軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

泣き寝入りは、美徳ではありません

翌朝、王宮法務局には三つの記録が届いた。

一つ目は、クラリッサ嬢が持参金を送金した証明書。

二つ目は、オスカー・ラングレー子爵令息からクラリッサ嬢へ送られた手紙。

三つ目は、婚約契約締結当日に立ち会った侍女の証言書だった。

私は執務机の上に三つの書類を並べた。

王宮法務局特別補佐官として与えられた机は、想像していたよりも広かった。

しかし、そこに置かれる書類の量を考えれば、むしろ足りないくらいだ。

窓際には、王都の街並みが見える。

かつて私は、王宮の別棟から同じ街を見下ろしていた。

あの頃の私は、王太子妃になる未来を疑っていなかった。

正確に言えば、疑うことを自分に許していなかった。

けれど今、私は王宮法務局の席に座っている。

誰かを待つためではなく、誰かを守る記録を読むために。

「エリス補佐官」

ユリウス殿下が、書類の束を持って入ってきた。

王太子となった方が、朝から法務局に書類を運んでくるのは、本来なら珍しいことだ。

けれどユリウス殿下は、そういう方だった。

「ラングレー家の過去五年分の婚約関連記録です」

「ありがとうございます。殿下自らお持ちにならなくても、官吏に任せていただければ」

「途中まで同じ方向でしたので」

「王太子殿下の執務室は反対棟です」

「……少し遠回りをしました」

少し、ではない。

王宮の反対側だ。

私が黙って見ると、ユリウス殿下は軽く咳払いした。

「あなたが初日から無理をしていないか確認も兼ねて」

「無理はしておりません」

「昨日もそう言って、日没後まで契約書を読んでいましたね」

「必要な確認でした」

「食事は」

「……取りました」

「何を?」

「お茶を」

「それは食事ではありません」

真顔で言われた。

反論できない。

かつてレオンハルト殿下は、私がどれほど忙しくしていても気づかなかった。

むしろ、君なら大丈夫だろう、と言った。

ユリウス殿下は違う。

私が大丈夫だと言うと、大丈夫でない可能性を考える。

それは少し、困る。

同時に、少しだけ温かい。

「以後、気をつけます」

「本当に?」

「努力します」

「完了でお願いします」

昨日、私が殿下に言った言葉を返された。

私は思わず目を細める。

「根に持っていらっしゃいますか」

「学習しただけです」

そのやり取りの後、私たちは机の書類に向き直った。

まずは、オスカー・ラングレー子爵令息の手紙である。

文字は流麗だった。

文章も丁寧だ。

だが、丁寧な言葉が必ずしも誠実とは限らない。

親愛なるクラリッサへ。

君を傷つけることを許してほしい。

僕は、真実の愛を見つけてしまった。

相手はミレーヌ・カストナー男爵令嬢だ。

彼女は僕の心を理解してくれる唯一の人であり、僕は彼女と共に生きたい。

君との婚約は、家同士が決めたものだった。

君に非はない。

だが、愛のない結婚は互いを不幸にするだけだ。

持参金については、すでにラングレー家の新規事業に投資されている。

返還は難しい。

契約書にも、返還請求権の放棄が明記されている。

どうか、君らしく潔く身を引いてほしい。

君なら分かってくれると信じている。

オスカー・ラングレー

私は、最後の一文で手を止めた。

君なら分かってくれる。

その言葉は、思っていたよりも深く胸を刺した。

レオンハルト殿下も、何度もそう言った。

君なら分かってくれるだろう。

君は強いから大丈夫だろう。

君なら待ってくれるだろう。

あの言葉は、信頼に似た形をしていた。

けれど実際には、相手に都合よく我慢を求めるための鍵だった。

「エリス嬢」

ユリウス殿下の声で、私は我に返った。

「大丈夫ですか」

