作品タイトル不明
第10話 ノアは客席から見ている
ノア・ヴェルナーは、面白い時ほど退屈そうな顔をする。
その日も彼は、王都の石畳をいつもどおりの歩幅で渡っていた。黒髪は風に乱れているが直さない。片手に書簡入れ、もう片方には買ったばかりの薄い焼き菓子。傍から見れば、少し気の利く伯爵家の次男が、朝の用事を軽く片づけているだけだった。
だが、茶会、王宮、神殿。別の場所で起きているはずの小さな目詰まりが、ノアの頭の中で妙に引っかかっていた。
学園の門をくぐったところで、角の向こうから令嬢たちの声が聞こえた。
「昨日も、なんだか疲れましたわ」
「ですわね。誰も間違えてはいないのに」
「ええ。だから余計に困るのよ」
ノアは歩みを緩めず、そのまま通り過ぎる。彼女たちは彼に気づくと、揃って口を閉ざし、綺麗な会釈だけ残して離れていった。
誰も間違えていないのに困る。
いちばん性質の悪い崩れ方だな、とノアは思う。
学園の朝は静かだった。鐘の音が遠くで鳴り、回廊には革靴の乾いた音が細く流れている。いつもなら、その静けさは上品で心地よい。今日は少し違った。誰かが話を切る間が長い。視線が合ってから逸れるまでに、一拍余る。噂になるほどではないが、知らないふりをするには長すぎる沈黙があちこちに落ちていた。
こういう継ぎ目を拾うのは得意だった。
昼前に王宮へ戻ると、その継ぎ目はもっとわかりやすい形で転がっていた。
書記室で顔なじみの先輩が、予定表を前に唸っている。紙面は訂正だらけで、余白が傷だらけだった。
「まだ直してるんですか」
「まだ直してるんだよ」
「熱心ですねえ」
「おまえ、その顔で言うな」
先輩は疲れた顔のまま予定表を突きつけてきた。面会順が書き換えられ、返答の控えが二重になり、案内の付箋が端から端へ移されている。
「昨日のうちに片づいてたはずなんだ。ところが朝になって、伯爵家への返答を先にしろだの、この順番だと角が立つだの、細かいことばかり噛み合わなくてな」
「たいした揉め事でもないのに、ですか」
「たいした揉め事じゃないから疲れるんだよ」
それはそうだ。
ノアは予定表を覗き込み、鼻先で笑った。
「彼女がいれば、殿下が茶を一口すする間に終わっていた雑用でしょうに」
「……ああ」
先輩はそこで初めて、妙に納得した顔になった。
「そういうことか」
「気づいたでしょう」
「いや、気づきたくなかっただけかもしれん」
誰の名も出していないのに通じたのが、少し滑稽だった。
整っている時、人は床が平らなことに礼を言わない。つまずいて初めて、誰かが均していたのだと知る。
そういう種類の働きだったのだろう。アシュクロフト侯爵令嬢のしていたことは。
先輩は予定表をにらみながら、げっそりした声で続けた。
「殿下も今日は機嫌が悪い。原因までは届いてないがな」
「届いたら少しは可愛げが出るかもしれませんね」
「おまえ、本当に口が悪いな」
「口だけです」
口だけなら、まだいい。
午後、神殿付きの下役が書類の束を抱えたまま、珍しく渋い顔をしていた。いつもはもっと、面倒ごとに慣れた顔をする男だ。
「どうしました」
「別に」
「その顔で“別に”は無理でしょう」
「最近のおまえ、妙に嗅ぎ回るな」
「鼻が利くだけですよ」
下役は嫌そうに眉を寄せ、それでも声を落とした。
「神殿が、アシュクロフト侯爵令嬢の件をしつこく聞いてくる」
「ご静養の?」
「ああ。いつ発ったのか、正式な許可はどこから出たのか、体調不良は本当か。二度三度じゃない。あちらから確認が来るたび、こっちが書類を引っ張り出す羽目だ」
「熱心ですねえ」
「熱心で済めばいいがな」
下役はそれだけ言って、書類を抱え直した。
「学園がざわつくのはわかる。王宮の予定が乱れるのもわかる。だが神殿がここまで食いつくのはおかしい」
「ええ」
「何に困ってるのか、あいつらは言わん」
言わないだろう。あの連中は、困っている時ほど顔を動かさない。
ノアは相槌だけ打って、その場を離れた。廊下の窓から差す光が白い。手に持った焼き菓子を口に入れると、ひどく粉っぽかった。朝はもう少しましな味がした気がするのに、今は喉に貼りつく。
気分の問題だな、と自分でわかる。
軽い話なら、こんなふうにはならない。
侯爵令嬢が一人静養に出た。その程度のことで、神殿が何度も書類を確かめ、王宮の下役までうんざりした顔をするはずがない。
ノアは窓辺から中庭を見下ろした。整えられた芝、規則正しい石畳、行き交う人影。表向きは、今日もきちんと王都だ。
けれど内側では、歯車がどこか一枚欠けて、みしみしと音を立て始めている。
セレフィーナは、あの空気の悪さをずっと嗅いでいたのかもしれない。
泥を被せられるのが自分だと気づいて、被る前にするりと抜けた。
「見事なもんだ」
呟いてから、ノアは口の中の甘さを舌で追い払った。
感心している場合でもない。王都の鈍さには呆れるが、呆れて眺めているだけで済む話でもなさそうだった。
誰も必要だと思っていなかった人間が消えた途端、茶会は据わりが悪くなり、予定表は泥棒市の値札みたいにぐしゃぐしゃになり、神殿まで真顔で書類を漁り始めた。
なら、あの令嬢が押しつけられていたのは、婚約候補の役目だけではない。
ノアは最後の一口を無造作に放り込み、手についた粉を払った。
「……さて」
焼き菓子の包み紙をくしゃりと握る。
のんびり便りを待つ段階は、もう過ぎている。
書記室へ戻って短い便箋を一枚もらうか、それともこのまま馬を出す手配をするか。迷うほどでもなかった。
あの侯爵令嬢が領地で何を掴んでいるにせよ、こちらで見えた継ぎ目と突き合わせれば、かなり嫌な絵が出る。
ノアは踵を返した。
退屈そうな顔のまま、足取りだけが少し速くなる。
こういう時に限って、王都は妙に晴れている。気に入らなかった。