軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第21話 リーネが物語を降りる

広間の隅に、急ごしらえの卓が作られた。

王宮の夜会で、令嬢が毒杯の成分を調べ、未亡人が帳簿を広げ、文官が証拠管理の不備を指摘するなど、本来あってはならない光景だった。

だが、本来あってはならないことなど、宮廷にはいくらでもある。

ただ、たいていは絹と香水と音楽で覆われているだけだ。

今夜は、その布が少しめくれていた。

エリーザベトは白い皿に、床から拭い取った液を少し落とした。

その手つきは冷静だった。周囲の貴族たちは、毒婦と噂された令嬢が毒らしきものを扱うのを、怯えと好奇心の混じった目で見ている。

彼女は気にしなかった。

「眠り草、苦扁桃、甘草、青狐草」

しばらくして、エリーザベトは言った。

「王宮裏の小瓶と同じ系統です。ただし、こちらの方が濃い」

コンスタンツェの指先が冷えた。

濃い。

もし飲んでいたら。

考えたくなかった。

「正式な証拠品として出すには、管理が杜撰です」

オスカーが続けた。

「そして、ヴァルテンブルク家の保管方法とも合わない。押収場所、管理経路、持ち込んだ者、すべて確認が必要です」

ヴィルヘルミーネは帳簿の写しを卓に並べた。

「ハルトヴィヒ家の直接支払いではありません。けれど、同じ商会を二つ挟んで、薬草、馬車、書類屋、管理局下役へ金が動いています。偶然にしては、美しすぎる流れね」

「美しい帳簿は信用できるのか」

誰かが言った。

ヴィルヘルミーネは優雅に微笑んだ。

「いいえ。美しすぎる帳簿ほど、化粧が濃いのです」

広間の空気がざわめく。

マグヌスはまだ崩れない。

彼は王太子の傍に立ち、深く頭を下げた。

「殿下。今ここで一方的な証言を信じるのは危険です。ルーデンドルフ嬢は自ら悪意を認め、ヴァルテンブルク嬢は毒草に詳しく、ゼッケンドルフ夫人は金銭工作に長けている。皆、それぞれに疑われる立場です」

「ええ」

コンスタンツェは言った。

マグヌスが彼女を見る。

広間も彼女を見る。

「わたくしたちは疑われる立場ですわ。だからこそ、証拠が必要です。言葉だけで裁くなら、疑われやすい者から順に死にますもの」

「死、死と、先ほどから大げさな」

「大げさでしょうか」

コンスタンツェは床に散った液体を見た。

「この杯は何のためにここへ?」

マグヌスは黙った。

「証拠品なら、手続きが粗い。演出なら、趣味が悪い。毒杯なら、殺意がある。どれですの?」

「あなたは」

マグヌスの声が、少し低くなった。

「ずいぶん口が回るようになった」

「命がかかると、人は上達しますわ」

「何の命が」

「わたくしのです」

コンスタンツェは即答した。

「その点において、わたくしはたいへん真剣です」

この女は本当に自分の命の話しかしていない、という空気が広間に流れた。

それでよかった。

嘘ではない。

嘘ではないものは、たいてい強い。たとえそれが格好悪くても。

アルブレヒト王太子は、ずっと黙っていた。

美しい顔が、今はひどく若く見える。

王太子という役を外され、正義の救済者という役を外され、ただ一人の青年として立っているようだった。

「マグヌス」

彼は低く言った。

「君は、私の名で何をした」

「殿下のために」

「その言葉は聞いた」

アルブレヒトの声に、初めて疲れが滲んだ。

「何をした、と聞いている」

マグヌスの表情は動かない。

「殿下がなさるべきことを、整えただけです」

「私が?」

「はい。王太子殿下には、王国に示すべき姿があります。弱きを守り、悪しきを裁く姿が」

その言葉に、リーネが小さく息を吸った。

マグヌスは続ける。

「アーレンス嬢は、その象徴になり得た。ルーデンドルフ嬢は、あまりにも分かりやすい障害だった。公爵家は強すぎる。殿下の婚姻が、ルーデンドルフ家に縛られすぎるのは望ましくない。ならば、婚約解消には理由が要る」