「はい」

「無理は――」

「しておりません」

「なら、よいのですが」

その声に、責める響きはなかった。

私は手紙を机に置いた。

「この手紙だけで、相手側の過失はかなり明確です」

「真実の愛、ですか」

ユリウス殿下が静かに言う。

「便利な言葉ですね」

「便利すぎて、責任まで消せると思う方がいるようです」

「消えませんね」

「はい。愛は、契約不履行の免罪符ではありません」

次に、侍女の証言書を確認する。

証言したのは、クラリッサ嬢付きの侍女、ノーラ。

契約締結当日、クラリッサ嬢は婚約披露直前の控室に呼ばれ、そこで初めて契約書を見せられた。

説明はラングレー子爵が行い、エインズワース伯爵は「相手を信用しなさい」とだけ言った。

クラリッサ嬢が読みたいと申し出たが、「来賓を待たせている」と急かされた。

さらに、ノーラはこう証言している。

ラングレー子爵令息オスカーは、その時すでにミレーヌ・カストナー男爵令嬢と頻繁に手紙を交わしていた。

「……なるほど」

私はラングレー家の過去記録を開いた。

ユリウス殿下が持ってきた書類だ。

五年分の婚約関連記録。

そこには、ラングレー子爵家が過去にも二度、婚約を解消している記録があった。

一度目は、商家出身の準男爵令嬢。

二度目は、地方伯爵家の令嬢。

どちらも婚約成立後、何らかの理由で破談になっている。

そして、どちらの記録にも持参金返還に関する紛争が起きていた。

「これは……」

ユリウス殿下も目を細めた。

「常習の可能性がありますね」

「はい」

私は過去の契約書写しを確認する。

完全に同じではない。

だが、似た文言がある。

婚約継続の有無にかかわらず、花嫁側資産の返還請求権を放棄する。

使い回しだ。

しかも、少しずつ文言を変えている。

前回よりも巧妙に。

より争いにくい形に。

「今回が初めてではありません」

私は言った。

「ラングレー家は、婚約を利用して複数の家から資金を得ていた疑いがあります」

「ならば、クラリッサ嬢だけの問題ではありませんね」

「はい」

その時、扉が叩かれた。

入ってきたのは、法務卿だった。

「ラングレー子爵家へ出頭命令を出した。子爵と子息オスカー、本日午後に法務局へ来る」

「早いですね」

「あなたが昨日、悪質だと言ったので」

「私のせいですか」

「手柄です」

法務卿は、そう言って書類を机に置いた。

「それと、クラリッサ嬢も午後に来る。父親であるエインズワース伯爵も同席を求めてきた」

私は少しだけ眉を寄せた。

「父親も、ですか」

「娘の件だから当然だと言っている」

「契約時、十分な確認をさせなかった方ですね」

「そうだ」

法務卿は短く答えた。

「気をつけなさい。家の名誉を守るために、娘に黙れと言う親は珍しくない」

珍しくない。

その言葉が、ひどく重かった。

午後。

王宮法務局の審問室には、関係者が揃った。

クラリッサ嬢。

エインズワース伯爵。

ラングレー子爵。

オスカー・ラングレー子爵令息。

法務卿が中央に座り、私は補佐官席に控える。

ユリウス殿下も、王太子として監督席にいた。

ラングレー子爵は、初めから余裕のある顔をしていた。

オスカー令息も同じだ。

整った容貌。

柔らかな微笑み。

人好きのする声。

いかにも、社交界で評判の良さそうな青年だった。

「このたびは、私的な婚約の件で王宮法務局のお手を煩わせ、申し訳ありません」

オスカー令息は丁寧に頭を下げた。

「ただ、これは男女の心の問題です。僕はクラリッサ嬢を傷つけるつもりはありませんでした」

クラリッサ嬢の肩が震える。

「愛のない結婚は不幸を生む。僕はそう考えただけです」

私は黙って彼を見た。

言葉は整っている。

だが、整った言葉ほど、中身を確認しなければならない。

法務卿が口を開く。

「持参金については」

