軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七十話 いつもと同じ、そういう訳にはいかなくて……

東條家とキャンプに行った数日後。

晴翔は、いつもの様に東條家を訪れ、綾香の部屋で彼女と肩を並べて勉強に勤しむ。

「晴翔君、ここの問題なんだけど……」

「あぁ、これは設問の角度を有名角で分解して、後は加法定理で……」

晴翔は、自分の勉強の手を止めて、綾香に問題の解き方を説明する。

「あぁ、そっか……じゃあこれは、30°と45°で……えぇと、sinだから……」

綾香はシャープペンをノートにトントンと叩いて、公式を思い出そうとする。そんな彼女に、晴翔は助け舟を出す。

「咲いたコスモス、コスモス咲いた」

「あっ! そうだった! じゃあ、これはsin30°のcos45°で……」

晴翔の助言で綾香は三角関数の問題を公式に当てはめて解いていく。

程なくして答えに辿り着き、綾香は「ふぅ~」と軽く息を吐き出した。

「解けた~」

達成感に満ちた表情を浮かべる彼女。しかし、その次の問題も三角関数である事に「むぅ」と小さく唇を尖らせた。

「三角関数ってなんで習うんだろうね? サイン、コサイン、タンジェントなんて、社会人になったら絶対に使わないと思うんだけど?」

隣で可愛らしく不満を漏らす綾香に、晴翔は「ふふっ」と小さく笑みを溢す。

「高いビルが建っているのも、飛行機が空を飛んでいるのも、道路や車があるのだって、全部三角関数のお陰だよ?」

「そうなの? 本当に?」

「本当だよ。それに、三角関数をマスターすれば、ホールケーキを自由自在にカットできるよ?」

「え? ケーキ? どういうこと?」

晴翔の言葉に、綾香は頭上に疑問符を浮かべ首を傾げる。

「例えば、ホールケーキを三等分したいときは、2π/3って事だから、これを部分分数分解してπ/2+π/6にして、それでsinπ/6は1/2とイコールだから、ホールケーキの半分のその半分に印をつけて…」

「ちょっ! ちょっと待って! 全然意味が分からないんだけど?」

「え? そう?」

晴翔の説明を綾香は途中で遮る。

そんな彼女に、晴翔は首を傾げてキョトンとした表情をする。

「1:2:√3の三角形で30°はπ/6って夏休み前の授業で習ったでしょ? で、sinπ/6は…」

「わ~わ~わ~! もうsinとかπとか聞きたくないよ~!」

綾香は両手で耳を塞いで、首を横に振りながら晴翔の説明が聞こえない様にする。

彼女の抵抗に、苦笑を浮かべる晴翔。

「ちゃんとケーキを等分できないと、涼太君と喧嘩になるよ?」

彼のその言葉に、綾香は両手を耳から放して、ほんの僅かに晴翔の方に寄り掛かる様に体重を預けて言う。

「その時は、晴翔君にケーキカットお願いするもん」

「……ッ」

少し甘える様な声音で言う彼女に、晴翔は堪らず言葉に詰まる。

キャンプに行った日。

満天の星々の下で一緒に夜を過ごしてからというもの、綾香の距離感が近いと感じている晴翔。

そんな彼はと言うと、あの夜以来、いまだかつてない程に東條綾香という女の子が魅力的に感じてしまい、今この状況も彼にとってはかなり心臓に負担がかかるシチュエーションとなっている。

「ケーキを食べるときに、俺がいるとは限らないよ」

「……いてくれないの?」

魅力的な彼女を直視する事が出来ず、晴翔は自分のノートに視線を落としながら、力なく言う。

対する綾香は、視線を俯かせる彼の横顔を若干潤んだ瞳で見つめ、囁く様に問い掛けてくる。

「っ……どうだろう……そ、それよりも、真面目に勉強進めないと、もうすぐ夏休みも終わっちゃうし」

晴翔は、彼女から逃げるように話題を逸らす。

今までも恋人の練習などで、綾香に対してドキッとさせられたり、胸が高鳴ったりしていた。

しかし、あの夜を境に、晴翔の心は完全に彼女の虜になってしまったようで、以前の様な距離感でいると、自分の感情がどうしようもなく掻き乱されてしまう。

今日も、綾香は晴翔に対して恋人の練習をやろうと提案してきた。しかし、色々と感情のコントロールが難しくなってきている晴翔は、夏休みの宿題や休み明けの定期考査を理由に、彼女との練習を回避した。

