作品タイトル不明
第22話 命乞いのいらない朝
翌朝、王宮の雨は上がっていた。
石畳には、まだ水が残っている。
そこに朝の光が薄く落ち、昨夜の騒ぎなど知らぬ顔で白く光っていた。
コンスタンツェ・フォン・ルーデンドルフは、王宮の控室で目を覚ました。
眠ったというより、気絶に近かった。
夜会のあと、書類の確認、証言、王宮管理局への正式な申し送り、ヴァルテンブルク家への調査停止手続き、王太子側近の拘束記録、リーネの保護先の確認。
やることが山ほどあった。
命乞い帳に書く暇もなかった。
それが少し不安だった。
「お嬢様。お目覚めでございますか」
イーダの声がした。
コンスタンツェは寝台の上で目を開ける。
天井は白かった。
あの控室ではない。毒杯の置かれた部屋ではない。豚小屋でも、堀の底でもない。
彼女は少しだけ息を吸った。
「毒杯は?」
「ございません」
「豚は?」
「ここには」
「堀は?」
「王宮の外側にはございますが、この部屋にはございません」
「よろしいわ」
コンスタンツェは身を起こした。
体が重い。雨に濡れ、泥を踏み、夜会で毒杯を叩き落とし、広間中の視線を浴びた体である。
重くない方がおかしい。
だが、生きていた。
それだけで、今日はかなり上等だった。
イーダが温かい茶を差し出した。白磁の茶杯である。銀の匙は添えられていない。よくできた侍女だった。
「蜂蜜は?」
「入れてございます」
「あなた、最近わたくしを甘やかしすぎではなくて?」
「昨夜のお嬢様には、蜂蜜くらい許されるかと」
「では、三匙まで許します」
「すでに二匙でございます」
「有能ね」
「給金に反映を」
「生き延びたので、検討しますわ」
イーダは、ほんの少し笑った。
控室の窓からは、王宮の中庭が見えた。
噴水は止まっている。
誰かが気を利かせたのだろうか。
いや、たぶん偶然だ。
王宮はコンスタンツェの恐怖に合わせて水を止めるほど親切ではない。
それでも、水音がないだけで、朝は少しやさしかった。
扉が叩かれた。
「公爵令嬢。入っても?」
オスカーの声だった。
「身支度中ですわ」
「では、扉の外で」
「そういう意味ではありません。待ちなさいと言っておりますの」
「分かりました。待ちます」
本当に扉の外で静かになった。
コンスタンツェは少しだけ気まずくなる。
律儀な男は扱いに困る。
「イーダ」
「はい」
「五分だけ待たせます」
「五分でよろしいので?」
「十分待たせると、こちらが気にしているようでしょう」
「すでにかなり」
「黙りなさい」
身支度を整えたあと、オスカーを入れた。
彼は灰色の上着を着ていた。
昨夜と同じように眠たげな顔をしているが、目の下に疲れがある。徹夜で書類をまとめていたのだろう。
手には薄い書類の束。
「おはようございます」
「朝から書類を持ち歩く男性は嫌われますわよ」
「では、花でも持ってくるべきでしたか」
「あなたが花を持ってきたら、毒草を疑いますわ」
「私の信用はその程度ですか」
「エリーザベト様と付き合いが深まったせいです」
「不本意ですね」
オスカーは椅子には座らず、書類を差し出した。
「正式な記録の写しです。マグヌス・フォン・ハルトヴィヒは拘束。王宮管理局副長も取り調べ。ハルトヴィヒ家従者名義の申請、馬車業者の受領書、薬草の偽装荷、書類屋への支払い。昨夜押さえたものだけでも、十分に調査対象になります」
「それで、エリーザベト様は?」
「ヴァルテンブルク家への調査は停止。むしろ、偽装被害者として扱われるでしょう」
「ヴィルヘルミーネ様は?」
「金銭不正の疑いは後退しました。彼女が提出した帳簿があまりに整っていたので、財務の者が顔を青くしていました」
「でしょうね」
あの未亡人は、悪女というより帳簿の魔女である。
「リーネ様は?」
「王宮内の客室から出ました。今はアーレンス男爵家の馬車で帰宅しています。王太子殿下の直接の付き添いは断ったそうです」