「契約書に従いました」

ラングレー子爵が即座に答えた。

「あの資金は、すでに我が家の事業へ投入しております。返還義務はありません。契約にも明記されています」

「婚約を破棄したのは、そちらですね」

「息子の心変わりは残念ですが、婚姻前でよかったとも言えます」

ラングレー子爵は、悪びれもせずに続けた。

「クラリッサ嬢も伯爵令嬢です。ここは潔く身を引かれるのが、互いの名誉のためでしょう」

その言葉に、エインズワース伯爵が小さく頷いた。

「クラリッサ。もういいだろう。これ以上騒げば、お前の評判にも関わる」

「お父様……」

「持参金は痛いが、勉強料と思うしかない」

クラリッサ嬢の顔から血の気が引く。

私は、机の上で指を組んだ。

勉強料。

娘の財産を奪われた父が、そう言った。

法務卿が私を見る。

発言を許す合図だ。

私は立ち上がった。

「ラングレー子爵、オスカー令息。いくつか確認させていただきます」

「どうぞ」

オスカー令息は微笑んだ。

「まず、こちらの手紙はオスカー令息がクラリッサ嬢へ送ったもので間違いありませんか」

私は手紙の写しを示した。

オスカー令息の表情が一瞬だけ固まる。

「……ええ。僕の手紙です」

「この中で、あなたはミレーヌ・カストナー男爵令嬢を愛していると明記しています」

「はい」

「また、持参金について、すでに投資されており返還は難しい、と書いています」

「その通りです」

「投資先はどちらですか」

「それは、我が家の事業上の機密で――」

「王宮法務局の審問において、持参金返還の可否を判断するための必要事項です」

私は彼の言葉を遮った。

「投資先はどちらですか」

オスカー令息が父親を見る。

ラングレー子爵は不快そうに眉を寄せた。

「書類は後日提出する」

「本日お持ちではないのですか」

「急な呼び出しだったので」

「昨日の時点で、王宮法務局から保全命令を出しております」

私は記録係へ目を向けた。

記録係が別の書類を差し出す。

「ラングレー家から提出された資金使用報告です」

私はそれを開いた。

「こちらによれば、クラリッサ嬢の持参金は、新規香料輸入事業に投資されたとあります」

「その通りだ」

ラングレー子爵が頷く。

「では、その香料輸入事業の商業登録は?」

「……手続き中だ」

「商会名は」

「まだ正式には」

「取引相手は」

「それも調整中だ」

「つまり」

私は書類を閉じた。

「現時点で、事業の実体は確認できません」

審問室が静まり返った。

オスカー令息の笑みが、少し引きつる。

「準備段階だったのです」

「それにしては、金貨三万枚相当をすでに投資したと手紙に書いていますね」

「先行費用です」

「領収書は」

「……後日」

「ありませんね」

私は静かに言った。

ラングレー子爵が机を叩いた。

「失礼な! 我が家を詐欺師扱いするつもりか!」

「扱いではありません。確認です」

私は彼を見た。

「確認されて困る契約なら、最初から結ぶべきではありません」

ラングレー子爵が言葉に詰まる。

私は次の書類を手に取った。

「さらに、過去五年において、ラングレー家は二度、婚約解消時に持参金返還を巡る紛争を起こしています」

オスカー令息の表情が消えた。

「それは今回と関係ありません」

「あります」

私は即答した。

「今回の契約書には、過去二件と酷似した返還請求権放棄条項が含まれています」

「偶然でしょう」

「偶然にしては、便利すぎますね」

ユリウス殿下が静かに言った。

それだけで、室内の空気が変わった。

王太子の一言は重い。

だが、私はそこで終わらせるつもりはなかった。

「最後に、エインズワース伯爵」

私はクラリッサ嬢の父へ向き直る。

「あなたにも確認します」

「私に?」

「契約締結当日、クラリッサ嬢に十分な確認時間を与えましたか」