「綾香には、休み明けのテストで良い点を取ってもらわないと。俺がバイト前に綾香の部屋に来ているのも、勉強を教える為って郁恵さんとかにも話してるし」

「うぅ……夏休み終わるのいやぁ……」

渋い表情を浮かべる綾香に晴翔も苦笑を浮かべる。

「テストの結果が悪いと、郁恵さんに怒られちゃうよ? 夏休み勉強してたんじゃないのかって」

「うぅ……それも、いやぁ……」

綾香は机の上にグデ~と腕を伸ばしながら、渋面を深めると、パッと何か思いついたように晴翔の方を向く。

「勉強って、何か楽しみがあると頑張れると思うんだけど」

「ご褒美って事?」

「うんうん」

綾香は先程の渋面から、表情を何やら期待に満ちたものに切り替えて、晴翔の事を見詰める。

「晴翔君がご褒美をくれるなら、勉強頑張れそう」

キラキラと輝く瞳で見つめられた晴翔は、少し悩んだ後におもむろに口を開く。

「……分かった。じゃあ全教科95点以上だったら、ご褒美ね」

「えぇ!? 95点は無理だよ! そこは60点以上にしよ?」

晴翔の提示した条件。

そのあまりにも高難易度な条件に、堪らず綾香は声を大きくして彼女なりの基準を言う。

それに対して、今度は晴翔が驚いた様な表情を浮かべる。

「えぇ? 60点は低すぎない? せめて90点以上にしようよ」

「私、晴翔君ほど勉強できないもん。70点でどうかな?」

「う~ん、じゃあ……85点」

「75」

「…………分かったよ。それじゃあ全教科80点以上でご褒美って事でどう?」

彼なりに結構妥協した条件を提案する。

それを聞いた綾香は、ニッコリと笑みを浮かべて頷く。

「決まりだね! よし、勉強頑張るぞ!」

気合いを入れて参考書と向き合う綾香。

真剣な目付きでノートに書き込む彼女の表情は、どこか満足そうである。それを見て晴翔は、まんまと綾香の交渉術に嵌ってしまったと苦笑いを浮かべながら、自分の勉強を再開した。

