軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 揺れるロクサーヌの恋心

ビクトリア王女殿下の帰国報道に、社交界がかつてない狂騒に沸き立つ中。

皮肉にも、私とニコラス様を引き裂いたのは、周囲の噂ではなく、冷酷な『現実の物理的距離』だった。

王太子殿下の幼馴染であり、若き王宮次官。

今回の国家を挙げた歓迎式典の総責任者の一人に指名されたニコラス様は、文字通り寝る間も惜しんで王宮に缶詰めになっていた。

これまで、どんなに激務であっても週に一度は必ず私を訪ねてくれた。

毎日、私の体調を気遣う短い手紙と、庭園で摘まれたという季節の小さな花が必ず屋敷に届けられていた。

それが――この二週間、ぴたりと途絶えていた。

手紙の一通すら、届かない。

それは、彼がそれほどまでに『ビクトリア殿下を迎える準備』に全ての神経を注いでいるという何よりの証拠だった。

「お嬢様、お食事が進んでいらっしゃいませんわ。お口に合いませんでしたか?」

侍女の言葉に、私はハッとしてスープを口に運んでいたスプーンを止めた。

見れば、お気に入りの冷製スープはほとんど減っていない。

「いいえ、そんなことはないの。少し……考えごとをしていただけよ」

私は力なく微笑み、スプーンを置いた。

胸の奥が、冷たい氷を押し当てられているかのように、ずっと重く、ズキズキと痛む。

会えない時間が増えれば増えるほど、私の頭の中は、あのニコラス様のアメジストの瞳と、私に向けられる完璧な微笑みで満たされていく。

(どうして……こんなに、あの人のことばかり考えてしまうの?)

窓の外の夜空を見上げ、私は小さく息を吐いた。

今までは、「これは完璧なお飾りとしての防衛線よ」「浮かれちゃダメ」と、自分に言い聞かせることで正気を保てていた。

彼は王女を忘れられない可哀想な人。私はその傷を癒やすための代償行為。そう割り切っていたはずだった。

なのに、あの日、馬車の中で見た彼の『暗い瞳』が、どうしても脳裏から離れない。

「君にとっては、僕が誰と会おうが、どうなろうが、関係ないということだね」

あの時の、怒りと、絶望と、何かを堪えるように歪んだ彼の顔。

(関係ないわけ、ないじゃない……!)

きゅっと、胸元のドレスを握りしめる。

私は、あの日からずっと、自分の心に嘘を吐いていたのだ。

傷つきたくなくて、身代わりだと割り切ることで自分を守っていたけれど。

本当は――。

「私、あの人のことが、好きなんだ……」

誰もいない自室で、ぽつりと溢れた言葉は、涙のように切なく響いた。

完璧なエスコートに胸を躍らせていたのも、彼が私の瞳と同じアクアマリンを選んでくれたことに歓喜したのも、すべては「お飾りとしての感謝」なんかじゃない。

一人の少女として、ニコラス・トーラスという一人の男性に、狂おしいほど恋をしていたのだ。

好きだから、会えない時間がこんなに苦しい。

好きだから、毎朝、届かなくなった手紙を待ってしまう。

好きだから――彼が今、かつての最愛の女性のために命を削って働いているのだと思うと、嫉妬で頭がおかしくなりそうになる。

「でも、彼の中には……別の女性が、いるのに」

鏡に映る自分の顔は、ひどく惨めで、今にも泣き出しそうだった。

恋に溺れたら後で苦しむのは自分だと分かっていたのに、ブレーキはもう、完全に壊れてしまっていた。

ニコラス様のあの過剰なまでの優しさは、きっと、私を愛しているからではない。

初恋の王女を失い、ぽっかりと空いてしまった心の穴を、私の存在で必死に埋めようとしていた、彼の寂しさの表れだったのだ。そして今の彼は、その本物の穴《王女》が戻ってくることに、ひどく心を乱されている。あの日、馬車の中で見せたあの狂気は、過去の恋に引き裂かれそうになっている彼の悲鳴だったに違いない。

(私は、どこまでいっても『お飾り』。彼の本当の光にはなれない……)

せめて、ビクトリア殿下が滞在されている間だけでも、彼の負担になりたくない。

私が婚約者として無様な嫉妬を見せれば、王宮次官としての彼の立場に泥を塗ることになる。

彼を愛してしまったからこそ、私は、彼の完璧な『仮面』を最後まで守ってあげたかった。

「しっかりして、ロクサーヌ。泣いちゃダメ。……私は、彼の婚約者なんだから」

私は、自分の恋心を胸の奥深く、誰の手も届かない暗闇へと閉じ込めた。

ニコラス様が過去の恋に決着をつけるその日まで、私は完璧な微笑みを絶やさずにいよう。それが、彼を好きになってしまった私にできる、最後の『お飾り』としての役割だから。

切ない決意を秘めた少女の想いとは裏腹に、王宮では、最後の仕上げを終えたニコラスが、血走った眼で馬車へと飛び乗ろうとしていた。

二週間の生き地獄《ロクサーヌ断ち》を経て、彼の理性のタガは、すでに限界を迎えていた――。