「それは……婚約披露の準備で慌ただしく」

「与えましたか」

「……いや」

「契約内容について、法務代理人に確認させましたか」

「相手は由緒ある子爵家だ。疑う必要はないと」

「確認しましたか」

「していない」

クラリッサ嬢が目を伏せる。

私は彼女を責めるためではなく、事実を残すために続けた。

「では、クラリッサ嬢は十分な説明と確認時間を与えられないまま、持参金返還請求権の放棄という重大な条項に署名させられた、ということでよろしいですね」

伯爵は、答えられなかった。

沈黙は、時に肯定よりも雄弁だ。

私は法務卿へ一礼した。

「以上を踏まえ、本契約の持参金返還請求権放棄条項は、説明義務違反および著しい不公正条項として無効と判断すべきです」

ラングレー子爵が立ち上がる。

「ふざけるな!」

「さらに、実体の確認できない事業への投資名目で持参金を保持しようとした点について、計画的資金詐取の疑いがあります」

「証拠は!」

「今、積み上げているところです」

私は机の上の書類を見た。

手紙。

送金記録。

証言書。

過去の婚約紛争記録。

実体不明の事業報告。

十分ではない。

だが、始めるには足りている。

「泣き寝入りは、美徳ではありません」

私はクラリッサ嬢を見た。

「あなたは、返してほしいと望んでいいのです」

クラリッサ嬢の目から、涙がこぼれた。

けれど今度の涙は、昨日のものとは違っていた。

恐怖だけではない。

自分の声を取り戻すための涙だった。

「返して……ください」

彼女は震える声で言った。

「私の持参金を、返してください。私の人生を、勝手に勉強料にしないでください」

審問室が静まる。

エインズワース伯爵が、はっとしたように娘を見た。

オスカー令息は、もはや微笑んでいなかった。

法務卿が重々しく告げる。

「本件について、王宮法務局は正式調査へ移行する。ラングレー家には、持参金相当額の一時凍結命令を出す。資産移動は禁止。過去二件の婚約解消についても再調査する」

「そんな……!」

ラングレー子爵の声が裏返った。

だが、もう遅い。

都合の悪い記録は、すでに机の上に並んでいる。

審問が終わった後、クラリッサ嬢は深く頭を下げた。

「エリス様、本当にありがとうございます」

「まだ終わっていません」

「それでも……私、初めて言えました。返してほしいって」

「それが始まりです」

私は微笑んだ。

「あなたの人生は、誰かの失敗の勉強料ではありません」

クラリッサ嬢は、涙を拭いて頷いた。

彼女が退室した後、私は書類をまとめた。

ユリウス殿下が隣に立つ。

「見事でした」

「まだ調査の入口です」

「それでも、彼女は救われました」

「救われたと決めるには早いです」

「では、少なくとも立ち上がるきっかけにはなった」

私は少しだけ黙った。

「そうであれば、よいのですが」

「なっています」

ユリウス殿下は、迷いなく言った。

その確信が、少し眩しかった。

「エリス嬢」

「はい」

「あなたは、誰かを待つためではなく、誰かを前へ進ませるためにここにいるのですね」

私は書類を抱え直した。

「私自身も、まだ前へ進んでいる途中です」

「では、共に進みましょう」

何気ない言葉だった。

けれど、胸の奥が静かに温かくなる。

その時、廊下から慌ただしい足音が響いた。

記録係が飛び込んでくる。

「エリス補佐官、法務卿! ラングレー家の資産凍結命令を出す直前に、金庫から大金が移動されています!」

「移動先は?」

法務卿が鋭く尋ねる。

記録係は、青ざめた顔で答えた。

「カストナー男爵家です。オスカー令息が真実の愛と呼んだ、ミレーヌ嬢の実家です」

私は、手元の契約書を強く握った。

やはり、ただの婚約破棄では終わらない。

記録はまだ、真実の続きを隠している。