その後は、二人とも真面目に勉強を進める。

時折、綾香が晴翔に分からない箇所などを聞き、それを彼が丁寧に教えたり解説をしたりと勉学に励む。

暫く、そうやって勉強に集中する二人。

そこでふと、晴翔が部屋の中がやけに暗くなっている事に気付く。

部屋の壁掛け時計に視線を向けると、現在の時刻は14時半過ぎ。まだまだ、陽の光だけで十分に明るい時間帯である。

「天気、悪くなってるのかな?」

窓の外の空模様を見ながら、晴翔がポツリと呟く。

その言葉に、ノートと向き合って集中していた綾香も視線を上げて、部屋が暗くなっている事に気が付く。

「本当だ。明かり点けよっか」

彼女は机の上に置いていたリモコンを手に取って部屋の照明をつける。

「朝の天気予報はずっと晴れって言ってたんだけどな」

「なんか降りそうだよね。雨」

どんよりと低い位置に垂れ込む分厚い雲を窓の外に見ながら、二人はそんな会話を交わす。

すると突如、まるでバケツをひっくり返したかの様な激しい雨が降り出した。

ザーッと激しく屋根を打ち付ける雨の音。

綾香はほんのりと不安そうな顔で、晴翔を見る。

「凄い雨だね」

「だね。最近こういう天気予報に無いゲリラ豪雨みたいなの多いよね」

ここ最近の、夏の不安定な天気。

雨は勢いが弱まるどころか、更に強くなっていき、それに比例して雨音も大きくなり、窓の外も暗くなっていく。

昼時だというのに、外はまるで夕暮れの様な暗さになっている。それに加えて、激しさを増していく雨音。

段々と荒れていく窓の外を二人は黙って見つめ続ける。

そこに、一瞬だけ閃光が走り、その数秒後に地鳴りの様な重低音が響く。

「雷、鳴り出したね」

「……うん」

弱々しく返事をする綾香は、心細げな表情を浮かべてスッと晴翔に体を寄せる。

彼女との密着度の高さに、晴翔の心情は外の天候以上に荒れるが、それを必死に抑え込む。

純粋に雷鳴に対して怯えている綾香を突き放す訳にはいかず、晴翔は彼女を安心させるように、そっと背中に手を添えてあげる。

とその時、目が眩むほど窓の外が明るくなり、それと同時に家が揺れる程の巨大な炸裂音が鳴り響く。

「きゃッ!?」

思わず悲鳴を上げる綾香。

体をビクッと跳ねさせて、晴翔の右腕にギュッと強く抱き付く。

「っ!?」

爆発する様な雷鳴と共に、腕に感じる柔らかい感触。

晴翔は反射的に腕を引こうとしてしまった。

その瞬間にパッと照明が落ち、部屋の中は薄暗い闇に包まれた。

「わわッ!?」

「ちょ!?」

晴翔が腕を引いたせいで、彼の腕をがっちりと掴んでいた綾香は体勢を大きく崩し、晴翔の方へと倒れ込む。

それを彼は受け止めようとする。

しかし、突然の雷鳴と停電、それに加えて彼女との密着で晴翔は気が動転しており、そのせいで上手く体を動かせず、結果として綾香の下敷きになる形で倒れてしまった。

「あっ…………」

「ッ…………」

晴翔を押し倒してしまった綾香。

綾香に押し倒されてしまった晴翔。

二人は驚きの表情を浮かべたまま、黙ってお互いの瞳を見つめ合う。

停電によって薄暗くなった室内。

晴翔の耳に入るのは、激しく打ち付ける雨の音。

そして、それに負けないくらい、激しく胸を打ち付ける鼓動。

彼はまるで金縛りにあったかのように、自分の上に乗る綾香から目が離せなくなっていた。

今すぐにでも起き上がって、彼女から離れないといけない。

頭では分かっている。しかし、身体が言う事を聞いてくれない。今の彼の身体は、頭ではなく心に従ってしまっているようだ。

雷雨をもたらす曇天に、薄暗くなっている部屋。

それでも、ハッキリと見える距離感にいる彼女の瞳を只々黙って見つめている晴翔。

そんな彼の耳に、激しい雨音に掻き消されてしまいそうな、そんな細く震える声が聞こえてくる。

「晴翔君……」

彼女は、真っ直ぐに晴翔の瞳を見詰めながら、薄く唇を開く。

「そういえば……まだ、恋人として……一番大切な練習……してなかったね……」

熱がこもった様な、それでいて儚げでもある彼女の囁き。

「え……や……」

晴翔は言葉を発する事が出来ず、意味をなさない音だけが彼の口から洩れる。

言語を失ってしまったかのように、ただ口を小さく開いたり閉じたりを繰り返す晴翔。

そんな彼の唇に、綾香はゆっくりと自分の唇を近づけていく。

彼女の柔らかく、艶のある髪がサラサラと流れて晴翔を覆い、外界を遮断する。

今の彼の視界には、次第に近づいてくる綾香しか目に入らなくなっていた。

晴翔の脳内では、理性が必死に警鐘を鳴らしている。

綾香は本当の恋人じゃない。

こんな事はしてはいけない。

恋人の練習、そんなものを言い訳にしていい筈がない。

しかし、彼の身体は心に支配されてしまっている。

その心は、彼女を求めている。

綾香の顔が、いまだかつてない程近付き、彼女の熱い吐息を感じる距離まで接近した。

その時、パッと部屋の照明が付き、重なり合っている二人を明るく照らし出す。

いままで薄暗い中にいたところから、急に明るくなった事で晴翔は一瞬我に返り、その隙に理性を総動員する。

両手を綾香の両肩に添えて、優しく押し返す。

最初は少し彼女の抵抗を感じたが、それでも晴翔が押し続けると、やがて観念した様に綾香はゆっくりと晴翔から離れる。

上にいた綾香がいなくなり、上体を起こす晴翔。

隣では彼女が、耳まで真っ赤に染めながらも、涙が浮かんでいそうな程潤んだ瞳で晴翔を見詰める。

「ねぇ……晴翔君……」

名前を呼びながら、再度距離を縮めようとする綾香。

そんな彼女に、晴翔は胸が爆発してしまいそうな感情を抱きつつ、慌てた様に言う。

「あっ、もう三時になるから家事代行の仕事始めないと!」

晴翔は急いで机の上に広げている勉強道具を片付けると、そのまま逃げる様に綾香の部屋を後にした。