コンスタンツェは、胃の奥が冷えるのを感じた。

理由。

自分は理由にされかけていた。

いや、一度目では、された。

「私は毒など命じていない」

アルブレヒトが言う。

「命じておられません」

マグヌスは静かに認めた。

「ですが、正式な裁判ともなれば、王家も公爵家も傷を負う。悪女が自ら名誉を選べば、誰も深く掘りません」

名誉。

コンスタンツェの中で、何かがかちりと凍った。

やはり同じだ。

せめて貴族らしく。

自ら幕を引け。

そうして、女の死に名誉という布をかける。

布の下で、誰が息をしなくなるかも見ずに。

「名誉」

彼女は呟いた。

マグヌスがこちらを見る。

「ええ。貴族としての」

「名誉で人を殺す時は、せめて自分の手も汚しなさい」

広間が静まり返った。

コンスタンツェの声は震えていた。

怒りか、恐怖か、自分でも分からない。

「遠くから杯を差し出して、貴族らしく死ねなどと。ずいぶん安い名誉ですこと」

マグヌスの顔から、初めて薄い笑みが消えた。

「あなたは、何を知っている」

「知りませんわ」

コンスタンツェは言った。

「今夜のこと以外は。けれど、よく分かりました」

「何が」

「あなたは、人を役でしか見ていない」

彼女はリーネを見た。

「守られる少女」

エリーザベトを見る。

「毒婦」

ヴィルヘルミーネを見る。

「金で男を滅ぼす未亡人」

それから、自分の胸に手を当てた。

「悪女」

最後に、アルブレヒトを見た。

「正しい王太子」

王太子の顔が、わずかに歪んだ。

「配役は美しいですわね。けれど、人間は舞台道具ではありませんの」

リーネが、一歩前へ出た。

今度は誰にも促されなかった。

王太子が彼女を見る。

「リーネ」

「殿下」

彼女の声はまだ細い。

それでも、広間には届いた。

「わたしは、殿下に感謝しています。助けていただいたことも、守っていただいたことも、本当にありがたかったのです」

アルブレヒトは何も言わない。

「でも、わたしは、殿下の正しさを飾るために泣く女ではありません」

その言葉は、白い刃のようだった。

コンスタンツェは息を呑んだ。

リーネがそこまで言うとは思っていなかった。

あの小さな手で、自分の檻の鍵を掴もうとしている。

「わたしは、ルーデンドルフ様に傷つけられたことがあります。けれど、その痛みを、誰かが別の罪に使うことは望みません。わたしを守るという名で、わたしの言葉を奪わないでください」