コンスタンツェは茶杯を口元へ運びかけ、止めた。
「断った?」
「ええ。自分で帰れる、と」
「まあ」
彼女は少し黙った。
リーネは、馬車を自分で選んだのだ。
小さなことだ。
けれど、小さなことができなければ、大きなことなど選べない。
「よろしいのではなくて?」
「かなり」
「あなた、その言い方ばかりですわね」
「便利なので」
「わたくしの比喩を笑えませんわよ」
オスカーは少しだけ口元を緩めた。
それから、表情を戻す。
「王太子殿下は、あなたとの婚約について協議を求めています」
コンスタンツェの手が止まった。
茶杯の中で、蜂蜜茶がわずかに揺れる。
「協議」
「おそらく、婚約解消です」
「でしょうね」
声は思ったより落ち着いていた。
一度目では、婚約破棄は断罪の刃だった。
今は違う。
婚約が解かれる。
王太子妃にならない。
毒杯へ続く階段の一つが崩れる。
喜ぶべきだ。
実際、かなり喜ばしい。
だが、胸のどこかに、古い自分の小さな影がいた。
王太子妃になれなかった女。
選ばれなかった女。
悪女になり損ねた女。
その影が少しだけ疼く。
コンスタンツェは、自分のその小ささに腹が立った。
「お嬢様?」
イーダが心配そうに見る。
「何でもありませんわ」
コンスタンツェは茶を飲んだ。
甘い。
「王太子妃など、椅子が高すぎますもの。落ちた時に危険ですわ」
「落ちる前提なのですか」
オスカーが言った。
「高い場所には落下がつきものです」
「では、低い椅子を?」
「柔らかい寝台がよいですわ」
「それは政治的地位ではありませんね」
「政治的地位で眠れますの?」
「人によっては」
「ろくな寝相ではないでしょうね」
そんな会話をしていると、扉の外から別の声がした。
「コンスタンツェ」
ルーデンドルフ公爵だった。
父は昨夜より少し老けて見えた。
それでも背筋は伸び、顔には公爵としての固さが戻っている。
彼は部屋へ入ると、まず娘を見た。
怪我がないか確かめるような目だった。
その目に、コンスタンツェは少し戸惑った。
「お父様」
「無事か」
「見ての通りですわ」
「見ただけでは分からん」
「では、毒杯は飲んでおりません。豚小屋は通りましたが勝ちました。堀には落ちておりません」
父は一瞬、言葉を失った。
オスカーが横を向いた。
イーダは慣れた顔をしている。
「……そうか」
「ええ」
「なら、よかった」
短い言葉だった。
だが、父の声は少し掠れていた。
コンスタンツェは、胸の奥が変に痛むのを感じた。
こういう痛みは扱いにくい。
怒りなら言い返せる。
恐怖なら逃げられる。
だが、遅れて届いた父の心配は、どこへ置けばよいのか分からない。
父はオスカーへ目を向けた。
「レーエンスベルク卿。娘が世話になった」
「いえ。私は手続きを見ていただけです」
「その手続きに、娘は助けられた」
「公爵令嬢は、自力で豚小屋を突破されたようですが」
父が、また言葉を失う。
コンスタンツェはオスカーを睨んだ。
「そこを父に報告する必要がありますの?」
「重要な戦果かと」
「社交界では機密ですわ!」
父は額に手をやった。
「後で、詳しく聞く」
「聞かなくてよろしいです」
「聞く」
「お父様、親子にも越えてはならない泥がありますわ」
「泥?」
「比喩です」
父は、もう追及を諦めた顔をした。
それから、少しだけ声を低くする。
「王太子殿下との婚約は、解消の方向で進むだろう」
「はい」
「表向きは、王太子殿下の側近による不正工作と、その影響による婚約関係の再協議。お前に責を負わせる形にはしない」
「お父様が、そうしてくださるの?」
「そうすべきだからだ」
父は言った。
少し遅い。
けれど、遅くても、今ここでそう言っている。
コンスタンツェは頷いた。
「ありがとうございます」
今度は、保留にしなかった。
父は少しだけ表情を緩めた。
そして、その顔をすぐ公爵のものへ戻した。
