作品タイトル不明
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◆とある警護士
俺は伊藤。
とある警備会社の社員だ。
最近はベテラン勢に交じって、新人の指導を任せられることが増えてきた。
自分としては現場で働きたいのだが、今は待てと言われている。
近々、何やら動きがあるらしく、それまでは大人しくしていろと釘を刺された。
そんな中、お嬢様の友人である雲上院礼香さんが研修所にやってきた。
なんでも、弓子さん自ら指導に当たるらしい。
以前、短期間の研修を行ったが、今回は長期のものになるとのこと。
その研修に、自分も関わることになった。
弓子さんの手が離せない時は、俺が礼香さんを指導することになったのだ。
なんで俺が? と思ったら、礼香さんの指名らしい。
彼女とは面識がないはずなんだが、なぜだろう。
そんな小さな疑問があるくらいで、研修自体は非常に順調な進行となった。
予定していた日程を上回る速度で、工程が進んでいく。
その理由は、礼香さんの学習態度と吸収能力が高いためだった。
それだけでなく、彼女のモチベーションが異常に高いことも大きな要因だった。
とにかくやる気が凄いのだ。
誰かに強制的にやらされているのではなく、自ら望んで訓練に取り組んでいることが、その姿勢からよく伝わってくる。
教える側からすれば、非常に好感が持てる姿勢である。
しかし、そんな礼香さんだが、ひとつだけ分からないことがあった。
先ほども触れたが、自分と礼香さんは初対面のはずだ。
それなのに、妙に慕われ、懐かれ、どうにも距離感が近い。なぜだ。
コーチングに関しては手を抜かず、丁寧に指導しているという自負がある。
が、それだけでここまで親しくされるとは思えない。
そもそも、初対面での挨拶時から好感度が高かったような……。
どうしても理由が分からず本人に尋ねたところ、見慣れていて安心するからという、よく分からない答えが返ってきた。
前回の短期研修では、すれ違う程度だったと記憶しているが、一体どこでそんなに記憶に残ったのだろう。
そんなことを考えながら、基礎訓練に励む礼香さんを見守る。
凄まじい集中力で、声をかけても聞こえないことが稀にある。
非常にストイックな姿勢だ。学校にも通わず、全ての時間を訓練に使っている。
幼少期の真緒お嬢様みたいなスケジュールである。
自分は仕事だからという理由があるので、苦手なメニューも割り切って取り組める。
それに加えて休日もある。だが、今の礼香さんに休みはない。
体を休める際は、座学をやっている。ここに来てから、プライベートな時間は一切ない。
あの状況で給料を貰っていないのだから驚きだ。
むしろ、その逆。金を払って研修に参加している。
なぜ、あそこまで自分を追い詰められる。凄まじいメンタルだ。
バテて動けなくなっているところをしばしば見かけるが、その顔に諦めの色はない。
全く揺らがず、ブレていない。ギラギラとして前だけ見ている。
そんな礼香さんの姿を見て、弓子さんが黙っているはずがない。
恐る恐る顔を覗き見れば、鮫の様な歯を見せてニッコリ笑顔。
非常にご満悦の様子だ。
……まずい。
あれは、トレーニングが激しくなる前の前兆だ。
俺は良く知っているんだ。
あの顔を見た後に、何度とんでもない目に遭ったことか……。
しかし、大丈夫なのだろうか。
相手は雲上院家の一人娘だぞ。
弓子さん、やりすぎなければいいけど……。
俺は、礼香さんの身と、雲上院家からのクレームが来ないことを案じながら、訓練を見守った。
◆雲上院礼香
礼香は静かに目を閉じ、この数か月の事を思い返していた。
九白家に飛び込み、今日まで受けた訓練の数々。
一筋縄ではいかず、どれも苦労したが全てやり遂げた。
ここまで無事に完遂できたのは、弓子と伊藤のコーチングが素晴らしかったためだ。
自分に不足しているものを的確に指摘。
映像を利用した動きの修正。
専用の機材を用いた特化訓練。
