作品タイトル不明
契約書に残された一文
クラリッサ・エインズワース伯爵令嬢は、泣いてはいなかった。
だが、泣く寸前の顔をしていた。
涙を流すことすら許されない場所まで追い詰められた人は、泣くより先に黙る。
私は、その顔を知っている。
かつての私も、同じ顔をしていたのだろう。
「クラリッサ嬢。順を追って確認します」
「はい」
私は契約書を机の上に広げた。
王宮法務局の応接室には、私とクラリッサ嬢、法務卿、ユリウス殿下がいる。
担当官吏が一人、記録係として控えていた。
王宮法務局では、相談者の証言はすべて記録される。
言った。
言わない。
聞いていない。
覚えていない。
そういった曖昧な逃げ道を塞ぐためだ。
「婚約者は、オスカー・ラングレー子爵令息で間違いありませんね」
「はい」
「婚約成立日は?」
「三か月前です」
「持参金の支払いは?」
「婚約成立の翌週に、父がラングレー家へ送金しました」
「金額は」
クラリッサ嬢は小さく息を呑んだ。
「金貨三万枚相当です」
記録係のペンが一瞬止まった。
かなりの額だ。
伯爵家の令嬢の持参金としても、大きい。
事業資金として使うなら、商会を一つ立ち上げられる。
「ラングレー家からは、何のために使うと説明されましたか」
「新居の準備、私の衣装、使用人の雇用、そして将来のための共同投資だと」
「共同投資」
私はその言葉を繰り返した。
「投資の詳細説明は?」
「婚約者から、任せてほしいと言われました。私には難しい話だから、と」
よくある言葉だ。
君には難しい。
君のためだ。
任せてほしい。
心配しなくていい。
その言葉で、どれほど多くの令嬢が財産と意思を奪われてきたのか。
「投資先の書類は受け取りましたか」
「いいえ」
「収益分配の取り決めは」
「ありません」
「共同投資なのに?」
私が尋ねると、クラリッサ嬢は俯いた。
「……今思えば、おかしいと分かります。でも、その時は、婚約者を疑うなんて恥ずかしいことだと思ってしまって」
「疑うことと、確認することは違います」
私は静かに言った。
「確認は、相手を疑うためではなく、双方を守るために行うものです」
クラリッサ嬢が、ゆっくり顔を上げた。
その目に、少しだけ光が戻る。
「では、私は……愚かだったわけではないのですか」
「知る機会を奪われたのです」
法務卿が小さく頷いた。
ユリウス殿下は何も言わなかったが、その視線は穏やかだった。
私は契約書の問題箇所を指で示す。
「問題はこの一文です」
婚約成立後、花嫁側持参金は婚家管理資産へ移行し、婚約継続の有無にかかわらず返還請求権を放棄するものとする。
「一見すると、持参金を婚家に預けるだけの条項に見えます。ですが、実際には婚約が破棄されても返還を求められないようにする内容です」
「そんな……」
「さらに悪質なのは、婚約継続の有無にかかわらず、という表現です」
私は契約書の余白に目を向けた。
「通常、持参金は婚姻成立を前提とした財産移転です。婚姻前に婚約が破棄された場合、理由によっては返還対象になります」
「では、返してもらえるのですね?」
「本来ならば」
私は少しだけ声を落とした。
「ただし、この条項が有効と認められれば、相手は返還義務を逃れようとするでしょう」
クラリッサ嬢の顔がまた青ざめる。
「そんな契約でも、有効になるのですか」
「有効になる可能性は低いです」
「え?」
「低い、と申し上げました」
私は契約書をめくり、署名欄を確認した。
「クラリッサ嬢。署名時、法務代理人は同席していましたか」
「いいえ。父とラングレー子爵、婚約者だけです」
「あなた側の証人は?」
「父です」
「条項の説明は、誰が?」
「ラングレー子爵が。父も頷いていました」
父親も関わっている。
私は内心でため息をついた。
娘の持参金を守るべき者が、相手側の説明だけで頷いたのだ。
それが無知によるものか、何か別の理由があるのかは、まだ分からない。
「契約締結時に、あなたは異議を唱えましたか」
「いいえ。私には、読む時間もあまりなくて……」
「読む時間がなかった?」
「契約書は当日に出されました。婚約披露の直前で、皆が待っているから早く署名するようにと」
私は法務卿を見た。
法務卿は無言で頷く。
これは、さらに悪い。
「クラリッサ嬢。この契約には、少なくとも三つの争点があります」
「三つ……」
「一つ目。持参金返還請求権の事前放棄が、婚約契約として妥当かどうか」
私は指を一本立てる。
「二つ目。契約内容について、あなたに十分な説明と確認時間が与えられていたか」
二本目。
「三つ目。婚約破棄を言い出したのが相手側であり、さらにその理由が別の令嬢との恋愛であること」
三本目。
「この三つが揃えば、相手の主張を覆せる可能性は高いです」
クラリッサ嬢の肩が震えた。
「本当に……本当に、取り戻せるかもしれないのですか」