「ただし、今後しばらく社交界は騒がしい。お前の名も出る。悪女だの、豚小屋だの」
「豚小屋は出さないでください!」
「もう一部で出ている」
コンスタンツェは固まった。
「誰が」
「王宮裏で豚が逃げ、ハルトヴィヒ家の者が泥に転んだという話は、使用人経由ですでに広がっている」
終わった。
社交界的に終わった。
いや、毒杯で死ぬよりはましだ。ましだが、豚小屋の逸話と共に生きる公爵令嬢というのは、かなり難易度が高い。
「お嬢様」
イーダが静かに言った。
「ご無事であれば、噂は後からどうにかなります」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは断言なさい!」
オスカーが言った。
「豚小屋の件は、むしろ民間では好意的に広がるかもしれません」
「どうしてですの」
「高貴な公爵令嬢が、泥まみれで不正の証拠を掴んだ。話としては分かりやすい」
「わたくしは民間伝承になりたいわけではありません!」
「救国の豚姫」
「その名で呼んだ者は訴えますわ!」
父が咳払いした。
笑いを堪えたようにも見えた。見間違いであってほしい。
「ともかく」
父は言った。
「お前はしばらく屋敷で休め」
「休んでよろしいの?」
「当然だ」
「命乞い帳の整理が」
「それも休んでからだ」
「命乞い帳は業務ですわ」
「違う」
父とイーダとオスカーの声が、ほとんど同時に重なった。
ひどい。
味方が増えると、反論も増えるらしい。
その日の午後、コンスタンツェはルーデンドルフ公爵邸へ戻った。
門をくぐると、使用人たちが並んでいた。
彼女は馬車の中で固まった。
「イーダ」
「はい」
「何かしら、これは」
「皆、お嬢様のご無事を」
「なぜ並ぶの。怖いでしょう」
「歓迎でございます」
「断罪の準備ではなく?」
「違います」
玄関の前で馬車が止まる。
コンスタンツェは降りた。
使用人たちは一斉に頭を下げた。
厨房の者、厩番、洗濯女、庭師、下働きの娘。
見知った顔も、あまり見てこなかった顔もある。
一度目の夜、誰も彼女を助けなかった。
だが、それは当然だった。
彼女が彼らを見ていなかったからだ。
今、彼らは彼女を見ている。
それが、どうにも居心地悪かった。
厨房の女が進み出た。
「お嬢様。蜂蜜菓子を焼いてございます」
「今?」
「はい。お疲れかと」
コンスタンツェは言葉を失った。
蜂蜜菓子。
自分が配ったものが、返ってきた。
「……いただきますわ」
声が少し小さくなった。
使用人たちの間に、ほっとした空気が流れる。
コンスタンツェは、胸の奥がむずがゆくなった。
これは危険だ。
人に感謝されるより、人から気遣われる方がもっと危険だ。
逃げ道を塞がれる。
だが、悪い塞がれ方ではなかった。
自室へ戻ると、机の上に空の宝石箱があった。
青革張りの、重い箱。
コンスタンツェはそれをしばらく見つめた。
一度目では、この箱を抱えて沈んだ。
二度目では、箱を空にして置いていった。
箱はまだ美しい。
ただ、もう命より重くはなかった。
彼女は命乞い帳を開いた。
百十七、マグヌス拘束。正式調査へ。
百十八、エリーザベト、毒婦回避。ヴィルヘルミーネ、帳簿で勝利。リーネ、馬車を自分で選ぶ。
百十九、王太子殿下との婚約、解消見込み。毒杯への階段、一段崩壊。
百二十、父、「無事か」と言った。遅いが、記録。
百二十一、使用人から蜂蜜菓子。扱いに困る。
百二十二、宝石箱は空。わたくしは生存。
そこまで書いて、ペンが止まった。
命乞い帳。
この帳面は、最初は死なないためのものだった。
今もそうだ。
けれど、死なないことだけでは、もう全部は書けなくなっている。
コンスタンツェは少し考え、最後に一行を加えた。
百二十三、命乞いをしない朝が来た。
書いてから、すぐに照れた。
感傷的すぎる。
だが、消さなかった。
紙面が汚れるから、ということにしておいた。