どの訓練も指導者の存在が必要不可欠であり、その能力によって訓練生の成長も変わってくる。
二人の指導には感謝しかない。
やはり、ここに来たことは正解だった。
特に、雲上院家では手に入れられない知識と経験を積めたのが大きい。
非常に有益な時間を過ごせた。
が、それも残り僅か。
今回の訓練は、真緒が施設に収容されている期間中だけ行うという話になっている。
研修を続けた結果、そろそろ真緒がいつ出所してもおかしくない時期となった。
それに合わせて、訓練も最終段階に突入した。
残すは、二つの課題のみ。
一つは、現在絶賛受講中のサバイバル訓練。
それが終われば、最終試験も兼ねた実務訓練へ続く。
その二つを終えると、訓練の全課程終了となる。
――必ずやり遂げて見せる。
気持ちを新たにした礼香は、ゆっくりとまぶたを開き、眼前の景色を見る。
百八十度全てが海。足元を見れば砂浜。
気温と湿度の高さから、国内ではないことが想定される。
礼香は現在、無人島にいた。
ここでサバイバル訓練を行うのだ。
訓練の内容は単純明快。
決められた期限内を無人島で過ごす。ただそれだけ。
ただし、その訓練に挑む際の事前条件が厳しかった。
一つ目は、物資の持ち込み禁止。全て現地調達となる。
二つ目は、断食。開始当日まで食事を制限される。
疑似的に極限状態を再現するための処置だった。
それらに追加して、霊気の使用禁止が言い渡された。
もともと九白家の会社には霊術師が存在しない。
霊気の使用を想定した訓練ではないので、そうなったのだ。
かなり厳しい条件だが、事故が起きないように定期的にヘルスチェックが行われる。
一日に三度、監視員が島に来ることになっていた。
ただし、外部からの介入はそれだけ。行動不能と判断されるまで、一切手出しされない。
わざと体力と判断力を低下させた状態で、サバイバル訓練を行うという未知の体験。
この訓練だけは、行動不能判定での中断は絶対に避けたかった。
なぜなら、この訓練が雲上院家では絶対にできないからだ。
提案しても危険と判断され、計画段階で却下されるだろう。
確かに危険な部分もあるが、この体験で得られるものは計り知れない。
今の自分にとって、足りていないものと得られるものの吊り合いが非常に良いのだ。
雲上院家で生活を続ける限り、ここまでの極限状態に遭遇することはない。
この訓練に限ったことではないが、未知の体験から得られる知識と経験は望外なものである。
だからこそ、この訓練は何としてもやり遂げたかった。
胃根の一件以来、今回のような経験の必要性を痛感していたのだ。
――さあ、始めよう。
礼香は決意を固め、一歩踏み出す。
しかし、思った以上に自身の状態が不安定なことに気づく。
空腹感と喉の渇きが絶えず湧き上がり、思考を遮ってくるのだ。
「これは堪えますね」
雲一つない青空。照り付ける日差し。遮るものが何もないため、日光が容赦なく降り注ぐ。
結果、砂が熱を持ち、上下から暑さが襲い掛かってきた。
地面が柔らかい砂のため、歩行に負荷がかかり、地味に体力を消耗させていく。
一刻も早く水か食料を入手したいという思考が、冷静な判断を阻害する。
初挑戦ということもあり、思うように事が進まない。
だが、礼香はそのことで焦ってはいなかった。
うまく行かなければいかないほど、経験になる。
これが実際に直面した状況であれば、何かしらの被害に直結するが、今は訓練。
どれだけ、失敗しても許されるのだ。
この好機を利用し、あらゆることを試行し、経験を積む。
失敗すればするほど、同じ局面になった際に余裕ができる。
非常にありがたかった。
そう考えて、思考を落ち着かせる。
とはいえ、さすがに消耗が激しい。
休憩を挟まないと、まともに動けない。
ここからは知識と勘を総動員し、水を入手することに集中しないと。
そう考えていた時、突如背後から気配を感じた。
しかし、普段では考えられないほど察知が遅れた。
更には、体が思うように動かない。
振り向いて確認しようとするも、油が切れた機械の様に体が詰まって動かない。