「はい」
私ははっきり答えた。
「ただし、必要なのは感情ではありません。証拠です」
「証拠……」
「婚約者が別の令嬢を愛していると言ったことを示す手紙、目撃証言、会話記録。持参金の送金記録。投資先の資料。署名当日の状況を知る使用人の証言」
クラリッサ嬢は必死に考え込む。
「手紙なら、あります」
「内容は?」
「婚約者から、謝罪の手紙が届きました。そこに、彼女を愛してしまった、でも君の持参金はもう返せない、と」
室内が静まり返った。
法務卿が低く呟く。
「自白ですね」
「はい」
私は頷いた。
クラリッサ嬢は不安そうに私を見る。
「あの手紙は、役に立つのですか」
「非常に」
私は答えた。
「むしろ、相手にとっては一番残してはいけない記録です」
ユリウス殿下が、初めて口を開いた。
「その手紙は今どちらに?」
「屋敷の私室にあります。捨てようか迷って、でも捨てられなくて」
「よく残していました」
ユリウス殿下の声は優しかった。
クラリッサ嬢は、そこでようやく涙を一粒こぼした。
「私は……ずっと、恥ずかしいのだと思っていました。捨てられたことも、お金を取られたことも、誰にも言えなくて」
「恥じるべきは、あなたではありません」
私は言った。
「約束を破った者です」
その言葉は、クラリッサ嬢に向けたものだった。
けれど、同時に過去の私にも向けていた。
婚約式に来なかった王太子を待ち続けた私。
自分が足りないのだと思い込もうとしていた私。
笑って許すことが淑女の務めだと信じていた私。
違う。
恥じるべきは、約束を破った者だ。
「では、すぐに手紙を取り寄せましょう」
法務卿が記録係に指示を出す。
「エインズワース伯爵家へ王宮法務局名義で保全命令を送る。手紙、送金記録、契約締結当日の出席者記録を確保」
「承知しました」
記録係が立ち上がる。
私は契約書をもう一度確認した。
不自然なのは、条項だけではない。
署名の順番。
証人欄の配置。
日付の筆跡。
そして、契約書の最後に小さく書かれた追記。
婚約破棄時の異議申し立ては、契約締結日より十日以内に限る。
「……十日以内」
私は呟いた。
クラリッサ嬢が不安そうに尋ねる。
「何か?」
「この追記です」
私は指で示した。
「契約締結日より十日以内に限る、とあります」
「はい」
「婚約締結は三か月前。つまり、この一文を盾に、相手はすでに異議申し立て期間は過ぎたと主張するでしょう」
クラリッサ嬢の顔がまた曇る。
「では、やはり……」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「この追記も、おかしいのです」
「おかしい?」
「婚約破棄が起きていない時点で、破棄時の異議申し立て期間が始まるのは不自然です」
ユリウス殿下が、私の言葉を引き取るように言った。
「つまり、相手は最初から婚約を続けるつもりがなかった可能性がある」
私は頷いた。
「はい」
クラリッサ嬢が息を呑む。
「最初から……?」
「持参金を受け取ることが目的だったのかもしれません」
言葉にすると、残酷だった。
だが、曖昧にしてはいけない。
曖昧な優しさは、時に被害者をさらに傷つける。
「クラリッサ嬢」
「はい」
「これからあなたには、つらい確認もお願いすることになります」
「……はい」
「婚約者を信じたい気持ちが残っていても構いません。怒れなくても構いません。泣いても構いません」
私は静かに続けた。
「ですが、あなたの財産と名誉を、相手の都合で奪わせる必要はありません」
クラリッサ嬢は、震えながらも頷いた。
「お願いします。私を、助けてください」
「助けます」
私は契約書を閉じた。
「ただし、私が代わりに怒るのではありません。あなたが正当に取り戻すための道を整えます」
ユリウス殿下が、私の横で静かに微笑んだ。
「エリス補佐官らしいですね」
「まだ初日です」
「初日から頼もしい」
「殿下、褒めても書類は減りません」
「では、私も働きます」
そのやり取りに、クラリッサ嬢がほんの少しだけ笑った。
それで十分だった。
泣きそうだった人が、少しでも笑えるなら。
そのために、私はここにいる。
やがて保全命令が発行され、クラリッサ嬢は一度屋敷へ戻ることになった。
その背中を見送った後、私は契約書の写しを手元に置いた。
法務卿が尋ねる。
「どう見ますか」
「単なる婚約破棄ではありません」
私は答えた。
「計画的な持参金詐取の疑いがあります」
ユリウス殿下の表情が引き締まる。
「ラングレー家を調べる必要がありますね」
「はい」
私は契約書の追記部分を見つめた。
小さな文字で、巧妙に忍ばされた一文。
けれど、記録は隠れない。
私は静かに言った。
「記録は、都合の悪い真実ほど正確に残ります」
これが、王宮法務局特別補佐官としての、最初の事件だった。