作品タイトル不明
第7話 忍び寄る影、王女の帰国報道
「ねえ、聞いた? 隣国のローゼンタール王国へ嫁がれた、ビクトリア王女殿下が近々この国へ戻っていらっしゃるのよ」
「まあ! では、あの『至高の悲恋』の主役たちが、ついに再会されるのね……!」
学園のサロン、あるいは放課後のお茶会。
婚約から一年が経とうとするこの時期、社交界はその一色のニュースで俄然色めき立っていた。
隣国へ嫁いで三年。
風の噂では、二十一歳になられたビクトリア殿下は十歳年上のローゼンタール国王との間に不和もなく、それどころか側妃の子である第一王子とも良好な関係を築かれていると聞いていた。
今回の里帰りの名目は、その第一王子殿下の婚約成立に伴う、両国の同盟強化のための記念式典。ビクトリア殿下は、国王の全権名代として、華々しく母国の土を踏むのだという。
三年の歳月を経て、より一層美しく、高貴な大人の女性となって帰還する、かつての想い人。
当然、社交界の関心は「現在の婚約者である私」と「ニコラス様」、そして「王女殿下」の三人の関係へと集中した。当時の学園で、一年間だけ燃え上がったとされるあの身分違いの恋。その恋の結末を、誰もが今でも引きずっているのだ。
「ロクサーヌ様、その……大丈夫、ですの?」
学園の休み時間、友人令嬢が心配そうに私を覗き込んできた。彼女の瞳には、同情と、ほんの少しの好奇心が入り混じっている。
「何がですの、エミリー様?」
「だって、ニコラス様は王宮次官でしょう? 今回のビクトリア殿下の歓迎式典や、滞在中の警護の総責任者は、トーラス侯爵家……いえ、ニコラス様が務められると伺いましたわ。かつて愛し合った二人が、王宮の執務室で二人きりになる機会も増えるということですもの……」
エミリーの言葉に、私の心臓がドクリと嫌な音を立てた。
知っていた。十九歳という若さで王宮の要職に就くニコラス様が、ここ数週間、寝る間も惜しんで異様なほど忙しくしていたのは、その準備のためだ。
胸の奥に、冷たい北風が吹き抜けていくような寂しさが広がる。
だけど、私はすぐに、この一年間で何度も何度も繰り返してきたお馴染みの『自己暗示』の盾を構えた。
(ロクサーヌ、しっかりして。何を動揺しているの。これこそが、貴方が最初から分かっていた『現実』でしょう?)
私は、あの日父から言われた言葉を思い出す。
『王女殿下が他国へ嫁がれ、傷心のニコラス様のために、お飾りとなる婚約者が必要だ』。
そう、私は彼の傷が癒えるまでの、あるいは彼が前を向くための代償行為として選ばれた、ただの身代わり。本物の王女殿下が戻っていらっしゃるのなら、私のようなお飾りは、そっと劇場の裏手へ退場するのが正しい義務なのだ。
「まぁ、エミリー様。ニコラス様は素晴らしい官僚ですもの、王女殿下の歓迎任務という大役を任されるのは当然ですわ。私は婚約者として、彼が完璧にお仕事を全うできるよう、静かに応援するだけです」
私はこれ以上ないほど気高く、完璧な伯爵令嬢の微笑みを浮かべて見せた。
エミリー様は「まぁ……なんて健気な……」と目頭を押さえているけれど、私の心の中は、ただただ静かな諦念で満たされていた。
その日の夕方。
約束通り、ニコラス様が私を自宅まで迎えにきてくれた。馬車に乗り込んできた彼の顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
「ロクサーヌ、待たせてごめんね。最近、王宮の悪法や式典の準備が重なって、なかなか君との時間が取れなくて……本当に申し訳ない」
ニコラス様は私の手を握ると、すがるようにそのアメジストの瞳を潤ませた。その必死な様子に、私の胸はチクリと痛む。
(……そんなに、ビクトリア殿下との再会に心を乱されていらっしゃるのね。完璧な騎士を演じるニコラス様が、こんなに余裕をなくすなんて……。よほど、彼女に会うのが怖いのか、あるいは、待ち遠しいのか)
私を見る彼の熱い視線も、今は「戻ってくる本物の愛を前にして、必死に理性を保とうとする足掻き」にしか見えなかった。私を強く抱きしめたいかのように指先を震わせているニコラス様が、可哀想で、探りたくて、たまらなくなる。
「いいえ、ニコラス様。お噂はかねがね伺っておりますわ。ビクトリア殿下の里帰り、本当におめでとうございます。国を挙げた大仕事ですもの、私とのデートなど気にせず、どうか殿下のために全力を尽くてくださいね」
私が優しく微笑みながらそう告げた瞬間。
ニコラス様の身体が、凍りついたように硬直した。
握られていた私の手に、痛いほどの力が加わる。彼のアメジストの瞳から、すうっと光が消え、底知れない暗い情熱がどろりと溢れ出してきた。
「……ロクサーヌ。君は、僕が他の女性のために奔走することを、そんな風に笑顔で許せるのかい?」
低く、押し殺した声。いつも爽やかな彼の声とは到底思えない、執着に満ちた響きだった。
「ええ、もちろんですわ。私は貴方の『完璧な婚約者』ですもの」
私は彼の負担を減らしてあげたくて、精一杯の思いやりを込めて微笑んだ。
けれどその言葉は、ニコラスの理性の堤防を、内側から粉々に粉砕する決定打となっていた。
(僕が、どれほど君だけを想って、君に誤解されないように裏工作を仕掛けているか、君は何も知らないんだな……!)
ニコラスは内心で、血を吐くような絶望に絶叫していた。
ビクトリアの帰国が決まった瞬間から、ニコラスは王太子エドワードの胸ぐらを掴まわんばかりの勢いで、「僕と彼女の接触を最低限にしろ、絶対にロクサーヌを不安にさせるな」と脅し、完璧な防衛線を張っていたのだ。
すべては、愛するロクサーヌにこれ以上「お飾り」だなんて悲しい思いをさせないため。
それなのに、当のロクサーヌは、自分から進んで彼を過去の女の元へ押し戻そうとしている。
「……そうか。君にとっては、僕が誰と会おうが、どうなろうが、関係ないということだね」
「ニコラス様……?」
初めて見る、彼の冷酷で、狂気を孕んだ瞳。
完璧な紳士の仮面の下で、一年間育ててきた『怪物のような独占欲』が、ついにその牙を剥きかけようとしていた。
最悪の勘違いが加速する中、王女帰国の鐘が、ついに社交界に鳴り響く――。