消耗の結果、反応速度が低下しているのだ。
それでも、連日の訓練の成果が発揮される。
意識とは無関係に、体が自動的に回避行動を取った。
礼香は、距離を取るために前転しながら、背後に現れたものの正体を確認した。
それは一見すると、黒い獣に見えた。
初めは、この島に生息する飢えた獣が襲い掛かってきたのだと思った。
しかし、よく見ると様子がおかしい。
黒い毛並みだと思ったそれらは、全身が焼けただれているため。
四肢の一部が炭化しており、なんの動物なのか判別は不能。
更には、全身から霧のような物が出て、じわじわと端から消えていっている。
礼香は、獣の身体に起きている超常的異常から、相手が妖怪だと判断した。
その時、妖怪の背後に狭間のような空間の切れ目があることに気づく。
どうやらこの妖怪は、あそこから飛び出してきたようだ。
妖怪はこちらを睨み、威嚇の唸り声をあげている。
かなりの巨体であり、非常に狂暴。
負傷しているため、攻撃的になっているのだろう。
力をため込むように身構え、今にも襲いかかってきそうな気配だった。
もし監視員がこの状況に気づいても、ここまで到着するには時間がかかる。
助けは来ないと考えるべきだ。
そもそも、こういった状況も訓練の想定範囲内。
これは、元々そういう訓練なのだ。
相手が妖怪か飢えた獣かの違いだけ。
ならば、やることは同じ。
礼香は、構えを取る。
残念だが、逃走するほどの体力は残されていない。
今の状態では、数発の打撃を見舞える程度だ。
この訓練で霊術の使用は禁止されている。
つまり、この場を霊気抜きの体術で対処する必要があった。
――やるしかない。
すり減った集中力で、妖怪を観察する。
妖怪は相当弱っており、動きは鈍い。放っておいても絶命しそうに見えた。
今の消耗している自分でも、十分に戦えそうな相手だ。
油断しないように距離を取って様子を窺っていると、それは起きた。
何の前触れもなく、妖怪の背後にあった空間の切れ目から、全身が光輝く人のようなものが飛び出してきたのだ。
しかし、詳細を把握しようとするも、疲労で目がかすむ上に全身が発光しているため、はっきりと形をつかむことはできない。
あれは、妖怪なのだろうか。
発光するそれは、妖怪に覆いかぶさり、もみ合いになる。
本来であれば、その隙に攻撃すべきだった。
が、消耗のせいで急展開に付いて行けず、反応できなかった。
何より、あまりに激しく動くため、狙いを定めることができない。
逃走できるほどの体力もないため、逡巡の時間が過ぎていく。
こちらが何もできない間に、二つの存在は揉みあいながら空間の切れ目に呑み込まれていった。
「いくらなんでも、予想外すぎますわ……」
突然起きた出来事に、思わず声が出る。
一体あれはなんだったのか。
二匹の妖怪が、縄張り争いでもしていたのだろうか。
だが、光り輝く人影には違和感を覚えた。
以前もあれと似たようなものを見たような……。
気になった礼香は、精彩を欠く思考で必死に記憶を辿る。
そして、思い出す。
「あれは夢で見た……」
毒で意識を失っている時に見た夢。
夢の中で見た存在に、そっくりだったのだ。
「ふふ、夢の中でのことを現実で見たと勘違いするなんて、相当疲れていますね」
思考が鈍っていることに苦笑し、気持ちを切り替える。
そして、また同じようなことが起きないか、注意深く周囲の状態を探る。
しばらく様子を窺うも、変化はなかった。
あれらが、戻ってくる気配はない。新手が現れる気配もない。大丈夫そうだ。
そうなると、監視員も合流してこないだろう。きっと、このまま続行になる。
「朦朧として幻覚を見た、というわけではないことを祈りますわ」
そこまで疲労しているなら、ヘルスチェックに引っかかって中止になってしまう。
この貴重な機会を少しでも長く味わいたいと考えていた礼香にとっては、一番まずい状態である。
「早く水を探さないと」
当初の目的を思い出した礼香は、体力の消耗を抑えながら、慎重に行動を再開した。