「私は、君を奪うつもりなど」

アルブレヒトが言う。

「はい」

リーネは頷いた。

「つもりはなかったのだと思います」

その「つもりは」という言葉が、広間の中で静かに響いた。

「でも、つもりがなくても、檻は作れます」

コンスタンツェの言葉だった。

リーネが、それを自分の言葉として立たせた。

アルブレヒトは、今度こそ何も言えなくなった。

王太子は、美しい青年だった。

そして、その美しさの中で、初めて自分が人を見ていなかった可能性に触れているようだった。

その痛みを、コンスタンツェは少しだけ見た。

少しだけで十分だった。

彼の痛みまで背負う趣味はない。

「殿下」

オスカーが言った。

「この件は、夜会の場で裁けるものではありません。王宮管理局、書記局、財務、薬草流通、王太子殿下の私的支援、すべて正式に調べる必要があります」

アルブレヒトはゆっくり頷いた。

「マグヌスを拘束しろ」

広間が揺れた。

マグヌスは抵抗しなかった。

ただ、最後に王太子を見た。

「殿下。私は、あなたを王にするために」

「私は」

アルブレヒトが遮った。

「誰かを悪女にしなければ立てない王には、なりたくない」

その言葉が本心か、今この場の痛みから出たものか、コンスタンツェには分からなかった。

分からないなら、それでいい。

分かったつもりが、人を毒杯へ近づける。

マグヌスが連れていかれる。

広間の視線は、まだ落ち着かない。誰もが、自分の立っていた舞台の床が少し傾いたことに気づいた顔をしていた。

コンスタンツェは、急に疲れた。

膝が笑う。

今度は本当に倒れそうだった。

「公爵令嬢」

オスカーがそばに来る。

「立てますか」

「立っておりますわ」

「かなり危うく」

「見ないでくださる?」

「無理です」

「でしょうね」

彼は手を差し出さなかった。

ただ、倒れた時に支えられる距離に立った。

その気遣いが、妙に彼らしくて、少しだけ腹が立つほどありがたかった。

エリーザベトが銀杯の残骸を見て言った。

「これは正式に封じます。今度こそ、手続き通りに」

「頼みますわ」

ヴィルヘルミーネが帳簿をまとめながら笑った。

「今夜の社交界は、退屈しなかったわね」

「二度としたくありません」

コンスタンツェは即答した。

「でも、あなた、なかなか悪女らしかったわ」

「どの辺りが?」

「毒杯を叩き落としたところ」

「褒め言葉として受け取るには、かなり物騒ですわね」

「かなり」

皆が、その言葉を少しだけ笑った。

リーネは、コンスタンツェの前に来た。

「ルーデンドルフ様」

「何ですの」

「ありがとうございました」

コンスタンツェは困った。

非常に困った。

「礼を言う相手を間違えていますわ。わたくしは、自分の命のために」

「はい」

リーネは頷いた。

「それでも、わたしは助かりました」

そう言われると、逃げ道がない。

コンスタンツェは扇を開き、顔を半分隠した。

「では、次からはもう少し早く自分で助かりなさい」

「はい」

「馬車も自分で選ぶこと」

「はい」

「階段では裾を踏まないこと」

「はい」

「あと、王太子殿下の言葉は、引き続き紙に書くこと」

「はい」

リーネは、少し笑った。

その笑みは、もう白い花だけではなかった。

夜会は終わりに向かっていた。

音楽は止まり、人々は低い声で話し合い、王宮の衛兵が広間を出入りしている。床には、拭き取られた赤黒い液体の跡がうっすら残っていた。

コンスタンツェはそれを見た。

毒杯は割れなかった。

ただ、床へ落ち、転がり、中身をこぼした。

それで十分だった。

杯は、もう飲むものではなくなった。

広間を出る時、扉の外にイーダがいた。

彼女は主の姿を見て、深く礼をした。

「お嬢様」

「イーダ」

「ご無事で」

「ええ」

コンスタンツェは少し考えた。

「豚小屋も抜けましたし、毒杯も飲みませんでしたわ」

「はい」

「堀にも落ちておりません」

「はい」

「つまり、今日は大勝利ですわね」

イーダは、ほんの少し笑った。

「お嬢様としては、最大級の勝利かと」

「褒め方がレーエンスベルク卿に似てきましたわよ」

「それは、少し困ります」

「でしょう」

コンスタンツェは、胸元に手を当てた。

命乞い帳はイーダが持っている。けれど、そこにあるような気がする。

書くべきことは多い。

リーネが物語を降りたこと。

エリーザベトが毒杯を証拠に変えたこと。

ヴィルヘルミーネが金の流れを引きずり出したこと。

オスカーが手続きを盾にしたこと。

マグヌスが拘束されたこと。

王太子が、初めて自分の正義を疑ったこと。

そして、コンスタンツェが毒杯を飲まなかったこと。

彼女は歩き出した。

足はまだ少し震えている。

だが、前へ出る。

一度目の夜、彼女はこの広間から連れ出された。

今夜は、自分の足で出ていく。

その違いは、誰にも分からない。

けれど、コンスタンツェには分かる。

それで十分だった。