のお考えは承りました」

「では」

「ですが、その必要が私の意志を先回りして決まることはございません」

客間が静まり返る。

リズは一歩も動かなかった。

茶器の音ひとつ立たない。

使者は数拍の沈黙のあと、やはり柔らかく言った。

「令嬢は、思っておられる以上に重い位置にいらっしゃいます」

「そうなのでしょうね」

「だからこそ、皆が惜しんでおります」

「惜しまれているのは、私でしょうか。それとも」

セレフィーナはそこで、ほんの少しだけ間を置いた。

「私の空いている場所でしょうか」

使者は答えなかった。

答えないこと自体が、答えに近かった。

だがセレフィーナは、それ以上追わなかった。ここで感情を露わにした方が負けだと知っている。

「必要なことがおありなら、どうぞ文書にてお寄せください」

「……承知いたしました」

「王都への復帰についても、現時点でお約束できることはございません」

「重ねてご再考をお願い申し上げます」

「ご心配には感謝いたします」

最後まで礼は崩さない。

使者もまた、それ以上踏み込まずに立ち上がった。

礼をし、惜しむように目を伏せ、静かな声で告げる。

「どうか、皆が願う正しき形が損なわれることのありませんよう」

「祈りは、それぞれの場所で捧げるものでございましょう」

セレフィーナがそう返すと、使者は初めて言葉を継がなかった。

ただ、深く一礼し、客間を辞した。

扉が閉まったあとも、しばらく誰も口を開かなかった。

静けさが戻ったのではない。

使者が持ち込んだ圧だけが、まだ部屋の中に薄く残っていた。

最初に息を吐いたのはリズだった。

「……なんて失礼な」

「失礼ではなかったわ」

「だから余計に不快でございます」

その言い方に、セレフィーナはわずかに目を閉じた。

本当に、そのとおりだった。

怒鳴られたわけではない。脅されたわけでもない。

礼も尽くされた。気遣いの言葉も並べられた。

それなのに、これほど嫌だった。

その理由は、もうはっきりしている。

あの使者は、自分を人として見ていなかった。

心がどう動いたか。何を恐れたか。何を望むか。

そういうものには、まったく興味がない。

見ていたのは、ただ位置だけだ。

戻るべき席。立つべき場。欠けている部品。

そこへ自分が収まるかどうかだけを測っていた。

別室の扉が静かに開き、ノアが姿を見せた。彼は面会の内容をおおよそ聞き取っていたのだろう。いつもなら何か軽口を挟むところだが、今日は珍しく、しばらく何も言わなかった。

「やっぱり、神殿は怖いね」

やがて低くそう言う。

「ええ」

「怒鳴らないし、命令もしない。でも“正しき形”って言葉で、人を元の場所へ押し戻そうとする」

「ええ」

セレフィーナは、まだ使者が座っていた椅子を見た。

整っていた。乱れひとつ残していない。

まるで最初から、そこに人ではなく儀礼だけが座っていたみたいだった。

「あの人たちは」

自分でも驚くほど小さな声が出た。

リズとノアが、同時にこちらを見る。

「私がどうしたいかを、一度も聞かなかった」

その一言で、ようやく胸の中の嫌悪感が形を持った。

祈り。祝福。平安。正しき形。

どれも美しい言葉なのに、その奥には自分の意志が入る余地がなかった。

戻るべきか。

立てるか。

今の季節に間に合うか。

それだけだ。

「ええ」

リズが、はっきりと答えた。

「お嬢さまのお気持ちなど、最初から数に入っておりませんでした」

「入れるつもりもなかったんだろうね」

ノアの声も静かだった。

「だからあれほど丁寧でいられる。相手が人なら、あそこまで形ばかりきれいにはならない」

セレフィーナは窓の外を見た。

領地の空は高く、雲はゆっくり流れている。切り替わりの演出も、祈りの季節も、ここにはない。ただ風が吹いて、木々が揺れているだけだ。

その当たり前の景色が、今はひどくありがたかった。

神殿もまた、舞台装置の側にいる。

しかも王都や学園より、もっと上手に。

もっと丁寧に。

もっと“正しいこと”の顔をして。

だからこそ、あれほど嫌なのだ。

セレフィーナは、ゆっくりと息を吐いた。

嫌悪はもう、疑いではなかった。

はっきりとした輪郭を持って、胸の中に沈んでいる。

ここから先は、もう王都だけの歪みを見ていれば済む話ではない。

神殿が何を祝福の顔で固定しようとしているのか。

それもまた、見に行かなければならない。

そう思った時、指先は不思議なほど冷えていなかった。